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奇跡も語る者がいなければ

奇跡も語る者がいなければ

 静謐なプロローグ。読者の眼前には今まさに眠りに就こうとする街の全景が描き出される。街のあちこちで鳴り響く警報器の音が、まるで人手の足りない孤児院で泣きわめく赤ん坊の声のよう。おっと、やるなあ。騒音にまみれた街の情景が活写されているじゃないか。このくだりだけで、『奇跡も語る者がいなければ』の作者、ジョン・マグレガーが卓抜な比喩の使い手であることがわかる。

 続いて、とある通りで起きた事件を描く断章が挟まれる。ただし、事件のあらましについてはまったく語られることがない。作者は、もどかしいほどの遅さで事件に至るまでの一日の出来事を書き綴っていく。その中で少しずつ情報が明かされるのだ。ここが貧しい地区で、非白人や学生の住人が多いこと、この日が英国の学制ではは年度の最終日であること、などなど。でも事件についてはゼロ。

 実は、作者はもう一筋の別の語りを準備している。事件の目撃者である「わたし」の、事件から三年後の物語だ。これがまたもどかしい。彼女は何かの問題を抱えているようなのだが、それが何か、一向に語ろうとしないからである。結局全体の三分の一まで読み進めたときに問題の正体は明らかになる。だが今度は三年前の事件と現在との関連性がわからない。作者はなぜ二つの時を並列で語ろうとするのか。これがおそらく読者に提示された最大の謎だろう。

 ただし推理は可能である。たとえば、現在の物語の主人公は自分の過失で手に怪我をするが、三年前の物語にも手に火傷を負った男が登場する。二つの物語は音楽で言うところの対位法、すなわち主旋律を副旋律が補う方式で綴られているのだ。ここで効いてくるのが作者の比喩の力。通りの住人は漫然と造形されたわけではなく、それぞれが隠喩的な意味を担っている。その隠喩こそ主副の物語の交差を示す鍵なのである。それを頼りに、ミステリーよろしく頭を働かせつつ読むこと。間違っても解説から読んだりしちゃだめだぜ。

 謎に物語を牽引させるという手練の技を駆使する作者だが、二〇〇二年の本書がデビュー作。にもかかわらず、これでサマセット・モーム賞とベティ・トラスク賞をダブル受賞した。この小説はイギリス人なら誰でも知っているある事件から想を得て書かれたものらしい。しかし、そんなことを日本人読者は知らなくてよろしい。単一の着想にすべて還元できるほど底の浅い物語ではないからである。

 本書の登場人物は、ほとんどが名無しの存在だ。冒頭の情景が無名の人々の眠る街の情景であったこともそこにつながっていて、作者はこの小説から固有名詞の特異性を可能なかぎり消し去っている。どこの誰にでも起こりうる出来事として、これを物語るためだ。個人を超越したものについて語るからこそ、本書には奇跡の二文字が冠されたのである。恋人が死んだりエイズに罹ったり、我が身の不幸「だけ」を泣き叫ぶ小説に飽きた読者にぜひともお薦めしたい。

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 非常にシンプルなストーリーである。  ある(架空の?)通りの一日の出来事を描いている。登場人物はその通りに住む三十人ほどの人々。男もいれば女もいる。大人もいれば子どももいる。若い人もいれば、年寄りもいる。それぞれがそれぞれの人生を生き、それぞれの問題や... [Read More]

Tracked on June 11, 2005 at 08:48 PM

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