鮎川哲也賞の選評はいつも分析的で参考になるのだが、今年は特に優れている。受賞作『午前零時のサンドリヨン』を読了して、そう感じた。北村薫さんが新たに加わった効果なのだろうか。
興味深かったのは、笠井潔氏がこの作品の語り文体(主人公の僕が読者に語りかけるように綴る)について「庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を思わせる」とし「薫文体の軽さは、軽さという重さであり、それは時代によって形が異なる」(この物言いはわかりにくいが、庄司は時代の空気に逆らってあえて軽さを選択した作家である。そうした意志の重みを指しているのだろう)が、『午前零時のサンドリヨン』の作者である相沢沙呼は「軽さの意味をあまり深く捉えていない」「この文体がそのまま四十年後でも通用するだろうか」と批判した点である。
鮎川哲也賞の受賞作品にそこまで時代と切り結ぶことを求めるべきか、という異議がありうるということを一応指摘しておきたい。だが笠井氏は文体以外にも、「この時代を生きることへの作者の態度に疑問がある」とし、問題点を複数挙げている。「ケーキのトッピング程度」「(主人公の苦悩を)この程度に設定しておけば、悩んでいることになるだろう、悩んでいる人物として読者に通用するはずだという判断の常識性」(常識を疑いもせずに作品に書き込んでしまう無邪気さへの恐れ、ということか)といった厳しい批判は、小説を読んだ限りでは的確なものである。米澤穂信作品の持つ「苦さ」のようなものが欠けているという指摘ももっともだ。
この点について、山田正紀氏は優しい弁護を述べている(どうやら四人の選考委員のうちで山田氏が一番の擁護論者だったらしい)。「ちょっとビターでスイートなラブコメ」として本書を推すという意見には賛成だ。小説をそういう観点から評価する人がいてもいいのである。主人公とヒロインの人間関係を「『うる星やつら』のあたるとラム」に喩えたのは若干誤解を招きかねないが、高橋留美子の名作の如くヒロインが主人公を追っかける図式が成立しているのではなく、ボーイ・ミーツ・ガールの図式と、「ヒロインの真の顔を主人公が知ること」が物語の主題になっているという点に山田氏は相関を見出されたのではないかと思う。
島田荘司氏は両者の意見を公平に聞き比べた結果、山田氏支持に転じたようである。その指摘も的確。主人公を「安全な愛玩動物的男子」と断じ「少女趣味型の定型パーツ」によって組まれた物語と作品を評した。これももっともである。島田氏が笠井氏と異なる点は、あくまで視点が読者寄りであることだ。作品がミステリ・マニアのスノビズムに彩られていることは認めつつも、読者の立場から見て場合、文章と物語運びに逃れがたい「吸引力の強さ」があることを大きく評価し、それを作者のセンスと見なした。笠井氏が認めなかった語りの文体も、その吸引力のための撒き餌と見做したのである。この辺の違いに、両者のミステリ観が見えて私にはおもしろかった。
最後の一人、北村氏に関しては、作品が持つ老練な感じに着目し、応募作が受賞後の書き直しによってどの程度改善されるかにこだわられたようであった(他の賞でも同様の評を見たことがある)。これはあくまで『午前零時のサンドリヨン』一作に限ったことで、作者である相沢氏の「のびしろ」の有無を問う評ではないだろう。
公刊された作品に、どの程度加筆修正がなされたかは知る由もない。だが「まとまり過ぎ」という北村氏の評は、笠井氏の批判と同様、この作者が真摯に受け止めるべき言葉だと私は考える。『午前零時のサンドリヨン』は、愛らしく、素敵な小説だ。作品としての完成度も高い。四つの小エピソードが最後にまとまったときに真の解決が訪れるように設計された小説で、伏線の置き方や、恋愛ドラマとの組み合わせなどにも芸があって、誠に結構である。だが、このまとまりはあくまで今回限りのものなのだ。愛嬌のある主人公、わかりやすい弱点があるヒロイン、甘いラブコメ風の雰囲気など、すべての要素が今回は正の方向に働いた。逆に言えばどれを欠いても成立しなかった物語ということで、似たような部品を使って第二の『サンドリヨン』を作ることはできないのである。
作者が資質を問われるのは次回作だろう。願わくば本書の続篇ではなく、まったく違った題材によって読者に向き合われることを期待する。「DL2号機事件」の次は、やはり『11枚のとらんぷ』であってもらいたいのだ。