ぼくのともだち
「人と並んで歩くと、知らず知らずのうちに相手を壁に押しやる癖」の人がいる。自分の足元しか見ていないせいだ。『ぼくのともだち』の主人公、ヴィクトール・バトンがそれ。
『ぼくのともだち』の発表年は一九二四年。エマニュエル・ボーヴのデビュー作である。彼の作品が邦訳されるのは、これが初めてだ。一九四五年に没した後、ボーヴの名は本国フランスでも一九七〇年代の半ばに再評価されるまで忘れ去られていたという。一九五、六〇年代といえば、フランスの政治参加の季節だったから無理もない。『ぼくのともだち』は、デモの最中に読まれるような、声高の主張を述べた小説ではないのである。
ここに綴られているのは、ヴィクトール・バトンのかそけき呟きだ。彼はパリの郊外にある、風が吹くと鎧戸が外れてしまうような旧いアパートに住んでいる。収入は、第一次世界大戦に従軍したことで貰うようになった傷痍軍人年金だ。つまり無職なので勤労者である他の住民たちとそりが合わず、いつも「ともだちが欲しい。本当のともだちが」と願っている。本書の中で、彼は幾度かその機会をつかみかける。相手はリュシー・デュノワ、アンリ・ビヤール、船乗りのヌヴー、ムッシュー・ラカーズ、ブランシュといった人々だ。しかし、誰もともだちにはなってくれないのである。ヴィクトールがとんでもなく身勝手な男だからだ。たとえばビヤールに恋人がいると聞けば、醜女であることを願うほどに(恋人が不細工なら、彼の関心を奪えるかもしれないからね)。実際、ビヤールの恋人・ニナを見てヴィクトールは有頂天になる。彼女が下肢障害を持っていたからだ。ひどいよ!
しかしヴィクトールに友人ができない真の理由は、別のところにあるような気もする。実は彼氏、かなりの好色漢なのだ。彼はなかなか鋭い観察眼の持ち主なのだが(緻密な風景描写は、本書の魅力の一つである)、推察するにその能力は異性の鑑賞によって培われたものである。たとえば彼は、牛乳屋の売り子をしている隣人の女性の「フェルトのスリッパには牛乳の染みがある」ことに気づく。彼が「スリッパを履いた女性が好き」で「脚が無防備な感じがするから」注意が向くのである。おまけに彼には、目の前の女性が自分を愛しているという妄想を抱く癖がある。先述の下肢障害を持ったニナのことも、彼女がビヤールを棄てて自分の元に走るつもりなのだと一方的に思いこむ始末なのである。つまりともだちは欲しいが愛人はもっと欲しいというわけだ。妄想だけではなく「一度くらい、悲しみを忘れ、羽目をはずして楽しんでも、罰は当たらないだろう」と実践に乗り出すことさえある。純真無垢な人物を想定してページを開いた読者は幻滅するかもしれない。
ヴィクトールを見ていると、江戸川乱歩(ボーヴよりも四歳年上だった)の猟奇小説に登場する主人公たちを思い出す。乱歩の分身でもある彼らは、一様に社交性を欠く、内向的な人間として描かれた。人と巧く交われない分欲望が内に籠もり、押絵に恋したり人間椅子になったり女優を剥製にしてみたりという爆発に向かってしまったのだ。ヴィクトールにはそこまでの無法さはないが、自滅しようが孤立しようがともだちができなかろうが、おのれのエゴを押し通さずにはいられない生き方は、乱歩の産んだ猟奇の愛好者たちと同族の匂いを感じさせる。彼らは「人を壁に押しやらずには歩けない」人種なのである。「人でなし」なのである。たぶんヴィクトールは、自分がそうした「人でなし」であることを自覚し、諦めている(そうさせたのはたぶん、人類史上初の近代戦争だ)。だからこそアパートに籠もって暮らすのである。蔵に籠った乱歩のように。それでも淋しくて、彼はときどき涙を流す。嫌われ者の鰐だって、小鳥を食べなきゃ生きられない我が身が哀しくて泣くことはあるという。本書でぼそぼそと語られるのは、そうした類の哀しみなのである。(小説すばる)※1
※豊崎由美さんの「書評の愉悦」講座のために書いた原稿。おしまいに「小説すばる」と括弧書きがあるのは、「どの媒体に向けて書いた書評原稿であるか」設定が必要であったため。