(4/30)SPA!
「週刊SPA!」の見本をいただく。今週号に描いた書評は、柄刀一『奇蹟審問官アーサー 死蝶天国』(講談社ノベルス)。ゾンビが出てきます、ゾンビが。ゲッツ板谷さんの連載は終了して、まもなく『真・板谷番付』が単行本として出る由。
今から小学校に行ってきます。今日は先生方の歓送迎会なので挨拶をしなければ。
「週刊SPA!」の見本をいただく。今週号に描いた書評は、柄刀一『奇蹟審問官アーサー 死蝶天国』(講談社ノベルス)。ゾンビが出てきます、ゾンビが。ゲッツ板谷さんの連載は終了して、まもなく『真・板谷番付』が単行本として出る由。
今から小学校に行ってきます。今日は先生方の歓送迎会なので挨拶をしなければ。
昨夜は都内飯田橋で、湊かなえさんのインタビューであった。結構な時間お話していたのだが、そのうちの半分くらいは、小説と関係のない四方山話。あんなことでちゃんと記事にまとめられるのか。いや、大丈夫。
ちなみに取材を始めたのが午後六時。「歩こう会」が終了して自宅に着いたのが午後四時半だったから、本当にぎりぎりだった。「歩こう会」で不慮の事態が出来したら、間に合わなかったのである。緊密スケジュールもいい加減にしよう、と思いました。
取材後、飯田橋から南北線で目黒駅まで帰ることにした。目黒駅から一駅の、恵比寿駅がJRの最寄駅なのですね。ところが電車に乗って、腰を下ろした瞬間に猛烈な睡魔に襲われてしまい、昏倒。気がついたら電車が目黒駅を出たところであった。仕方なく次の駅である不動前で降りたのだけど、目の前の光景にそこはかとなく見覚えが。
これって、昼間の「歩こう会」で通った場所じゃん。
よく考えたら、駅から出ずに目黒駅まで引き返せばよかったのか。でも、一日に二度同じ場所に来たというのが可笑しく、面倒くさいから同じ道を通って帰ったのだった。子供たちよ、私は一日に一往復半、あの行程を歩きましたよ。おかげで今朝は下半身ががたがたです。
午前一時を回っているというのにまだ床に就くことができないでいる。今日は朝から「歩こう会」の日なのに。朝一でおかずを作って子供と自分の分の弁当を作らないといけないのに。あと八時間したら歩き始める日なのに。やれやれ。
歩こう会というのは、区の恒例行事で、地区ごとに子供たちが集合し、区内の公園目指してひたすら歩いてくる、というものである。特に何か特典があるわけでもなく(たしか、お菓子と花の苗がもらえる)、歩くことが目的。それ自体は健康増進のために素晴らしいことである。
だが昨年の歩こう会では、子供たちが炎天下で一時間近くも待機させられるという信じられない出来事があった。このブログでも以前に書いたとおりである。なぜそんなことが起きたかというと、「歩こう会」の事務局の信じられない非常識さのせいだ。子供を立たせたまま、延々と式典を行い、小学生にとってはどうでもいい来賓紹介などを続けたからである。児童虐待もいいところだ。さらに馬鹿げていることに、こうした愚行はここ何年の間、ずっと繰り返されてきたようなのである(一昨年は雨で流れたが、その前の年にもやはり式典はあった)。
今年も同じことをされたら、私はポーズではなくその場で激怒すると思う。というのも、昨年、あまりに腹が据えかねたので、区長と区の教育長、歩こう会の事務局に対して署名入りで抗議文を送ったからである。区長と教育長からは返事がなかったのだが、事務局からは以降反省して改めるという返事がきた。その言葉が嘘にならないことを祈るのみである。もしくだらない式典が長時間行われるようなら、その場で介入して中断させる。
会の今後のためにも、強硬手段をとらずに済むことを祈りたい。
見本誌が到着した。「ポンツーン」は先日紹介した草下シンヤ『あしあと』(幻冬舎)に関する書評である。「週刊文春」のほうは、時代小説特集への寄稿だ。時代小説に関する年表を作成しているので、関心がある方は見てやってくださいな。
少しだけ休憩中。文庫解説を今日中に書いてしまいたいのに。あとPTA総会の資料も午後のうちには作ってしまいたいのに。パソコンの前に這ってきて、落ちる寸前だった週刊誌原稿を入れた。一時間だけ、いや三十分だけ寝かせてもらえれば回復します。本当だよ。
塩山本を一通り読了したので、出先で書店に寄った。唐沢なをき『まんが極道』の三巻が出ているではありませんか。漫画界のああもあろうこうもあろうという真実を赤裸々に描いたシリーズで、漫画家志望者のみならず文筆とか絵とか音楽とか、とにかく何かの表現で食って生きたいという夢を抱いている人々に、耐え難い心の傷を与える作品である。だからこそおもしろい。巻数を重ねるごとに笑えない表現が増えてきていて読む度に胸中のどこかが引き攣れる思いがする。ゆえにおもしろいのであるが。
未読の方のために、痛い部分の一部をネームでご紹介しましょう。吉虫給(25)が同人仲間に自分のイラストを見せながら言い訳する場面である。
--すごく古いんだよこの絵っ 今はもっとマシになってるんだよね言っとくけどっ
--ちょうど技術がステップアップする端境期の絵でさ 納得いってないさ自分でも
--こっちのやつも もう3年近く前のイラストでさあ! いや このとき俺は若かったよ本当
--ああ この絵はMacで描いたんだけどさ ちょっとプリンタの調子が悪くて いやまいった でもあるよねそういうこと
--これは試験の合間にまにあわせで描いたのね 時間がなくてさ やっつけとしか言いようがない
--いや これ描いたおきなんか最悪の最悪っ 気分のらなくてさ もうテキトーに
あいたたたた。でもこれはまだ笑って読める箇所だ。「僕は漫画家(うそ)」とか「ポジティブくん(50)」とか平穏な気持ちで読めない人がたくさんいるはずである。特に「ポジティブくん(50)」はねえ。デビュー三十周年、五十歳にして連載が隔月誌の読者投稿ページ漫画六ページだけという(今までに出した単行本は四冊)覆水凡児が主人公なのだが……どうしてこういう嫌な漫画を描けるのか。怖いよう怖いよう。
塩山芳明氏の最新刊『出版奈落の断末魔 エロ漫画の黄金時代』は、版元のアストラが刊行していた雑誌「記録」の連載「エロ漫画で食う」を単行本化したものだと思われる(本のどこにも書いていないのだが、『出版業界最底辺日記』などの記述から類推)。連載から十年近い時間が経っているため、業界記としては内容が少しだけ古くなってしまっている。そのため冒頭に「序章」として現在の状況が記され、過去に遡る形式の構成になっているのである。
過去の塩山氏の著書を読んだ人間にとっては『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』『出版業界最底辺日記』の登場人物の「その後」を知ることができる本だ(漫画屋の吉田婆ちゃんこと吉田好貢氏の近況も)。もちろん初めて塩山本に触れる人にとっては、業界の入門書として興味深いはずである。特に現在三十代後半から四十代前半で、過去にサブカルチャーにかぶれたことがある人は、本書を絶対に読んだほうがいい。かつて、エロ・メディアがサブカルチャーの培地として栄えた時代があった。マイナーなメディアだから編集方針の自由度が高く、表現の実験が可能になる。ひねくれた言い方をすれば、状況の緩さが書き手の甘えを許したのである。そのため、単なる入れ物にすぎないエロ・メディアに、過大な幻想を抱いた者もいた(私もその一人である)。そうした思い入れが一部のマニアックな読者の思い入れに過ぎなかったことを、本書によって思い知らされた。いや、すでに気付いてはいたんだけどさ。塩山氏は、エロ本作りというモンキー・ビジネスの中で踊った人々の群像を、当事者ならではの視線で伝えてくる。
昨今の漫画界にはトレース検証サイトのような形で作家の模倣を告発する読者が増えている。ツールが進化し、廉価化したことによってMAD動画やCG、コラージュが個人でも簡単に作成できるようになった。その反面、作家性の神格化も進んでいるようにも思えるのだ。作家の創作性に対する無邪気な憧憬の念が、いわゆるパクリ行為へのヒステリックな批判として現れる。「そのくらい(パクリ行為)なら、俺にもできるのに」という妬みの感情があるのだ。「やろうと思えばいつでもできる」「だけど(諸般の事情から)今はやらない」「やっている人間をとりあえず尊敬する」という屈折した三段論法が神格化の背景にあるはずである。本書では、そうした屈折の構造とは無縁の、漫画製作の現実が語られている。エロ漫画家という、憧憬からは程遠い(失礼!)職業は、なろうとしてなるものではなく、なってしまうものなのだ。「消えない漫画家のほうがアホ!」というのは、遠山氏の本音だろう。でも書いてきてしまう人がいるから、雑誌製作というビジネスが成り立つ。そうした、必然的に生まれてしまう灰汁のようなものとして遠山氏はエロ漫画業界を語るのである。なんの気取りもない態度にひたすら魅了される。
もちろん、エロ・メディアに対する嘘偽りのない意見も開陳されている。エロに聖性を求めるようとする言説が、エセ文化人の欺瞞にすぎないことを、塩山氏は率直な物言いで証明するのだ。
「でかい声じゃ言えないが、エロ漫画誌に限らず、あらゆるポルノは差別的だ。差別度が深いほど商品価値は高まる」
この本音から出発しているからこそ、本書の内容を100パーセント信用することができるのである。
まだなの? 自由業だから、連休なんて原稿の〆切調整以外なんの関係もないです。
朝起きたら、口座から消費税と健康保険関係のお金が一斉に引き落としされていた。いずれは支払うべき義務のあるものなのだけど、やはり切ないものである。これでおしまいじゃなくて、まだ固定資産税と国民年金があるのだよな。それに比べたら微々たる額ではあるけど、小学校のPTA費と給食費も引き落とされる。本を預けている倉庫の管理費もか。今日から猫まんまでしのぎながら節約生活しなければ。
猫まんまといえば、遠藤哲夫氏が研究家として有名である(通称エンテツ。交流があるらしく、塩山芳明氏の著書にも名前が出てくる)。
ご飯に鰹節と醤油をかけたものが東日本、汁をかけたものが西日本、といった具合に地方によって猫まんまと呼ばれる食事の形態も異なる。遠藤氏の『汁かけめし快食学』は、猫まんまについての体系的な考察を行った画期的な著書だった。内容はおもしろいのだけど、この人は非常に癖のある文章を書くもので、気軽には読めないいのだよな。好事家向けの本である(公式サイトで見たら絶版になったと書いてあったが、マーケットプレイスから購入可能)。
今年になって『おとなのねこまんま』という綺麗めのレシピ本が出たが、労働者食の「猫まんま」とは別種の「かわいいごはん」といった趣きである。これは売れているらしいね。
私は東日本の出身なので、猫まんまといえば鰹節飯のことだと考えていた。鰹節飯なら、弁当の定番である。アルマイトの弁当箱に、ご飯、鰹節(+醤油)、海苔の順番で入れ、それを三層繰り返す。あえて蓋をして、海苔をゴム状になるまで湿らせてから食べるわけである。作ってから三~四時間後が理想かな。おかず不要、食べ盛りの中高生向けの高カロリー食だ(外で買う弁当だと白身魚フライなどが入っているが、真ののり弁には不要)。だから今は年に一度ぐらいしか食べない。
汁かけ飯としての猫まんまなら、大根と油揚げの味噌汁が一番だと思う。千六本の大根と油揚げで味噌汁を作り、具はもちろん先に全部いただいてしまう。汁だけになった状態で、ご飯にかけるわけである。これだったらやはり、他におかずは要らない。貧乏食であり、正しい猫まんまだと言える。
昨日は地域ボランティア団体の会合で遅くまで。私が最年少ということでも判るとおり、ご多分にもれず高齢化が進んでいる。行事にバスハイクが多いのも、電車を利用すると、子供たちの面倒を見切れないから。「私そろそろ物忘れが激しくなってきたから」「連絡をとりあって漏れがないようにしましょう」などと、お互いの能力の衰えを労わりあう美しい会合である。二十代の人とか、来てくれないかな。
本日は後輩・変態M1号君が結婚するというのでお祝いである。式は挙げないそうなので、これがうちうちの唯一のお祝い。
「じゃあ、奥さんとも初顔合わせになるね」
「いや、奥さんは呼ばないって言ってた」
「なんで。それじゃ意味ないじゃん」
「破談になると困るからって」
「……」
彼がわれわれをどういう目で見ているのかよく判りました。
最新号の見本誌が到着。ドナルド・E・ウェストレイク追悼特集は、哀しくてまだ読めない。
レビューで担当したのは、パーシヴァル・ワイルド『検死審問ふたたび』、サンドラ・パーシャル『冷たい月』、マリー・フィリップス『お行儀の悪い神々』、アラン・ベネット『やんごとなき読者』である。後ろの二冊はミステリではなくてコミック・ノヴェルですね。
いちばんのお薦めはパーシヴァル・ワイルド。詳細は本誌のレビューを読んでいただきたいが、実は、私はこの小説をはるか以前に読んでいた。前作『検死審問』の解説を書いた際、すでに訳文の初稿は上がっていたのだ。解説者ということで、訳者と編集者以外では最初の読者となるという役得に預かれたわけである。えへへ、お先に失礼しました。早く出版されないものか、と心待ちにしていたがようやく出た。みなさんも早く読んだほうがいいです。大傑作だから。
もう一冊お薦めするとしたらアラン・ベネットで、これは英国女王陛下が突如読書に熱中し始めてしまったらどうなるか、というIFの小説である。読書小説なので、そういうタイプの作品が好きな方には絶対お薦め。チャーミングである。
起床して確認したらいつもはほとんどないトラックバックが。訝しく思い確認を。六本木の公園で全裸になったタレントに関するものばかりで思わず爆笑。「嫌われ者」のタイトルがついたエントリーにトラックバックをかけるとは(おそらく自動なのだろうけど)どういう悪意の持ち主なのか。朝の爽やかな目覚めをさらに爽やかにしてくれたひょうきん者に感謝しつつ、事務局に迷惑通報して削除を(以上塩山文体を模写してみました)。
仕事の合間に塩山本を読んでいるのだが、そのさらに合間に別人のエッセイを読むと、まるで出汁もとっていないような薄味の吸い物を飲まされた気分になる。もちろん塩山本のテイストは、化学調味料ごっそり、塩分がっつり、脂分こってり、ついでにニンニクましましの次郎ラーメンだ(豚ダブルでお願いします)。
その不幸な本とは原田宗典『じぶん素描集』だ。十年に一度のオモシロ本を相手にして分が悪いのは確かなのだが、それにしても退屈な本である。理由は簡単で、原田宗典の「じぶん」「素描(スケッチ)」なのだから、「じぶん」が退屈なのである。本人が退屈な人間はエッセイを書くな。
別に物を書くなと言っているわけではない。自分が退屈な人でも物語を創作すればおもしろいという人はたくさんいる。ほとんどの作家がそうだ。「小説すばる」誌はよく新人作家にエッセイを書かせるが(仕事が少ない駆け出し作家への救済措置の意味がある)、私はほとんど読まない。まだ一般人の自我しか持ち合わせていない作家のエッセイを読んでも、失望するだけだからだ。新人作家の書く、エッセイは90パーセントが退屈で、残る10パーセントのうち9割が鼻持ちならない自慢話である。エッセイとして読んでおもしろいのは1パーセント以下だろう(数少ない例外は、たとえば曽根圭介だ。作家デビュー前、アルバイト生活をしていた曽根が親戚の集まりで逆差別された、という話を読んだが、あれには爆笑した)。
書評を含むコラムとは、取材して自分なりの論点を読者に提供するものである。そしてエッセイは、自分の切り売りをするもの。取材のないコラムがありえないのと同様、自己をさらけださないエッセイにはなんの存在価値もない。たとえば中村うさぎは買物依存症という自己の切り売りで一般誌でブレイクを果たしたが、連載が続くうちに愚にもつかない床屋政談のようなものを書くようになり、エッセイとしては質が落ちた。その後は、買物依存症どころか、もっと痛々しい方向へと自分を追い込んでいるのは、読者もご存じのとおり。痛々しいから止めたほうがいい、と普通の人間のセンスなら思うのだが、それをしなければエッセイストではいられなくなる、という書き手の焦りがあるのだろう。この道から抜け出るには、自己のありようをフィクションとして昇華する道を選ぶ以外にありえない。その方策をずっと中村は模索しているように見える。岩井志麻子もそうなのだが、交遊録を書いたり、座談会に出たりするような、つまらないお座敷を断って創作を行ったほうがいいと私は考える。
脱線したが、要するに『じぶん素描集』は退屈だった、という話であった。たとえば「驚きのストリートビュー」というエッセイは、原田が娘にグーグルのストリートビューを教えられ、実際に試してみると我が家が映っている。それどころか原田の妻もモザイクつきで映っていて、連れていた飼犬の顔にまでモザイクがかかっていた。「思わず笑ってしまったが、その後「う~む」と考え込んでしまった/いいのか、これ? これでいいのか?」という内容である。いや、本当にそれでいいのか?
毒にも薬にもならないほんわかしたものが好き、という人も世の中にいるから、本書の需要はあるだろう。「ひらがなのインパクト」というエッセイで原田は、お土産にもらった「うこん入り、粒黒糖」のラベルを読んで「これを見て「ハッ!」としない人が、はたしているだろうか。それとも「ひらがなのインパクト」を感じるのは僕だけ、だろうか?」と感想を述べる。「~するのは自分だけだろうか」というのは、「僕だけじゃありませんよね、みなさんもそう思いますよね、ねえねえ」という媚態を示すことだと私は考えている。あれだな、好かれたいんだな、みんなに。人に嫌われるのが怖い、という人は本書を楽しく読めるのだと思います。
「問題小説」最新号の見本が到着した。今月のブックステージで採り上げた本は、今野敏『隠蔽捜査3 疑心』、中島京子『エ/ン/ジ/ン』、本谷有希子『生きてるだけで、愛』の三冊だ。文庫化作品だけに本谷についてはあまり文字数を割けなかったが、別の機会にちゃんと作家論を書いてみたいと思った。
『エ/ン/ジ/ン』は登場人物が「宇宙猿人ゴリ」についてずっと会話しているという変な話。といっても、洋泉社の本に書いてあるあたりのマニア度なので、特撮ファンが焦って読むほどではないのだが。『スペクトルマン』から、ある世代の心中に溜まった澱の存在に話は移行していく。その辺の話題転換がおもしろい小説だ。小説好きの人に「どう、これ。おもしろいでしょう」と目配せするような仕掛けもしてあり、作者の色気(うっふんじゃないほうの)を感じた。この後の方向性が気になる。
『疑心』は竜崎警視長の活躍にただただ爆笑。マルティン・ベックもマックス・カウフマンも到達できなかった境地に、やすやすと竜崎はたどりついた。どうなるんだこの人は。今野さん、楽しみでしょうがないです。
昨日に続き、塩山芳明さんの著書を紹介したい。二〇〇七年の『東京の暴れん坊』だ。「俺が踏みつけた映画・古本・エロ漫画」との副題通り、著者の趣味である映画と読書、仕事であるエロ漫画編集についての本で、過去に発表した書評などのコラムに原稿用紙100枚分の書き下ろしを加えて単行本化してある。
映画評もおもしろいのだが(小池朝雄の評伝が抜群。山田洋次のダークサイドについて書いたものもいい)、やはり自分の職業柄、書評に目が行く。本書は一九八〇年代の文章を集めた第一章から二〇〇〇年以降の文章の第三章まで、年代別の編集がされているのだが、中でも第一章の「買わない方が得する本」と第三章の「奇書発掘」が目玉である。両方とも題名だけで内容がわかるのが素晴らしい。塩山さんの書評のスタイルは基本的に、1)作者の嘘(欺瞞、助平根性、パンツの中)を告発する、2)著者がバカだと暴く、3)著者の変態性を見抜く、4)著者の清潔さを讃える、の三つの柱から成り立っており、本書に収録されたものでは1)2)のものが多い。たまに3)4)に類するものがあるのだが、これが無茶苦茶おもしろく、即座に本を買いに走りたくなる。松尾スズキ『厄年の街』(扶桑社)は3)、菅井きん『わき役ふけ役いびり役』(主婦と生活社)は4)だ。漫画の書評(というか編集者としてつきあった経験もふまえた作品分析である)だが、いがらしみきおの初期作品について書いた文章の素晴らしいのなんの。
――(東海林さだお作)”アサッテ君”をはじめとする人々は、交差点で交通整理をする美人婦警を見ても「寝てみたい!!」と思うだけ。いがらし漫画のキャラクター達は、よもやそんな大それた事は考えない。「この熱いのに大変だなァ。あの人のパンツ汗だらけだろな。臭いだけでもかいでみたいなァ、ム~ン」/疎外された”非中流国民”には、想像力の世界でも人並である事が許されない。
「想像力の世界でも人並である事が許されない」! すげえ!!
いかんいかん、書き出すときりがない。また仕事にならなくなる。あとは自分で本を買って読んでくれ。
以下はオマケ。クイズである。書評の一部を抜粋するが、書名と文章をばらばらにして書くので、各自組み合わせみてもらいたい。で、上の1)~4)のどれに該当するかを自分で考えてみること。
【書名】
a)笙野頼子『幽界森娘異聞』
b)金井美恵子『おばさんのディスクール』
c)田口久美子『書店風雲録』
d)車谷長吉『反時代的毒虫』
【文章】
A)無神経な女(愚妻ほどではないが…)。他人の幸福ほど、人間の真情を逆撫でるモノはないとの、普遍的真実に実に無自覚。成功者の有能なゴーストライターは、成功のきっかけをつかむまでの無名時代や、夢を実現後の挫折期に多くのページをさく。いざ金や名誉を獲得してからの生活など、何の分野でも類したもので、表現のしようがない(うらやましがられるのは一瞬で、飽きられるか反発を買う)。
B)○○は”子役作家”だったのだ。役者で言えば『特捜最前線』あたりにゲスト出演してる、市川好朗とか保積ペペ(それにしても保積ペペは気色悪い。顔は、”おめえヘソねえじゃねえか”の頃と同じなのに、体はマッチョなんだもん)。今風に言えば、ロリコン作家とでも言おうか。本の中でも藤枝静男に、「白痴的な子供っぽさ」を指摘されたとうれしそうに紹介しているが、当人は今や自分の割れ目に毛が生えちゃってるのに気づかず、少女M気取りだからあきれる。
C)今回は○○。昔っから大嫌い。書く物は悪くないが、一行読む度に電卓の音が。誰にも打算はあって当然だが、客の面前で露骨に利幅を数えるな。この程度ならまだ耐える(文章芸とでプラマイゼロ)。一番不愉快なのは、客に、”露骨な電卓音を聞かせ嫌われる”ことで、己れのキャラ、及び商品価値を高めているから。確信犯。広告代理店時代は、さぞ優秀な社員だったろう(20歳も若くして、既に瀬戸内寂聴の境地)。
D)純文界でドブスと美男の双璧をなす、両者の新刊が同じ値段と言う所に…じゃなかった、今回の○○の新刊は、”森茉莉の評伝もどきで小説もどきの実は例によってのマジブチ切れ○○怒りの爆裂弾記”。例によってのと書いたが、無論ほめ言葉(試着室のぞき…いや女流棚通いは、佐藤亜紀、松浦理英子の新刊発行時にもするが、ご両人既に枯れ気味で、”例によっての”の水準を維持できてない)。
ここ数日、暇さえあれば(暇なんてないんだけど)塩山芳明さんの本を読み返している。『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』の二著書で有名な、漫画屋代表のベテラン編集者だ。ちくま文庫に入っている『出版業界最底辺日記』は、『嫌われ者の記』からの再収録分があるということで敬遠していたのだけど、これまで読まずに損をした。抜群におもしろい。
出版界をはじめとした世の中のあらゆる事象にためらないなく悪罵を叩きつける態度が気持ちがいい。自らは非常に清潔で、何者にもおもねらない姿勢を堅持している点がすばらしい。以前に『嫌われ者の記』を読んだときは、おもしろく感じながらも、やや鼻白む印象があった。というのも、塩山さんはたいへんな読書家なのだが、好みがはっきりしていて、けなす作家はとことんまでけなすことがあるからだ。好きな作家をけなされて気分が悪い、なんて、以前の私はなんとお子様だったことでしょう。もちろん、けなすといっても作品本位だ。「批評はおもしろいが小説は三流」「人間はクズだが小説はおもしろい」といった具合に、良いものは良いときちんと認める人なのである。大筋で意見が一致していても各細部が異なるということはよくある。そのとき、細かい差異を認めずになあなあで済ませるのは卑しい態度であり、野合である。似た立場だからこそ、差異については徹底的に論議すべきだ、という当然の態度を塩山さんは貫いているのである。だから塩山さんの本を読んだあとは、甘い書評が書けなくなり、商売上非常に困る。
塩山さんは、引用ばかりの文章を商業媒体に発表する書き手を小馬鹿にする。楽して金稼いでんじゃねえ、ということである。この原稿は商業原稿じゃなくて私的なブログだから、構わず引用しちゃうことにする。気になったら、本を買って読むように(太字は引用者)。
――事務所に戻ると、伊集院808が原稿を持参していた。「これで俺、漫画やめます」「遅すぎたが、よく決断したな」とほめる。売れ筋漫画家の間に、奴の超売れぬ単行本をまぎれこませ、今まで4冊も出してしまった自らも反省。こういう感傷が。”ちょっとだけ面白いが基本的に無能な人間”の人生を謝らせる。「いいじゃんかよ。くたばる時にゃ、孫がオメーの棺桶に単行本入れてくれるぜ。”お爺ちゃんて、20世紀の有名なエロ漫画家だったんだってね”とか言って」「へへへへ……」/黄ばんだ出っ歯の隙間から、気色悪い笑みを漏らした伊集院808が、永遠に去る。
このハードボイルドさに痺れない編集者は、今すぐ職を辞するべきだと思う。
――上信電車で『アイウエオの陰謀』(東海林さだお・文春文庫・本体488円)に。信じ難い退屈さ。この人の漫画が80年代で終わったというのは常識だが、遂に牙城の文章にまで!? と言うか、馬鹿な編集がおべっか使い、「今回は不条理コラムで!」とか乗せ、作者もその気になったとしか。全国の東海林ファンも、本書だけは買うべからず。
好きな作家もこのとおりけなす。
――ただ中の1冊『風俗江戸東京物語』(岡本綺堂・河出文庫・本体977円)には、事前検査の胃カメラ以上の不快感を。中身ではなく、解説の今井金吾なる糞野郎にだ。今読むと部落差別に当ると、原文をバッサリカット。”これは綺堂の限界であって”とか書いてるが、それは読者自身が原物を読んで判断する事。半世紀以上前の事でエラソーに裁判官気取り。貴様のような時流便乗野郎は、いつの時代でも自主規制という名で読者におもねる。最も救い難い文化退廃の元凶。
説明の要なし。そしてこれ。漫画家の刹奈さんが亡くなったときのものだ。
――殺人事件等が起きた場所に、無関係な者がTVカメラを意識しながら、花を捧げる心理に通じるのか? 漫画家が亡くなった際、いち早く関連サイトに追悼文を書き込んでは、溜飲を下げている糞共の事だ。今度の刹奈さんの死にも、エッラソーにオメーらが空涙流さなくとも、善人は天国へ、悪党は地獄へ。(もちん彼女は前者)漫画屋BBSにも数件。大日本のアイサツしない例の集配野郎以上に不愉快。削除しようとしたが、刹奈さんの思いやりに溢れた顔を想起、放置。(ちゃんと自分の言葉で語っている分には、腹も立たない。すぐ”心から冥福を祈る”、新聞記者気取りのチンコロ野郎がムッカムカ!!)
血を吐くような文章だぜ。
深夜になって少し冷えてきたので、久しぶりに暖房をつけようかと思ったが、リモコンが見当たらない。たぶん資料として机の周辺に積んでいる本と一緒になってしまっているのだ。まさか本棚に戻したりはしていないと思うが。
そういえば昨日だか、NTTから営業の電話があった。光回線を無料で引いてあげる、という勧誘である。引いてもらうのはいいが、パソコンの方がそれに追いつくスペックではないので現状では無駄である……ということを説明するのが面倒くさいので、こう言って断った。
「工事が面倒くさいんです!」
「いえ、工事は私どものほうでやらせていただきますが、もちろん無料で……」
「無料とかそういうことはどうでもいいんですけど、工事の人に部屋に入られたくないんです!」
「はあ……?」
「見られたくないものがパソコンの周りにたくさんあるんです!」
「……」
覿面に電話を切られたが、おそらくとんでもない変態だと思われたに違いない。「そういう趣味でしたら、光回線を引いたほうがより充実した電脳ライフが遅れますぜ旦那へへへ」とか口説かれなくてよかった。
絶対越えてはいけませんと言われた日付変更線を二時間越えたところで月刊誌(じゃなかったけど)の原稿が完成した。急いで送付。眠いけど、この勢いで週刊誌の原稿も書いてしまわなければ。そうしたら寝よう。この原稿が出来たら、明日からは普通の人の生活を送るんだ……。
もう一日ぐらいは余裕があるだろうと高をくくっていた月刊誌が、本日がデッドの週刊誌の〆切と重なって涙目……と書きながらふと気になって確認したら、月刊誌ではなくて月二回刊であることを今になって思い出す。誌名で気がつけ、という話だ。私のバカ。仕方がないので、今からシクシク泣きながら原稿を書きます。いや、準備はしてあったんだけどさ。
そんな中、今日は新一年生の保護者会があり、学校に顔を出さなければならなかった。PTAの役割について、会長の立場で説明をするためだ。立ち寄ったついでに、五月の行事に関する印刷物を作って配布していたら、もう日が暮れかかっていた。なんてこった。帰りがけ、面倒くさい件が持ち上がっていることを聞かされ、ややめげる。弱り目に祟り目とはまさにこのことだ。仕事に生きよう仕事に!
仕事の合間に三浦しをん『ビロウな話で恐縮です日記』を読む。
ブログ日記を書籍化したもので、どうということのない日常のことも書いてある。引きこもりでBLオタクというキャラクターが確立されているので、何が書いてあっても興味を惹く。この手は反則だし、真似をしても模倣ということがすぐにバレてしまう。いいポストをとったものだ。世間的には羨ましくないか。そうか。酒井順子の「負け犬」と違って、週刊誌見出し的なキャッチーさがないところが安心できるところ。絶対に「AERA」の駄洒落ネタにはなりそうにないし。
感心した点は、夢日記もおもしろく書いてあることだ。どんな人が書いても夢ネタというのはつまらなくなるのだが、この本はおもしろい。特に「こんな夢を見た。十四」がいいな。夢ネタなのに、エピグラフで始まるのである。それが、
「ということはですよ、死神さん。あっしのぶんの明日の朝飯は、いったいだれが食えばいいんですかね?」
――『パルムの僧院』――
なにが『パルムの僧院』だ!
こういうところがずるいというのだ。真似したくなるほどおもしろいじゃないか。
某誌のお仕事で午前中はずっと年表を作成していた。
こういう仕事がいちばん楽しいが、切がなくなって困る。一作家一作品と決めて選んでいき、雑誌初出年(書き下ろし作品は刊行年)で並べていく作業。
知名度の高い作品から入れていき、六割を埋めたぐらいから、ややマイナーな作品に移る。ここからが楽しいのである。「○○と■■は同じジャンルで、デビューは○○の方が早いけど、■■の方が今は読まれているから……」「△は、作品の出来は今一つだが、映像化作品が売れているからなあ」などと品定めをしているうちに、時間が過ぎていく。
いわゆる吉原の「ひやかし」というのは、こういう遊びなんだろうな(意味がわからないお友達は父親に聞くこと)。
文庫解説を二つ書かなければならないのと、インタビューを二本やる予定があるのでその準備に追われそうなのだが、それよりも優先すべき課題はブルーシートを洗うことだ。
四月二十九日に地区の行事で使うので、預かっているブルーシートをそれまでに洗っておかなければならない。学校に行って、洗わせてもらって、鉄棒にでも縛りつけて一晩置いて乾かして。だから二日間晴天が続く日があることが何よりも大事だ。
お天気が二日続く日があった場合、仕事が停滞する可能性があります。その場合、屋外でデッキブラシを使っているのだと思し召せ。ごしごしと。
子供が縄跳びが苦手だというので、体育で授業が始まる前に練習するように言った。
自信がないらしく、そのうちやる云々と言葉を濁している。
そのうちって、いつだ。いつかやるって言っていたらいつまでもできないぞ、と詰問。
「いつかって言ったら、それは今日のことなんだ。いつかって今だ」
と言って、どこかで聞いた事がある台詞だと自問自答して、気付いた。
荒木飛呂彦ですね。
幻冬舎から本の見本をいただく。草下シンヤ『あしあと』だ。同社のPR誌「ポンツーン」に書評原稿を書いたら、文章の一部を帯に使う許可を求められ、もちろん了承したら、「杉江松恋氏、推薦」と書いてもいいですか、と聞かれ、推薦してもいいですよ、と答えたところ、「杉江松恋氏、大推薦」でもいいですか、と畳み込まれた。根性のある編集者だ。「推薦」と書いた以上「小推薦」はありえないのだから「大推薦」でも別に構わないのである。
草下シンヤは『裏のハローワーク』の著者で、フィクションの著書はこれが二冊目になる。『裏のハローワーク』
は、いろいろな業界の裏幕を書いたルポ本でなかなかおもしろかったのだけど、資料性には疑問があり、ずっと手元に置いておく本ではないな、という印象だった(取材の結果がそうだったのかもしれないが、ある業種について都市伝説めいた内容をそのまま書いた箇所があり、一事が万事なのかもしれない、と思わされたのだ)。
『あしあと』はそういうことはなく、非常に誠実な本である。ティーンエイジャーの携帯電話事情を扱った怖い話で、題材に頼らず、きちんと物語を完結させている点が気に入った。真面目に小説に取り組んでいる作品だ。新人賞出身の作家ではないが、将来性はある。買って損はないはずだ。
寝つきがいいのだけが自慢で、いつも床に入るとすぐに眠りに入ってしまうのだが、珍しく昨夜は輾転反側とし、気付くとすでに薄明が訪れていた。馬鹿馬鹿しいので起床して仕事。といっても金にならないボランティアの方の仕事で、五月に行く田植え体験のバスハイクのポスターと申込書をワードでせこせこと作成、午前六時に担当者へと発信した。週刊誌の仕事を頼まれているのだが、妙に疲れてしまってやる気にならない。もう少し日光を浴びてから動かねば。
そういえば先週は子供の新しい担任との保護者会があった。初対面の印象はあまり芳しくない。生い立ちから現在に至るまでを気持ち良さそうに滔々と語る。「自分は本来無精者」「こんなタイプの教師はいないからなってみようと思った」「保護者の方には自分(教師)のことを知ってもらいたい。そうすれば○○(名前)だから仕方がない。○○だから当てにならない、というようにいちいち納得してもらえると思う」と自分を大売出しであった。言いたいことは判るし、教師と保護者の信頼関係は大事だからお互いのことをよく知るのは大事なことだとも思うが、最初からそうやって予防線ばかり張られても、という気がする。「あたしってそういう人だからあ」ということか。気分は一昔前のギャルなのか。どれだけ自分が大好きなのか。
昨年の担任は、B4の用紙に細かい活字(9ポ)で日常雑記のようなものを書き連ねた学級通信を一年間発行した。保護者の中には「おもしろい」と好意的に受け止めた人もいたようなのだが、内容は単なる「おやじポエム」。五十を過ぎての自分語りはみっともない。こんな俺節が通用するのは学校教師の世界だけだろう。とんだ寝床である。今年の担任に学級通信の方針について聞いてみると「今自分がいちばん感じていることを書こうと思う」との回答であった。またもや俺節か。「学級通信を出すのは苦手」なのだそうだ。無精者だから? 俺、欠陥品というやつか。どんな哀川翔だ。
あまり期待しない方が吉だとよく判った保護者会だった。
「ナンプレファン」6月号の見本をいただく。
今月号の「より道ミステリー」はメインに採り上げたのが米澤穂信『秋期限定栗きんとん事件』、サブがアントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』(お菓子つながり)と泡坂妻夫『しあわせの書』(パズルつながり)である。
『秋期限定栗きんとん事件』は、たぶん他の書評とはかぶらないであろう視点で書いた。「パズル」ということに特化して書評ができる欄なので、この連載は楽しいのだ。
4月はPTAの年間計画を定めなければならないので忙しい月だ。住区会議といって、地域団体とも連携をとって動かなければならないので、なお面倒である。その住区会議の某さんから、栃木県の農業団体と交流をもっているのでぜひ田植えに参加してもらいたい、との要請があった。子供たちにとってもいい体験になると思ったので、住区会議のバスハイクで田植えと稲刈りを加えることを提案し、了承いただいた。ところがそこからが長かったのだ。
さっそく某さんに連絡し、先方にセッティングをしていただくよう依頼した。だが、幾日待っても返事が来ない。業を煮やして某さんに再度電話をしたところ、別のA氏に頼んで連絡をしてもらっているのだとか。それならそうと最初から言ってもらいたい。そのA氏は、転勤のため忙しくなって、住区のボランティア事業から身を引いた形になっていたのだ。彼にお願いしても話が進まないのは当然である。それくらいなら私が話を引き取ってしまったほうがいいので、A氏に連絡をとった。
転勤になったばかりだからか、A氏はなかなか電話に出てくれない。やっと話ができたときは、もう日が無くて告知がぎりぎり間に合うかどうか、というタイミングだった。というのも、住区の掲示板に行事のポスターを貼れるのは、週一回火曜日と決められているからだ。連絡がとれたのは水曜日で、その時点でA氏は、既に依頼をしているが先方の担当者からは連絡がないと言った。連絡がない、じゃなくて可否の確認をしてくれ。忙しいかもしれないが、その確認がとれないのなら、他の誰かに代理を頼むべきだ。ぶち切れそうになるのをこらえて、先方の連絡先を教えてくれるように頼んだ。A氏は、仕事の帰りにポストに関連文書を入れておくと言って電話を切った。
翌朝、木曜日。たしかに文書は入っていた。連絡先(らしき)電話番号も書いてある。だが、肝腎の先方の担当者の名前がわからないのだ。なんだかこめかみがずきずきするのだが、我慢して再度電話をした。これこれこういう理由で先方に電話ができない、と言うとA氏は「すいません、そういえばその紙には向こうの市外局番が入っていません」と言った。たしかに市外局番は入っていない。だが、それは調べれば判るのである。頼むから、私の言うことを聞いてくれ。知りたいのは、自分では調べようがない、先方の担当者の名前だ。大事なことだから二回繰り返すと、ようやく責任者の名前というのを教えてくれた。やった。これで直接先方に電話ができる。こんなに(話をし始めてから、すでに二週間は経っている)時間がかかるなら、最初から自分で電話をしたのに!
急いで電話をした。責任者だという女性のB氏は、そういう依頼は聞いていない、と言った。なにー、むきーっ。だが怒っていてもしかたがない。とりあえずこういう趣旨で田植え体験のお願いをしたいのだ、と頼むと「わかりました。受け入れ先の農家が準備できるかどうかを確認します」と言う。「お願いをしておいて申し訳ないのですが、連休前なので、時間の制約があるのです。いつごろ可否がわかりますでしょうか」「そうですね。向こうの人がつかまれば、すぐに判ると思いますよ」とB氏は言った。「と、とにかくお願いします」と懇願して電話を切る。結局、その日に連絡はなかったのだが、翌金曜日になって約束通り電話をいただいた。
「大丈夫です。ご希望の日に田植えができると言っています」
「ありがとうございますー」
「できればもう少し早めにおっしゃっていただけると話は早かったんですが」
「(話はしたんですが)わかりました。今後は気をつけますー。お手数をかけて申し訳ありませんでしたー」
「よろしくお願いします」
「うへーっ」
何を言われても平伏するしかない、カピバラなみに立場の弱い私であった。草食系男子というのはこういうことを言うのか?
まあ、そんなわけで五月には田植えをしに行くことになった。その日には某作家の結婚パーティーにも呼んでいただいているので、本当は東京を離れたくないのである。五月には運動会もあるし、PTA総会もあるし、とにかく行事がたくさんあるので、田植えなんかに行きたくはないのである。なのに土下座せんばかりの勢いで電話機に額をすりつけ、お願いしてセッティングをしてもらったわけだ。某氏とかA氏とか、私よりもはるかに土下座しなければならない人間が他にいるのだが、世の中とはそういうものである。
PTA活動というやつは、こうして動いている。
だいぶ間が空いたがブログ再開。
子供が読む本が無くなったというので、ミヒャエル・エンデ『モモ』を買って帰宅したら、小躍りして喜んでいた。
教育方針とか難しいことはよく判らないが、とりあえずこの点だけでは間違ったことは教えてこなかったように思う(子供は小学五年生)。