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(6/24)書評家の思想など豚にでも食わせろ

 ああ、びっくりした。
 何を驚いているのかというと、昨日も書いた黒古一夫さんのブログである。最新のエントリーを読んで、黒古さんの書評に関する価値観が自分とはまったく違うことを知った。豊崎さんがコメント欄で黒古さんの『1Q84』書評を批判したことについて触れ、「「ヘタ」「上手」という価値基準で、人の文章を批判するのは如何なものか」「「ヘタ」「上手」が書評の判断基準になることについては、正直言えば「むっ」ときた」と感想を述べた後に、黒古さんはこんなことを書かれたのである。

 ――だけど、文章(「書評」も含む)って、本当に「ヘタ・ウマ」という「技術」の問題なのだろか。もちろん、説得力を増すためには「技術」(豊崎さんなどはそのれに加えて「(文壇)情報」など)も大切だろうが、僕はそれよりも著者の思想性(つまり、メッセージ性)の方が大切だと思っているが、所詮それは「好み」の問題に過ぎないだろう。

 執筆者は、漫然と文字を並べて文章を作るのではなく、読者へのメッセージとして自己の思想を表明すべきである。誰かに対して文章を書いている人間(商業媒体の書き手に限らない)にとって、これは大事な基本原則だ。黒古さんがその意味で書かれているのであれば、おおいに首肯するのである。だが、書評を含む文章に技術の問題が必要ないと考えておられているのであれば、それは無邪気にすぎる。

 幼稚な思想、悪辣な思想を載せた文章が市民権を得られないかといえば、そんなことはない。卓越した文章技術は、読者をあっさりと説得してしまうからである。逆に、どんなに高尚な思想であっても、それを載せた文章が稚拙なものであれば、読むことさえ拒否されてしまうだろう。まず、他人に読んでもらわなければならない。そのためにありとあらゆる手を尽くさずして、表現者たる権利は得られないのだ(博士号や教授職といったアカデミズム内の地位をお持ちの方は、この競争に関してのアドバンテージを有しているはずなので、こうした意識は薄いのかもしれないが)。文章表現における技術とは、「説得力を増すため」の技術(すなわちレトリック)だけには留まらない。いかに誠実に文章を書いているか、執筆者は読者に示す必要がある。そのために必要な準備も、文章技術の中には含まれるのである。

 書評を手がける人が自分の文章を他人に読んでもらいたいと考えたら、最低限必要なことは「読者が求めるものを供する」ことである(たびたび引き合いに出して申し訳ないが、黒古さんはそうした意識が薄いのではないか)。自己のメッセージを伝えるだけの努力では、書評の読者にとっては不十分なのだ。書評家は、対象とする本について、読者が求めている情報は何かということを第一に考える必要がある。その情報を十分に供した上でさらに余裕があったとき、初めて自らが書きたいと望むメッセージを伝えることが許されるのである。執筆者の自分語りが多すぎて、自分が知りたい情報(その本は本当におもしろいのか、買うに値するものなのか)が含まれていない書評を読んだとき、私は必ず思う。「書評家の思想など、豚に食わせろ」と。

 もちろん、読者が知りたいと思う情報をあえて与えず、自分が正しいと信じることを書評によって伝えたいと考える執筆者はいるはずである。それが文芸批評だという見方もあるだろうし、あえて誤読の形を示すことで何かを伝える書評もある(誤解を恐れずに言えば、「バカミス」評というのはすべてそうした類の書評である)。肝心なのは、「豚に食わせろ」と罵られる覚悟をした上で読者の前に出てきているか否かということだ。鉄面皮に、なんの準備もせずに出てくれば、「未熟」「稚拙」とのそしりは免れないはずである。そうした事態を防ぐために、書評家は技術を絶えず磨かなければならないのだ。


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