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(1/25)書評は誰のもの?

 誰のものかといえば、それは読者のために他ならない。読書をする人のために良き道しるべを作ることが書評家の仕事だ。そして書評は、必ずしも作者の意図に沿ったものにならないのである。評者の「読み」が介在するからだ。素直に読みこなしたように見える書評であっても、一旦評者を経由した以上は、作者の意図を直接伝える文章にはならない。それは書評の担うべき役割ではないと私は考える。極論してしまえば、作者の手の届かないところで、読者のために働くのが書評の役割である。

 書評家とは、作品と読者の間に立って、両者をつなぐ役割を担う者だ。未知の世界を前にして手をこまねいている人に、書評家は「さあ、こういう風景を見たくはありませんか」と語りかける。そのときの語りに魅力がなければ、足踏みをしていた人はそのままきびすを返して去ってしまうことだろう。いかに語るか。作品に対して嘘をつかず、なおかつその作品の美点を的確に語るか。書評家の良い「読み」がなければ良く「語る」ことは不可能だし、良く「語れない」のであれば良い「読み」をしたにはならない。あるいはそれが無駄になってしまう。

 こうして書くと、では「読み」など介在させずに、作品という素材をそのまま呈示すればいいではないですか、と言われそうだ。そうした意味では「要約」は非常に有効な手段である。良い要約のある書評は、良い書評だ(ただし良い書評が必ず良い要約のある書評というわけではない)。しかし「要約」のためには、良い「読み」が必要になるはずである。単純に作品の尺を縮めたものが良い要約になるわけではないのだ。

 どんな書評がいい書評なのかという絶対の解答は、私の中には今はない。全力で作品に取り組んだ結果を、毎回毎回読者に呈示しているつもりではある。ではそれが最良のものかと問われれば、正直にそうではないかもしれない、と答えるしかないのだ。わかっていることは一つだけしかない。書評が読者のものであるということだ。その一点を忘れない限り致命的な間違いは犯さずに済むのではないか。そんな風にぼんやりと私は考えているのである。甘いといわれても、これは仕方がない。

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Comments

こんばんは。
(私を含めた)素人がブックレビューをブログでしている今、プロの書評とはいったいなんなのだろう、素人とプロの境界線には何があるのだろうかとふと思いました。

Posted by: ふる | January 28, 2010 at 11:50 PM

>ふるさん

 コメントありがとうございます。
 書評家のプロがなにをもってプロと名乗れるかという点については、技芸をもって示すしかないのかな、と思っています。これこれの資格があるがゆえにプロである、とはいいにくい稼業ですから。これは逆にプロとして生業にしていない方に率直なご意見をいただきたいですね。これは以前にどなたかから言われたことですが、プロとアマチュアの境界線は打率ではないか、というものでした。つまり一つ一つの書評を比べると、プロが優れているときもあるし、アマチュアの方が優れていることもある。しかし、多くのサンプルをとって比較してみると、プロの書評はおおむね水準以上の品質を確保できているが、アマチュアの書評はそうではない。そうした安定感が信頼につながっている、というのが理想的なプロ書評のありかたかな、という気はします。

ちなみに津原泰水さんがご自身で運営されている掲示板に書評試論をお書きになっていました。ぜひご参考になさってください。
http://www.tsuhara.net/top.html

Posted by: 杉江松恋 | January 29, 2010 at 01:09 PM

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