(6/30)新雑誌に原稿
「時感」という雑誌が創刊されました。五十代以上の方が主読者として想定されていて、仕事がひと段落した後の人生をゆたかに過ごすためのさまざまな指針を提供する雑誌、というような感じでしょうか。特集の一つに時代小説のブックガイドが掲載されていて、私が作品選択と本文を執筆しています。普段あまり時代小説について書く機会がないので、楽しい原稿書きでした。荒山徹『十兵衛両断』とか紹介しちゃいましたよ。
「時感」という雑誌が創刊されました。五十代以上の方が主読者として想定されていて、仕事がひと段落した後の人生をゆたかに過ごすためのさまざまな指針を提供する雑誌、というような感じでしょうか。特集の一つに時代小説のブックガイドが掲載されていて、私が作品選択と本文を執筆しています。普段あまり時代小説について書く機会がないので、楽しい原稿書きでした。荒山徹『十兵衛両断』とか紹介しちゃいましたよ。
春先からいくつかの新人賞下読みを担当して、時期によっては複数の新人賞応募原稿が玄関に山積みになっているような状況だったのだが、ようやく落ち着いた。今、家にあるのは「このミステリーがすごい!」大賞の応募原稿だけである。進捗状況はようやく六割というところか。いくつかおもしろいのがあったので、二次へ通すときにはまた悩むことになりそうだ。来週ぐらいまでには終えて、戻します。
新潮文庫から出た『謀略法廷』の解説を書いた。翻訳者は、新潮文庫ではいつも通りの白石朗さんである。企業に対する懲罰的賠償請求を扱った裁判小説で、後半以降の展開がグリシャムらしいというか、リーガル・スリラーの域を超えた全体小説になっている。骨太の内容なのに、実に読みやすい。単純におもしろい本が読みたい、という方にお薦めします。
昨日、風呂場でかがんだ際におかしな痛みを感じたので、まずいかなと思っていたのですが……。
やってしまいました。立派なぎっくり腰です。今、針を打ってきて、本日は絶対安静といわれたのですが、これから電車で山梨までいかなければいけません。死ぬかも。
最新の八月号をいただく。新作『絶望ノート』に関して、歌野晶午さんにインタビューを行った。書店で見かけたら、手にとってみてください。歌野さんのミステリー作家としての創作姿勢について、かなりつっこんだ話をしたのだが、さすがに全部誌面に反映することはできなかった。
12ページのグラビアにはかなりびっくりさせられた。海猫沢めろんさんが、新宿の老舗ホストクラブ「愛」を訊ねるという企画だ。高校卒業後、ホストとして働いていたことがあるそうで(『愛』ではないと思うが)、里帰りである。そうなのかー、知りませんでした!
本日は都内某所にて生瀬勝久さんにインタビューをする予定である。映画「南極料理人」が八月に公開されるのに合わせた某誌のためのインタビューだ。先日来、俳優さんにお会いする機会が重なっているね。
家庭教育学級講座というものがある。PTA会員のために講師を招いて勉強会を開くもので、昨日二〇〇九年度の第一回講座が開かれたため、出席してきた。講師は小学校の副校長先生(この役職と敬称を併記する書き方が気持ち悪くて仕方ないのだが、学校内では慣例化しているので、あえてそう書きます)。先生は、コミュニケーション研究の専門家であり、過去にはNHK教育テレビの番組制作監修に携わったこともあるという。今回は、対人関係が苦手な人のための心理療法として発展したアサーション・トレーニングについて、今回は講演をしていただいた。
講座の最後に、「マジックチェア」という、自尊感情を高めるためにやるトレーニングを実践した。教室の前に椅子を置き、他の生徒と対面する形で一人がそこに座る。各自が交替で座った生徒の後ろに立ち、肩に手を置きながら、その生徒のいい点を褒めるのである(このとき、座った生徒に対してではなく、教室にいるその他の生徒に向けて語りかける)。そうされることにより、心中の自尊感情が高められる、エンパワーメントの効果が得られるのだ。実際に総合授業などで行われている例もあるそうで、興味深く拝見した。
その後、都内某所にて道尾秀介さんにインタビュー。先日ブックジャパンのためにお話をうかがったばかりであり、道尾さんからすれば「また貴殿か!」という話なのだが、今回は「CREA」のためのインタビューである。この模様は次月発売の同誌にて。
書き漏らしていたが、隔月刊の「ナンプレファン」、最新八月号の見本をいただいていた。
「より道ミステリー」で採り上げたのは、乾くるみ『六つの手掛り』である。おまけとしてフリーマン・ウィルス・クロフツ『ホッグズ・バックの怪事件』、パズルミステリーのコーナーはハリイ・ケメルマン『九マイルは遠すぎる』。
書店で見かけたら手にとってみてください。
うっかりして告知を忘れていたが、週一回もちまわりでやっている「Friday新刊チェック」を先週末に更新したのだった。詳しくはこちらをどうぞ。
今回採り上げたのは、朝倉かすみ『玩具の言い分』(祥伝社)、大門剛明『雪冤』(角川書店)、獅子宮敏彦『神国崩壊』(原書房)、伊吹有喜『風待ちのひと』(ポプラ社)の四冊。恋愛小説が二冊でミステリーが二冊という配分でいいバランスになったと思う。海外ものの手持ちがなかったのが残念だが(読んだ分は全部吐き出してしまっていたので)、次回からは入れていこうと思っています。
ああ、びっくりした。
何を驚いているのかというと、昨日も書いた黒古一夫さんのブログである。最新のエントリーを読んで、黒古さんの書評に関する価値観が自分とはまったく違うことを知った。豊崎さんがコメント欄で黒古さんの『1Q84』書評を批判したことについて触れ、「「ヘタ」「上手」という価値基準で、人の文章を批判するのは如何なものか」「「ヘタ」「上手」が書評の判断基準になることについては、正直言えば「むっ」ときた」と感想を述べた後に、黒古さんはこんなことを書かれたのである。
――だけど、文章(「書評」も含む)って、本当に「ヘタ・ウマ」という「技術」の問題なのだろか。もちろん、説得力を増すためには「技術」(豊崎さんなどはそのれに加えて「(文壇)情報」など)も大切だろうが、僕はそれよりも著者の思想性(つまり、メッセージ性)の方が大切だと思っているが、所詮それは「好み」の問題に過ぎないだろう。
執筆者は、漫然と文字を並べて文章を作るのではなく、読者へのメッセージとして自己の思想を表明すべきである。誰かに対して文章を書いている人間(商業媒体の書き手に限らない)にとって、これは大事な基本原則だ。黒古さんがその意味で書かれているのであれば、おおいに首肯するのである。だが、書評を含む文章に技術の問題が必要ないと考えておられているのであれば、それは無邪気にすぎる。
幼稚な思想、悪辣な思想を載せた文章が市民権を得られないかといえば、そんなことはない。卓越した文章技術は、読者をあっさりと説得してしまうからである。逆に、どんなに高尚な思想であっても、それを載せた文章が稚拙なものであれば、読むことさえ拒否されてしまうだろう。まず、他人に読んでもらわなければならない。そのためにありとあらゆる手を尽くさずして、表現者たる権利は得られないのだ(博士号や教授職といったアカデミズム内の地位をお持ちの方は、この競争に関してのアドバンテージを有しているはずなので、こうした意識は薄いのかもしれないが)。文章表現における技術とは、「説得力を増すため」の技術(すなわちレトリック)だけには留まらない。いかに誠実に文章を書いているか、執筆者は読者に示す必要がある。そのために必要な準備も、文章技術の中には含まれるのである。
書評を手がける人が自分の文章を他人に読んでもらいたいと考えたら、最低限必要なことは「読者が求めるものを供する」ことである(たびたび引き合いに出して申し訳ないが、黒古さんはそうした意識が薄いのではないか)。自己のメッセージを伝えるだけの努力では、書評の読者にとっては不十分なのだ。書評家は、対象とする本について、読者が求めている情報は何かということを第一に考える必要がある。その情報を十分に供した上でさらに余裕があったとき、初めて自らが書きたいと望むメッセージを伝えることが許されるのである。執筆者の自分語りが多すぎて、自分が知りたい情報(その本は本当におもしろいのか、買うに値するものなのか)が含まれていない書評を読んだとき、私は必ず思う。「書評家の思想など、豚に食わせろ」と。
もちろん、読者が知りたいと思う情報をあえて与えず、自分が正しいと信じることを書評によって伝えたいと考える執筆者はいるはずである。それが文芸批評だという見方もあるだろうし、あえて誤読の形を示すことで何かを伝える書評もある(誤解を恐れずに言えば、「バカミス」評というのはすべてそうした類の書評である)。肝心なのは、「豚に食わせろ」と罵られる覚悟をした上で読者の前に出てきているか否かということだ。鉄面皮に、なんの準備もせずに出てくれば、「未熟」「稚拙」とのそしりは免れないはずである。そうした事態を防ぐために、書評家は技術を絶えず磨かなければならないのだ。
前のエントリーで、村上春樹『1Q84』書評がどうこうという話題を振ったが、時間がなくて曖昧な書き方だったので、はっきりと記しておく。震源地は、筑波大学大学院教授・黒古一夫さんのブログである。
黒古さんは、ブログの当該エントリーに、ご自身が北海道新聞に発表した750字の書評を転載された。その内容が、『1Q84』二巻の最終部分までをネタばらしするものだったのである。
同業者の先輩である豊崎由美さんが、ブログにコメントし、そのネタばらしは許容範囲を超えるものではないかという異議申し立てをされた。豊崎さんが「読者の初読の快感の権利を奪う書評を、わたしは良いとは思えないのです」という意見を述べられた後、黒古さんはそのエントリーに追記をされた。少し長くなるが追記部分を引用する。
--「1Q84」については、北海道新聞に載った拙文を最後に掲載しますが、果たして拙文は「道新読者」を名乗る人が言う「あらすじだけじゃないか」に該当するかどうか、読者諸氏に判断していただきたいと思います。言い訳ではないのですが、「書評」というのは(北海道新聞の場合)「750字」という制約の中で如何にその作品の内容を紹介し(ある程度内容=「あらすじ」めいたものを紹介しなければ、その作品の概要が理解されない)、なおかつどのような点が問題なのかを(評者なりに)明らかにすることが如何に難しいか、「1Q84」の場合、2100枚を超える長編作品である、どのような形でこの村上春樹の最新作について「書評」すればいいのか、もし良い方法があったら是非「道新読者」氏にはご教示願いたい、と思っています。
念のため書いておくが、道新読者=豊崎さんではない。本来ならこれまで長い引用ではなく、黒古さんのブログへと誘導すべきだと思うのだが、なにせ当該エントリーには重大なネタばらしがあるもので。一応以下にURLは記すが、すでに『1Q84』をお読みではない方にはあらかじめ注意を喚起しておく。
http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/a2228c915ae2edd4e8e51c800c6695c6
さて、黒古さんのご意見である。字数の制約の中で作品を紹介することの難しさにはもちろん同意するが、書評する対象が「物語」である場合、未読の読者にすべてのあらすじを伝えるべきとは私は思わない。上に記した豊崎さんの意見にまったく同意である。
もちろん物語の全貌を読者に晒した上で、評者の読みを開陳する書評もあっていい。それはまっとうな文芸批評というものである。公平に見れば、黒古さんの書評は文芸批評を目指しており、筆者なりの「読み」をきちんと表明している。単にあらすじを書いただけで終わっている書評とは思わないが、この程度の結論を導くために長い小説の最後の部分を明かしてしまう必要はないはずだ(引用元の文章の第一段落、最後の文章が黒古さんの「読み」だと私は考えた)。筆者の態度は誠実だが、書評の技法としては拙い。ネタばらしという大胆な手法をとったわりに、読者に与えるものが少なすぎるからである。私ならば、ネタばらしをせずに書評をすることが不可能と判断されたのであれば、もっと長い文章量のメディアを選ぶか、もしくは本を代えることを検討すると思います。
どのような形で書評すればいいか、「道新読者」氏の代わりに私案を書いてみる(以下、関心がない人は読み飛ばしてください)。
この書評の「読者は」で始まる最終段落をまるまる削除するだけで、ネタばらしの被害規模はかなり縮小されるはずだ。その不足分は、黒古さんの書評から抜け落ちている要素を補えばいい。黒古さんの書評には、『1Q84』の重要なピースである『空気さなぎ』の話題が欠落しているのである(書評では「この小説の大切な要素でありながら意味不明な(SF的な)「空気さなぎ」」と書いておられるので、黒古さんは『空気さなぎ』の意味がよく判らなかったのかもしれない)。もちろん、限られた文字数の中で小説の全要素について触れることは不可能なので、評者は話題を限定して論を起こして構わない。だから『空気さなぎ』について完全無視した書評もありといえばありなのだ。しかしながら、第二巻の後半でしか出てこない事実を書くぐらいであれば、第一巻の前半で明らかにされている要素について触れるほうが、少なくとも未読の人間にとっては親切だと私は考えるのである。
以上。念のために書いておくが、黒古さんご本人を叩きたいわけではない。あくまで、『1Q84』の書評に限定した話題であり、該当エントリーからは書評技術について考えるいい機会をいただいた。非常に感謝しております。黒古さんはブログに荒しといってもいい匿名の書き込みがあるにもかかわらず、それを削除せずに公開して議論の場を与えてくださったのである。その勇気ある態度には敬意を表したい。
最新号の見本をいただいた。今回のブックステージは桐野夏生『IN』、小泉喜美子『弁護側の証人』、村上春樹『1Q84』について。
流行りものの書評をやったのはひさしぶり。でも仕事として、これは採り上げておかないとね。
これでしばらく村上春樹の書評はやらないつもりだったのだけど、某所が火種になって『1Q84』のきちんとした書評を750字で書くことは可能か否か論争が勃発しそう。火の手が上がる前に、自分でも一本書いてみようかな。
今月からミステリチャンネル毎月の「ブックナビ」レギュラーを務めることになった。
本日がその第一回の収録なので、行ってきます。私のイチオシは、歌野晶午『絶望ノート』とドウェイン・スウィアジンスキーという、最強の組み合わせ。しかしながらこの二冊、口頭で説明するのが異常に難しいんだよなあ(だからこそおもしろいのだが)。
そんなわけで行ってきます。
昨日は珍しくいろいろな用事のために人に会った一日だったのだが、中でも珍しかったのは俳優の栗山千明さんにお会いしたことだった。もちろん小説に関するインタビューのためにお伺いしたのである。「あまり読んでいないので」と謙遜しておられたが、とんでもない。対象の本を深く読みこなしておられて感心させられたほどであった。有意義なインタビューでした。
もう一本インタビューがあって、それはミステリチャンネルのためのものだった。十分枠で流す作家インタビューね。対象は、映像配信されるインタビューは初めて、とおっしゃっていた辻村深月さん。こちらも、まったく言い淀んだり間違えたりすることがない素晴らしい話しぶりで、ことらも感心致しました。まもなく発売される初のホラー短篇集『ふちなしのかがみ』、おもしろいから読んでくださいね。
夜は池袋にて講師のお仕事。テーマは「骨を引っこ抜いて入れ替えること」。なんのことか判らないと思うがこれでいいのだ。
引きこもりがちの私にとっては異例の、人と会ってばかりの一日になる予定である。午後いちばんで某社にて読書特集の打ち合わせをし、その後は都内某所で栗山千明さんの取材、またまた別の某所でミステリチャンネル用に辻村深月さんのインタビューをした後、夜は池袋で講師のお仕事である。反動で明日は誰にも会いたくなくなりそうである。一日に何件も商談をこなすビジネスマンって偉いなあ。自分も昔はそうだったというのが信じられない。
見本をいただいた。今回の「ミステリー一冊決め」は、石持浅海『まっすぐ進め』。
恋愛小説の要素を巧く活かした作品なので、同誌の主要購買層である、二十代と三十代の独身男性に読んでもらいたいと思いました。
北海道の出版社、柏艪舎がハワード・エンゲルの『メモリーブック』という作品を出版したという情報をもらったのだが、どこに行っても本が見つからない。柏艪舎のホームページの新刊案内の欄にも載っていないし。本当に刊行されているのだろうか……。
急に予定が入り、明日某芸能人の方にインタビューすることになった。その準備で本日はばたばたすると思います。たいへんだ。
朝からかかりっきりだった週刊誌原稿と文庫解説を脱稿。ずっと椅子に座りっぱなしで、気付いたら外は雨になっていた。
途中で落ち込むことがあったのだけど「落ち込んでました」というのは原稿の〆切を遅らせる言い訳にならないから困る。仕方がないので、えいえいっと原稿に集中していたら、なんとなく落ち込んでいるのも収まった。不思議だ、というか単純な性格だな私って。
書き忘れていたが、元みちのくプロレス所属で最近は大阪プロレスのリングに上がっていた、レフェリーのテッド・タナベさんも十四日の大阪プロレス大会後に倒れ、帰らぬ人になっていたという。享年四十六、奇しくも三沢さんと同じ年齢での若すぎる死だ。三沢さんとは一般メディアの報道量も違うが、プロレス界を裏方として支えてきた貢献者であった。そのことは十年以上プロレスを観続けている人間なら誰もが知っている。
テッド・タナベさんの魂が安らかならんことを心よりお祈り申し上げます。あなたのレフェリーシャツ姿をもう一度見たかった。
なんだか哀しいことばかりが重なる。こういうときはね、笑うんです。辛そうな表情をしている自分の顔を鏡に映して、それで笑うんです。無理にも笑っていれば、そのうち本当に笑えるようになるから。
(追記)
六月十六日に大阪プロレスから発表があった。テッド・タナベさんの死因は、急性心筋梗塞だった由。
何かをしていてもつい、あの三沢が事故で死ぬなんて、と考えてしまう。そういう三日間だった。もう一つ頭から離れないのは、斎藤彰俊は大丈夫だろうか、ということだ。先日行われたW★ING復活興行にも足を運んで観戦していたという。義理堅く、気のいい人物だけに今度の出来事は堪えたはずだ。事故翌日の試合に出場したのは立派だったが、シリーズが終わったらその後は無理をしないでいただきたいと思う。
それにしても三沢光晴さんである。
最近は生で試合を観ていなかったので、体調云々のことについては言葉を控える。盟友の冬木弘道さんもそうだが、親分肌で面倒見のいい人ほど自身の中に辛い気持ちを抱えこんでしまう。お二人の身体が疲弊した理由の中に、プロレス団体の経営という難しい問題があったことは否定できないはずだ。命を削ってまで人の娯楽のために尽くされたことに深く敬意を表したい。
NOAHには頑張ってもらいたいと思うが、前々から言っているとおり、いくら辛くとも半病人の小橋建太を闘いの第一線に復帰させるような愚は謹んでもらいたいと思う。もはや、命を削る行為が報われる時代ではない。三沢さんの死を無駄にしたくないならば、残ったメンバーは命を大事にするべきだ。苛酷な生き方を引き継ぐような行為は、決して故人の遺志を尊重したことにはならない。腎臓摘出の小橋、椎間板ヘルニアの秋山あたりは、もう第一線を退いて団体の広告塔に徹したほうがいい。
そしてもう一点、痩せ我慢も大事かと思うが、素直に苦しい台所事情を認め、団体規模を縮小して一からやり直すことも大事なのではないか。今回のことでリングドクターが帯同できないような厳しい状況が明らかになった。過去のNOAHは、引退した選手の受け皿作りのような施策を発表して、健全な企業たることを標榜していたはずだ。それがいつの間にか、景気づけの花火ばかりになった(引退したラッシャー木村さんはいったいどうなったのか)。十年弱で旗揚げの精神が風化するというのは虚しすぎる。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、三沢光晴と受け継がれた団体精神を無にしないためにも、堅実な経営を目指していってもらいたい。
末尾ながら、改めて。三沢光晴さんの魂が安らかならんことを心よりお祈りいたします。今まで、お疲れ様でした。
昨日は、本格ミステリ大賞贈呈式で司会を務めてきた。今年で三年目になるが、とんだ失敗をやらかしてしまった。司会者の位置から花が邪魔になって壇上が見えず、受賞者への花束贈呈のタイミングをとちってしまったのだ。なんとか帳尻は合わせたが、冷や汗ものであった。
贈呈式に先立って総会があり、新人事が承認された。もう発表してかまわないと思うが、新会長は辻真先さん、事務局長は戸川安宣さんである。辻さんは牧薩次として賞の贈呈を受け、辻真先として新会長挨拶をされたのであった。
本日は子供が祖父母の家に遊びに行っているので一人の休日。明日、亀山郁夫さんにお会いするので新訳版の『罪と罰』を読んでいる。こんなにおもしろかったのか、というほどおもしろく、犯罪小説としても完成度が高い。訳者の力ってすごいな、と改めて感じました。
本日は学校公開日なので、小学校に午前中はほぼ詰めきり。午後は同じく小学校で記念講演があるので講師のアテンド。夕方からは本格ミステリ作家クラブの授賞式で司会。
そんな感じで一日動き回っているので、原稿は一文字も書けません!
せめて本ぐらいは読みたいので、光文社古典新訳文庫の『罪と罰』を持ち歩くことにします。こんなにおもしろかったっけ。ラスコーリニコフが伊達邦彦みたいだ。あ、逆か。
校長と面談してみたら、それほどの事態でもなかった。急を要することである用件であるのは確かだけど。
それよりも別件の頼みのほうがたいへんだ。学校付近に曲がり方が変則的になっている十字路があって、店舗の建物が交差点に張り出しているために見通しがたいへん悪い。子供が横断歩道を渡ろうとすると、左折してくる車両に巻き込まれるおそれがあるのだ。一応自動車は一時停止するようになっているのだけど、自転車はそれを無視して飛ばしてくる(駅へ抜ける近道なのですね)。たいへん危ないので、警察署の交通安全課に信号をつける働きかけをしてくれないか、というのである。
えーっ、この半ひきこもり人間に警察署に行けとおっしゃるのですか。警察こわいよう。
たぶんその交差点に信号がついていないのは地区の住民の都合もあるのだと思う。町会の顔役にも事情聴取をしなければいけないし、何かと面倒臭そうだ。しまったなあ、聞かなかったことには、できないわな。
そんなわけで来週以降、警察署への陳情という仕事も付け加わりました。陳情じゃないか、警察の場合はなんて言うんだっけ。強訴?
思えば先週末は『1Q84』→『IN』→『ONE PIECE 巻五十四』という幸せな読書体験のただなかにいた。至福の時間といえよう。でもこれを原稿化するとなるとなあ。あ、いや『ONE PIECE』は仕事用に読んだわけではないですが。今すぐ全巻引っぱり出して読み返したいという衝動に耐えながら原稿を書いているわけです。
最新号の見本をいただいた。今回の「路地裏の迷宮踏査」はアール・スタンリ・ガードナーについて。この作家の作品が読みづらい状況にあるというのは、とても不幸なことである。作家志望者はガードナーに学ぶべきだと思いますよ。
巻頭には、『贖罪』刊行記念として湊かなえさんのインタビューが載っている。インタビューアは私で、構成は編集部である。三時間近く話をしていたが、半分くらいは雑談だったので、まとめるのはさぞたいへんだったろうと思う。おつかれさまでした。
書店に行ったら光文社のPR雑誌「本が好き!」があったのでいただいて来た。社長こと豊崎由美さん(崎の字の「大」は本当は「立」です」の連載「ガター&スタンプ屋ですが、なにか? わたしの書評術」を読むためである。
ご存じの方は多いと思うが、この連載は書評論についてのもので、書評という特殊な文芸ジャンルに籍を置く執筆者の視点から、文壇における書評家の位置づけ、一般読者・編集者の書評に対する意識といった問題が語られている。今後、出版というビジネス形式の中で書評家がいかに自らを処していくべきか、指針になる箇所も多いので、関心を持って読んでいるのだ。これは「メッタ斬り」以降の豊崎さんのいちばん大事な仕事になるのではあるはずだ、と私は考えている。それに何より、おもしろい。語り口がフェアで、かつ評価基準が明確なのがこの連載の美点であり、豊崎流の「よい書評のありかた」がきちんと示されている。
たとえば今回の連載分では、ある日の全国紙に掲載された書評をすべて読み、五段階にランク付けをするという実験が行われている(その中で書評家にとっては辛い現実が記されているのだが、ここでは特に触れない)。評価の基準は以下のとおり。長くなるが引用します。
――D=取り上げた本の益になっているどころか、害をもたらす内容になってしまっている。C=書評になってない。その理由としては、1(注:引用元では丸数字)文章表現が稚拙もしくは言葉足らず、説明不足で何を言いたいのかわかりにくい(朝日における○○○○←引用元では実名、以下同)。2どういう理由があるのかわからないけれど、対象書籍から逃げ腰になっている(朝日における○○○)。3あれこれ書きたい要素を詰め込みすぎて、ひとつひとつのおすすめポイントが全部ぼやけてしまっている(産経における○○○)。4論文のような専門用語の多い堅いばかりの学者文章に辟易させられる(朝日における○○○。日経における○○○○)。B=文章や紹介の仕方自体に魅力があるわけではないのだけれど、原稿料をもらっていいだけの水準には達している。A=取り上げられている本を読みたくなる書評。文章や紹介の仕方にも芸があって、それ自体がひとつの”作品”になっている。特A=もしかすると、取り上げている本を凌駕している可能性すらある傑作書評。トヨザキが百回生まれ変わっても書くことのできないレベルの、わたしにとっては悔しい書評。(「本が好き」VOL.37 P125)
改行がなくてネット上だと読みにくいかもしれないが、原文通りの引用をしたかったのでご容赦願いたい。元の文章ではC評価をされている書評の書き手も、もちろんD評価を受けた書き手(おそろしいことに一人いる)も実名で書かれているが、豊崎さんの意図は個人攻撃ではなくて書かれた書評自体の批評のはずなので、あえて伏字で引用した。私も以前にダメな書評について箇条書き形式で挙げたことがあるが、ここで書かれた内容にはほぼ同意である。
理想を言えば、商業原稿としての書評はすべてA以上の水準であるべきだが、実際にはBがほとんどである。私自身、「あれはBの価値しかない」と思う原稿をいくつも書いている。メディアの片隅で埋め草になるだけの書評というのは本当に多いのだ。それがまったく無価値かというとそんなことはない。埋め草書評といえども「誰かの目に触れるかもしれない」「この書評を見た人が、本を手に取るきっかけになるかもしれない」という可能性を孕んだものであることには変わりがないからである。いや、良心ある書き手なら、そうであってもらいたい、という願いをこめて原稿を書いているはずだ。だからこそ、Dのような書評の存在を許しがたいのである。豊崎さんはこの連載の前回で、ネット書店の購入者レビューについて攻撃的に採り上げていたが、そこには書評家としての思いがこめられていた。
プロであるかアマであるかという執筆者の肩書きは、書評の価値にまったく関係ないものである。そもそも日本の文壇において名前だけで周囲をひれ伏させるような権威のある書評家など一人もいない。自分がそうだと思っておられる方は、『王様は裸だ!』と叫ぶ子供が近くにいないか、探してみることをお勧めします。だからこそ新聞社はこぞって大学教授などの学識者や作家などを「権威づけ」のために書評欄に起用するのだ。
もちろん、専門知識を要する分野の書籍について書評を依頼する、という場合においては非常に正しいやり方である。専門家の判断を仰ぎたい、という読者もいるだろうからな。だから私なら、上の豊崎さんの評価基準には「専門家としての知見を正しく用いているか」という項目を付け加えたいところである。専門家である、というだけでプラス評価するのではなくて、専門家なのにこの程度、というマイナス評価もありうるということだ。書評の文章がダメなのに、肩書きで下駄を履かせてやる必要はないのである。たとえば小説家が他人の作品を評するときに、小説自体ではなくて、その作家との親交の模様であるとか、作家の人となりだとかを述べることに終始していたら、私は大いに不満を感じる(ただし、それも『読者を読みたくさせる書評』になる可能性はあるので、商業原稿として否定する気はない。そういう同人サークルの褒め合いみたいな文章にもなぜか需要があるし)。
ちなみに、豊崎さんが連載原稿で最高点をつけているのは、某作家が翻訳作品について書いた書評であった。例によって名前を伏せておくので、実際に「本が好き!」を読んでいただきたい。件の書評が引用されており、私はそれを読んで某作家が好きになった。某作家が採り上げている小説もばっちり読みたくなった。おそらく、この書評を顕彰するために豊崎さんは今回の原稿を書いたのであろう。
隔月に一回、時事通信社から配信される書評コラムにミステリー評を書いている。今回は、道尾秀介『龍神の雨』(新潮社)、山口雅也『新・垂里冴子のお見合いと推理』(講談社)、ベンジャミン・ブラック『ダブリンで死んだ娘』(ランダムハウス講談社)の三冊を採り上げた。
ちなみにこのコラム、自分では記事になったところを一度も見たことがない。時事通信社から地方紙に配信されて掲載されるので、どの新聞に載ったかということも知らないのだ(調べれば判るのだが、面倒なので放ってある)。時事通信社のMさんが私を騙して、記事を掲載した、といって隔月でいくらかのお小遣いをくれているのだとしても、私には判らないのである(いや、そういう粋狂なことをするはずはないが)。あ、お小遣いをくれる方がいたら、別に遠慮はしません。
自分では気付かないタイミングで、誰かに原稿が見られているのは確実という不思議なシステムだ。なんか幸せ。夢の新聞社に原稿を送っているみたいである。
昨日は都内某所で地域の子供たちを連れてのデイキャンプであった。八十超の人数で煮炊きをするため、不慮の事故がないか、かなり神経質に気を配っていたのだが、結局怪我をしたのは私一人でした。点火用のバーナーにうっかり腕を接触させてしまい、二センチ平方の火傷をしてしまったのだ。一行の中に、幸い外科のお医者さんがいたので緊急処置もしてもらえた。念のため、今日通院してこようと思います。
午後は子供たち全員でネイチャーゲームに興じた。私の役目は、危険な場所にお調子者が入り込まないよう見張ることである。ずっと座っているだけだったので、相当日焼けしてしまった。日に焼かれて火に焼かれて、なんだか鰯の丸干しにでもなったような一日であった。
三日前の天気予報では、週末は雨とのことだったが、綺麗に晴れましたね(東京限定)。
晴れたので今日は、地域の子供たちを連れてデイキャンプに行ってきます。
雨だったら家で閉じこもって仕事をしようと思ってたのに。ああ、いやいや、晴れてよかった。
ちょっと用事があったので、成田空港に日帰りで行ってきました。第一ターミナルの方に行ったのは何年ぶりだろう。噂に聞いていましたが、なるほどマスクをつけた人影も激減していますな。もう水際で食い止める云々というのは無駄ということでしょうか。
出国ゲートのところで、機内持ち込みができない物のリストを見て笑った。クリーム状の化粧品や味噌が駄目だというのは知っていたが、「しば漬け」のパックも不可だったとは。持ち込んじゃいけないのか、しば漬け。しば漬け業界にとっても受難であることよ。
本格ミステリ作家クラブのお仕事でアンソロジー編纂に関わっていた。見本を頂戴したので紹介しておきます。今年の収録作は個人の短篇集にもはいっている作品が多いのだが、まとめて水準作を読むという意味ではお買い得な一冊です。それにしても、新人のうちはこういうアンソロジーへの収録を断らないほうがいいと思うんだよな。自分の短篇集の売れ行きに関わるから、という判断もあるのかもしれないけど、デビュー後何年かの間は、露出を増やしていったほうが有利なのだから。来年候補作に選ばれた方は、ぜひご一考を願います。
解説を書いた文庫が二冊あって、見本が到着した。
一つは森谷明子さんの『異本源氏物語 千年の黙』で、もう一つは山口雅也さんの『日本殺人事件』だ。後者は、双葉文庫の日本推理作家協会受賞作全集の一冊ということになる。両方とも、悪い癖で指定された枚数を大幅に超えて原稿を書いてしまった。本当にページぎりぎりまで文章が詰っているので、お得感があるかも。ないか。
書店で見かけたら手にとってみてください。
最新号の見本をいただいた。松本清張原作映画特集に、清張映画ベスト3、映像化してもらいたい清張作品というお題のアンケートで寄稿している、のはいいのだが、私以外の回答者は北川れい子さんや佐藤忠男さんなど、映画界の目利きばかり。はっきりいって浮いてます。回答もむちゃくちゃ浮いているかもしれない。いや、浮いているな。まあ恥さらしということで一つご笑覧ください。
「このミステリーがすごい!」大賞事務局から連絡あり、応募原稿が出揃ったので第三弾を送付するとのこと。
過去最高の応募数だそうだ。注目されてきたということかしらん。
気合を入れて読ませていただきます。うす。
朝一で起きて原稿を完成させた。書きながら、とても楽しい状態になっていくのが自分でも判り、意外であった。脳内麻薬物質出てる出てる。このままいつまでも書いていたい衝動に駆られたのだが、午後二時までに印刷所に入れないととってもまずいことになると聞いていたので、いい加減でけりをつけてメール送付。まだ興奮さめやらない感じなので、今から別の原稿を書きます。うす!
うっかりして今月号のことを書き忘れていた。
HMMレビューは、マイケル・シェイボン『ユダヤ警官同盟』、P・J・トレイシー『埋葬』、デレク・ニキータス『弔いの炎』、キャロル・N・ダグラス編『ホワイトハウスのペット探偵』の四冊を担当した。『ユダヤ警官同盟』については改めて触れるまでもないだろう。スティーグ・ラーソン『ミレニアム』と同様、今年の必読本である。
ここでは掘り出しものの二冊について書き留めておく。前後するが、まず『弔いの炎』から。表紙こそロマンティック・サスペンス風なのだが、騙されてはいけない。これは疾走する暴力小説なのだ。後半に入ってからのアクセルの吹かし方が異常で楽しめる。アマゾネス小説をお好きな方も絶対読むべきである。
もう一冊『埋葬』は、ミネアポリスを舞台にした連作の第四弾。このシリーズは紹介のされかたが不幸だった。第一作『天使が震える夜明け』がヴィレッジブックスから出たあと、第二作『沈黙の虫たち』から版元が集英社に移った。そのため、第一作で紹介された初期設定が、以降の読者にはわかりにくくなってしまったのである。基本的には警察小説なのだが、コンピュータ・テクノロジーを駆使してネット犯罪に挑む、ハッカー軍団が警察官を補佐する立場にいる。こうした協力体制がなぜできあがったか、という話が『天使が震える夜明け』で描かれているのだ。というわけで『沈黙の虫たち』以降の作品を読む人はそういうものだと思って本を手にとってください。念のため、各作品の寸評を書いておく。
『天使が震える夜明け』連続殺人もの。四作の中ではもっとも劣る出来なので、最初に読まなくてもいいです。良くも悪くも第一作。
『沈黙の虫たち』これも連続殺人もの。ちょっとヘニング・マンケルを思わせる味があり、アイデアの突飛さが良い。脇役として出てくる弁護士が非常にいいキャラクターである。
『闇に浮かぶ牛』タイトルに負けないぐらい変な話。『悪夢のバカンス』みたい、と言ったら「ああ」と判ってくれる人も多いかも。警察小説のカテゴリーから微妙に外れるのがおもしろい。
『埋葬』これも変なお話だが、前三作に比べてテーマの絞込みが明確で、締まった出来になっている。実は、入門書としてはもっとも適しているかも。
だいたいそんな感じ。荒削りなんだけど、個性のあるシリーズだ。警察小説ファンはちょっと気にしたほうがいいと思いますよ。
本棚を整理していたら、『大統領のミステリ』のダブり本が二冊出てきた。見るたびに買っている気がするので、おそらくまだどこかにあるように思う。どれだけこの本が好きなのか。
ご存じの方は多いだろうが、これはアメリカ合衆国第三十二代大統領のフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトがプロットを提供し、七人の作家がリレー形式でお話を作るという、おもしろい手法で書かれた作品である。原案者が世界最高の権力者というのが売りなのだが、ミステリーマニアとしては、アンソニー・アボットのサッチャー・コルト市警本部長、S・S・ヴァン・ダインのマーカム地方検事、アール・スタンリー・ガードナーのペリイ・メイスン弁護士という三人のスターが共演した作品という点にも関心を惹かれる。そういえば先日読了したドロシイ・ヒューズ『E・S・ガードナー伝』にはこの本のことは触れられていなかった。本書への参加は、ガードナーにとっても結構な重大事だったと思うのだけど。
かの国の最高権力者では、第十六代大統領のエイブラハム・リンカーンも「トレイラー殺人事件の謎」という短篇作品を書いている。この珍品は丸谷才一編のミステリー・ファンブック『探偵たちよ、スパイたちよ』に野崎孝訳で収載されているのでぜひご一読を。リンカーンが弁護士時代実際に見聞した事件を元に書いたと伝えられる作品だ。ミステリーファンと伝えられる大統領も多く、第三十五代のジョン・F・ケネディがイアン・フレミング〈007シリーズ〉のファンであったことは有名だ。早川書房はこの事実を長らく宣伝に利用していましたね。翻って日本では、内閣総理大臣にそうした趣味があるとの噂をあまり聞かないような気がする。最近では小泉純一郎が加藤廣を愛読していると発言して話題になったが、そのくらいか。野村胡堂の愛読者と公言していた吉田茂は、さすがに教養人である。
奇跡のように天気に「恵まれた」運動会だった。というのも、午前中の競技の間はまったく雨が降らず、昼食時間に入った瞬間に土砂降りの豪雨、午後の競技が始まる頃合にすっぱりと上がって、閉会式までもったからである。閉会式にはPTA会長として挨拶をするのだが、登壇した瞬間に鼻先に雨滴を感じた。「雨が心配なので挨拶は短くします」と口を開く間も雨足は近づき、三十秒程度で話を終えて壇から降りたら一斉に降り始めた。短くまとまる話を準備しておいてよかった。あれ以上話していたら、空気の読めない大人と思われるところだった。最後に六年生の児童が「おわりのことば」を話したのだが、さすがに準備した原稿をつまんで短くすることはできないので、長々と雨に打たれながらの宣言となった。まあ、仕方ないです。
ちなみに、昨日は都内某所で会食の約束が入っていたので、運動会を途中で中抜けしてまた戻るという強行スケジュールとなった。一昨日の雨がなかったらもう少しゆっくりできたのだが、こればかりは天の気まぐれなので仕方がない。運動会終了後は来週末に迫ったデイキャンプの備品チェックを夕方まで。その後は引越しをされる方の慰労会で深更まで騒いだのでした。そんなわけで原稿は一字も書いていません、うす!