(1/6)○○が「能」と同じ道をたどりそうなのは、たしかである
大晦日から元日にかけて実家で過ごした。懐かしい本棚から手に取った一冊が、本年最初に読んだ本である。立川談志『現代落語論』、三一新書版だ。一九六五年に刊行された本だからもちろん新刊ではない。奥付を見ると、一九八二年に第一版第十七刷が出ている。ロングセラーだったのだ。驚くべきことにこの本、まだ現役なのである。現在出ている版は家元の「これが落語家の初めて書いた本である」との自筆帯がついている。
今月復刊された三代目三遊亭金馬の『浮世談語』に、家元が「その昔、咄家が出す本を見て、「本」と名付けていい内容のあるのは金馬師匠だけで、その後立川談志が出てくるまで一人もいない」という帯推薦文を寄せているのは、これを受けているのである。
題名にしたのは、『現代落語論』の有名な掉尾の文章だ。○○には、みなさんお好きな言葉を入れるといいよ。落語というジャンルが没落するはるか以前から、家元は古典芸能の行く末に警鐘を鳴らしていた。終章「わたしの落語論」だけでも後世に残る内容の本である。どんなジャンルでも、時代と競り合うことができなくなれば途端に没落する。自身が属しているジャンルに風化の気配を感じた人は、ぜひこの文章を読むといい。
家元は芸人を、マスコミの寵児、そこまではいかないが試行錯誤をしている努力家、時代に背を向けて古典の世界に留まる昔堅気、という風にわける。第二のグループに共感を示しているのは、当時自分が置かれていた立場を重ね合わせたのだろう。「(試行錯誤を)やってみるということはその結果成功しなくても、わたしは芸人としてみたとき、たいへん彼らが好きだ」という、文章が途中で拠れて、主語がすり替わってしまっている文章がたいへんに私は好きである。「たいへん彼らが好きだ」と、執筆の中途で書きたくなってしまったんだろうな、と思うのである。家元の文章にはそういうところがある。ぷいと気が向くと、文意の統一を犠牲にしても、その時々の本音を書いてしまうのだ。もちろん、パラグラフ全体で意味は通るので、下手な文章というわけではない。
「わたしの落語論」以外の章はそれほど刺々しくないし、むしろ古典芸能としての落語の本質に対し、自身の愛着を存分に語っている。その上で最後に寸鉄を効かすのである(立川志らく『全身落語家読本』は、これと逆で、冒頭に読者を牽制する章を置いている。師匠の逆を狙ったのだろう)。だからこそ意見が身に沁みる。この本で家元が「落語の本質である人情の豊かさ」とはっきり書いている点は、記憶しておくべきだ。「業の肯定」であるとか、「イリュージョン」であるとか、とかくエキセントリックな方面ばかりが喧伝される談志の落語論だが、もっとも下部にはそうしたまっとうな古典落語観が置かれているのです。
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