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(1/26)私はなぜバナナの叩き売りであることをやめたか

 もう十年以上も前になるが、書評ライターという仕事を始めたとき、私は自分の仕事をバナナの叩き売りの一種とわきまえていた。啖呵売といっても判る人は少なくなってきたと思うが、要するに調子良い売り文句で人に物を買わせてしまう稼業のことである。とにかく書評家の仕事は本を売ること。自分の書いた文章を読んで一人でも多くの人が買ってくれれば、それで任務をまっとうしたことになると思っていた。

 ある時までは。

 そういう考えを改めてくれた恩人は、関口苑生氏である。あのころのは、若輩者からしてみれば大変にコワい存在だった。新宿の薄暗い飲み屋で(カウンターの反対側には襲撃されて怪我をしたばかりの岡留安則氏がいた。そういうたぐいの店である)、関口氏は駆け出しライターの私に言ったものである。

 おまえよう、本当にそれでいいのかよ。そういう文章を書いて、おまえの存在ってものはなんなんだよ。

 言葉の細部は忘れてしまったが、だいたい合っているはずだ。オマエハソレデイイノカ。その問いが非常に胸に沁みた。バナナの叩き売りの口上をただ流すだけならば本人不在でもできる。録音されたメディアが一つあればいいだけだからだ。スーパーの店内に繰り返し流される「店長のお買い得情報」というやつと同じである。情報は画一化し、縮小すればちらしになる。ちらしは買物のためには非常に役立つのである。

 しかし、自分はちらしを書きたいのか。

 私が書評家が存在することの意味についてぐだぐだ考え始めたのはそれがきっかけだ。書評家の役割は読者の用向きに合った読書のための情報を提供することにある。そこに書評家自身の視点が必要であるか否か。不要である、という意見の人もいる(要約=ガターは必要だが、評価=スタンプは不要という立場)。書店でぱらぱらと立ち読みができればそれでよく、他人の意見など参考にしないで本を買うという人も多いだろう。そういう人にとって、自分の切り口から本を人に薦めるという書評家の仕事は必要ないのだろうか。あるいはバナナの叩き売りのように、遠くまで聞こえる売り口上さえあれば、情報として十分なのだろうか。

 私は、たいして確信がないままに、そうではないような気がする、と思い込んだ。思い込んだまま、ここまで来ている。大袈裟にいえばこれは、職業として在ることへの問いである。この問題を考えることをやめた瞬間、書評家は存在意義を失う。答えは容易に出ないのだが、それでも考え続けるしかないのである。

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