例年どおり都内某所のホテルで行われた「このミステリーがすごい!」大賞授賞式に出席してきた。というものの、所用で遅刻したため受賞者の挨拶などはお聞きすることができず仕舞いであった。あしからず。式を終えて二次会は、近くの土風炉へ。たしか昨年は東方見聞録だったような。某ホテルとの落差がたまらない。これぞ「このミス」大賞の醍醐味である。なにしろ一年目は西田ひかるがお誕生会に使っていた六本木の某バブリーなパーティースペースだったのに(女性編集者全員晴れ着着用)、二年目は宝島社近くのダイアモンド・ホテル地下の中華料理屋となり、二次会は「笑笑」となるという派手な落差を経験済みなので、もう何があっても驚かない。出版社のお金だし、節約するならしたほうがいいもんね。来年は最初から和民とかでも全然問題なしです、局長!
その局長の先導で二次会会場までは移動したのだが、それほど多くない人数であるにもかかわらず、いとも簡単に隊列は千切れ、後方の人々がはぐれる。いかに作家と書評家が協調性がない人たちであるか、これで証明されたであろう。「土風炉」では三人の受賞者を前に茶木則雄さんがひさびさに熱い応援トークを展開。誰も口を挟む余地がない熱弁ぶりに、その一角だけが男塾と化したのだった。あれだけ熱くなった茶木さんはひさしぶりに見たなあ。
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※お断り。以下の記述でデイヴィッド・マドセン『カニバリストの告白』の内容に触れます。未読の方はご注意ください。
ご存じの方も多いと思うが、唐沢俊一氏の文筆活動を監視し、その一つ一つについて批判を行っているブログがある。複数あるのだが、その中でもっとも閲覧者数が多く、影響力も強いだろうと思われるのが「唐沢俊一検証blog」だ。ブログの主であるkensyouhan氏の努力と、公平な立場での検証を心がける姿勢には頭が下がる。私も同ブログの愛読者である。
その上で一点、気になったことを書く。昨日の同ブログのエントリーは「唐沢俊一の「朝日新聞」書評について。」と題したもので、唐沢氏が朝日新聞書評委員を務めた間に行った書評仕事を総括して批判するものだった。書評を生業とするものとして興味深く読んだのだが、その中にデイヴィッド・マドセン『カニバリストの告白』について触れた箇所がある。kensyouhan氏は同書についての唐沢書評は「唐沢俊一はどういうわけか書評の中でこの小説が人肉嗜好をテーマにしていることについて一言も触れていない」と批判する。「そもそも『カニバリストの告白』というタイトルを見れば本の内容はすぐにわかってしまうのだから、言葉を規制する意味なんてないのに」とも。
実は検証blogがその唐沢書評を取り上げたのは初めてではない。同書評は二〇〇八年八月三十一日に朝日新聞に掲載されたのだが、直後の九月三日に「まさに人を食った書評。」として最初の批判が行われた。その中でkensyouhan氏は上記と同じ趣旨の批判を行い「朝日新聞から規制があった様子もない。それに規制するくらいなら最初から書評委員会で本が取り上げられるはずがない」と付け加えている。
その後、唐沢氏が自身のサイトで二〇〇九年三月十八日に「それからカニバリズム小説なのに、朝日の規定で“人肉食”という言葉が
使えず悲鳴をあげながら書いた『カニバリストの食卓』」(どうでもいいけど書名が間違っている。引用元ママ)と書いたことについて、kensyouhan氏は追撃を行った。同年十月二十七日の「天下の朝日に責任転嫁?」記事がそれで、kensyouhan氏は朝日新聞が人肉食という言葉を規制した事実はない、と複数の事例を挙げて証明している。
事実関係は以上の通りで、公平に判断するならkensyouhan氏の主張はもっともである。ただし、私は唐沢氏が『カニバリストの告白』について人肉食の要素を書かなかったことを支持する。なぜならば、その件は全三百五十一ページの本文の、二百七十ページ目で初めて明かされる事実だからだ。ミステリーとして『カニバリストの告白』を読みたい人にとって、これが重大かつ許されざるネタばらしであることは言うまでもない。私が同書の書評を行うとしたら、この一件は絶対に伏せるはずだ。代わりに別の要素を書く。いくらでも書くことはあるからだ。同書の主人公は亡き母親に対して近親相姦的な愛情を抱いており、母親に認められたという事実が料理への情熱に結びついている。そうするとどうなるか。彼にとって肉を料理することは、母親とのセックスにつながる快楽になるのだ。そうした「肉欲」のグロテスクさだとか、全体に充溢している下ネタだとか、書くべきことはいくらでもある。だいたいこの小説は一ページ目に「小刻みに震えるクリームのようになめらかな肛門にズッキーニを挿入」された死体が出てくる、とんでもないブラックユーモア小説なのだ。ここを紹介しなかったらチキンだね。
だから唐沢氏は、規制云々などと言わずにミステリー書評の姿勢として書かなかったのだ、と主張したらよかったのである。それであれば私はこの件に関しては全面的に氏を支持した(他のことは未確認だから知らない)。
ただし、kensyouhan氏や町山智浩氏が言うように『カニバリストの告白』という題名を見れば、ある程度の教養がある人間なら絶対に人肉食の小説である可能性を疑うだろうと思う。そういった意味ではkensyouhan氏の批判も的外れではない。同書をミステリーではなくて主流文学の喜劇小説として読むことは可能だからだ(その場合でも私は人肉食のことは書かないと思う。読者から気付きの機会を奪うことは書評の役割ではないと考えているからだ)。
以上はkensyouhan氏と唐沢俊一氏いずれの肩を持つつもりもなく書いた。唐沢俊一検証blogの愛読者ではあるが、誰かの尻馬に乗って個人攻撃を行うことほど卑劣な行為はないと思うし、どんな過激な言説であっても、その中にきちんとした検証の姿勢があれば、批評として成立すると考える(kensyouhan氏のブログを評価するのはまさにその点である)。だからこそ、今回は公平な立場から意見を申し上げた次第。長文失礼致しました。
あ、『カニバリストの告白』は抜群におもしろいから読むといいよ。上記のネタばらしがあっても小説の魅力が(それほど)大きく損なわれたことにはならないと思います。ぜひぜひ。
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昨日は某社にて新人賞の二次選考会に出席してきた。近年まれに見る豊作で、新人賞作品を読みながらこんなに楽しかったのもひさしぶりだし、私の箱から最終候補に残す作品が出たのも喜ばしかった。つまりは充実した下読みだった。あとは、最終選考で大賞作品が出て、ベストセラーになることを祈るのみだ。
やや残念だったのは、圧倒されるほどの個性を感じた作品がいくつかあったのに、残せなかったことである。あるものは、商業出版に適さない内容だった。作者のテーマは明確で、それを小説にするためのプランも適切なものだったが、残念ながら商業出版として流通するには問題があったのだ。テーマを選択した時点でそのことに気付き、多くの人から賛同を得られるような角度で書くという配慮をしてくれていたら、と残念でならない。また、明らかに筆力はあるものの、小説の構成としては破綻している作品が何点かあった。大胆、と好意をもって受け止めてくれる人はいるかもしれないが、多くの読者は稚拙と感じることだろう。いずれも、小さくまとまっているだけ、という作品よりは大いに好感をもった。私としては熱心に推したのだが、賛同は得られなかった。二次落選なので、大幅な手直しをすれば他賞への応募も認められるのではないかと思う(そのまま出したら絶対に落とされるけど)。伝わるかどうか知りませんが、作者にはなお一層の精進をされることを希望します。
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講談社がランダムハウス講談社への出資を引き上げるという報を知った。これで会社としてはランダムハウス社の百パーセント子会社になるということか。日米企業が合弁で一つの理想を追い求めるという夢は破れた。会社を設立した時期もよくなかったと思うし(あと十年早ければ)、さまざまな不運も重なった。これで会社を清算することなく、引き続き出版事業を続けてもらいたいものである。私の仕事に関連していえば、コージー・ミステリーの売れ筋のいくつかは、この会社から出ているのだから。
それにしても残念なのは、数年前に始まったランダムハウス講談社新人賞のことである。受賞作を英訳して日米で同時デビューさせるという構想は実に素晴らしいもので、世界に通用する才能を輩出する可能性があった。第一回に『回転する熱帯』の望月飛鳥、第二回に『マジックランタンサーカス』の一村征吾という受賞者を出したが、残念ながら世間を巻き込むほどの話題作を出すには至らなかった。今ではランダムハウス講談社新人賞の公式サイト自体が消滅しており、第三回はおそらく実施されないだろう。
この後ランダムハウス講談社がどういう方向に進むのかはわからないが、日本人作家の海外輸出という試みは、できれば続けていってもらえないだろうか。提携を解消した講談社は、傘下に講談社インターナショナルを抱えて宮部みゆき作品などの輸出で実績を作り続けている(そのことがあったから前述の新人賞創出という事業案が浮かびあがったのだろうか。外野にはよくわからない)。現役作家をそちらでやるなら、ランダムハウス社では旧作を主に採り上げるとか、いくらでもやりようはあるのではないだろうか。ミステリーなど、ジャンル小説の中には海外に通用する作品は多数ある。ぜひ実現を望むものである。日本推理作家協会も、つまらない内向きの施策なんて全部やめて、海外向けの事業に着手してはどうか。
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インタビューが終わり、今帰ってきた。しかし講談社の前にあるラーメン屋は前を通るたびに様変わりしているような気がする。前はたしか200円台のラーメンを出す店だったが、今度はトマト麺になっていた。その調子でがんがん変われ。一度も入ったことないけど。
高田崇史さんとお話するのはひさしぶりだが、前にお会いしたときはたしか金髪だった。PTA会長をやるので金髪を止めましたと言ったら、今でもあまりPTA会長には見えないと笑われた。その通りです。
いつもはだいたい120度ぐらいに椅子を並べて話をするのだけど、今回はテーブルを挟んでのインタビューだった。カメラがお互いの背後から見えているのでカンペが丸見え。仕方がないので割り切って手元に置いてやりました。だって、名前の読みとか、間違えたら大変だもの。高田さんはどうするのかと思ってみたら、覚書のメモをテーブルの引き出しに入れていた。ずるい。高田さんの側にしか引き出しがなかったのだ。まあ、そのメモがなくてもすらすらとお答えになっておられたのだが。
三十分ぐらいでインタビューはおしまい。この模様は来月のAXNミステリーブック倶楽部で放映される予定です。
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本日は外出して、講談社にて高田崇史さんのインタビュー。AXNミステリーで放映されるので、観てください。
高田さんにお会いするのは二度目でひさしぶりだ。たしか前回は『毒草師』の刊行時だったはず。
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隔週連載コラムの、「私、辛党ですけど〈お茶とケーキ〉プリーズ!」を更新しました。今回の題名は、クレオ・コイルは知っている。大人の味を知っている。違いの分かる人のためにダバダーの巻。 相変わらずな題名で申し訳ないのだけど、中身はまともですのでぜひ読んでください。あなたのコージーミステリー観は、この連載で変わると思う。
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もう十年以上も前になるが、書評ライターという仕事を始めたとき、私は自分の仕事をバナナの叩き売りの一種とわきまえていた。啖呵売といっても判る人は少なくなってきたと思うが、要するに調子良い売り文句で人に物を買わせてしまう稼業のことである。とにかく書評家の仕事は本を売ること。自分の書いた文章を読んで一人でも多くの人が買ってくれれば、それで任務をまっとうしたことになると思っていた。
ある時までは。
そういう考えを改めてくれた恩人は、関口苑生氏である。あのころのは、若輩者からしてみれば大変にコワい存在だった。新宿の薄暗い飲み屋で(カウンターの反対側には襲撃されて怪我をしたばかりの岡留安則氏がいた。そういうたぐいの店である)、関口氏は駆け出しライターの私に言ったものである。
おまえよう、本当にそれでいいのかよ。そういう文章を書いて、おまえの存在ってものはなんなんだよ。
言葉の細部は忘れてしまったが、だいたい合っているはずだ。オマエハソレデイイノカ。その問いが非常に胸に沁みた。バナナの叩き売りの口上をただ流すだけならば本人不在でもできる。録音されたメディアが一つあればいいだけだからだ。スーパーの店内に繰り返し流される「店長のお買い得情報」というやつと同じである。情報は画一化し、縮小すればちらしになる。ちらしは買物のためには非常に役立つのである。
しかし、自分はちらしを書きたいのか。
私が書評家が存在することの意味についてぐだぐだ考え始めたのはそれがきっかけだ。書評家の役割は読者の用向きに合った読書のための情報を提供することにある。そこに書評家自身の視点が必要であるか否か。不要である、という意見の人もいる(要約=ガターは必要だが、評価=スタンプは不要という立場)。書店でぱらぱらと立ち読みができればそれでよく、他人の意見など参考にしないで本を買うという人も多いだろう。そういう人にとって、自分の切り口から本を人に薦めるという書評家の仕事は必要ないのだろうか。あるいはバナナの叩き売りのように、遠くまで聞こえる売り口上さえあれば、情報として十分なのだろうか。
私は、たいして確信がないままに、そうではないような気がする、と思い込んだ。思い込んだまま、ここまで来ている。大袈裟にいえばこれは、職業として在ることへの問いである。この問題を考えることをやめた瞬間、書評家は存在意義を失う。答えは容易に出ないのだが、それでも考え続けるしかないのである。
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誰のものかといえば、それは読者のために他ならない。読書をする人のために良き道しるべを作ることが書評家の仕事だ。そして書評は、必ずしも作者の意図に沿ったものにならないのである。評者の「読み」が介在するからだ。素直に読みこなしたように見える書評であっても、一旦評者を経由した以上は、作者の意図を直接伝える文章にはならない。それは書評の担うべき役割ではないと私は考える。極論してしまえば、作者の手の届かないところで、読者のために働くのが書評の役割である。
書評家とは、作品と読者の間に立って、両者をつなぐ役割を担う者だ。未知の世界を前にして手をこまねいている人に、書評家は「さあ、こういう風景を見たくはありませんか」と語りかける。そのときの語りに魅力がなければ、足踏みをしていた人はそのままきびすを返して去ってしまうことだろう。いかに語るか。作品に対して嘘をつかず、なおかつその作品の美点を的確に語るか。書評家の良い「読み」がなければ良く「語る」ことは不可能だし、良く「語れない」のであれば良い「読み」をしたにはならない。あるいはそれが無駄になってしまう。
こうして書くと、では「読み」など介在させずに、作品という素材をそのまま呈示すればいいではないですか、と言われそうだ。そうした意味では「要約」は非常に有効な手段である。良い要約のある書評は、良い書評だ(ただし良い書評が必ず良い要約のある書評というわけではない)。しかし「要約」のためには、良い「読み」が必要になるはずである。単純に作品の尺を縮めたものが良い要約になるわけではないのだ。
どんな書評がいい書評なのかという絶対の解答は、私の中には今はない。全力で作品に取り組んだ結果を、毎回毎回読者に呈示しているつもりではある。ではそれが最良のものかと問われれば、正直にそうではないかもしれない、と答えるしかないのだ。わかっていることは一つだけしかない。書評が読者のものであるということだ。その一点を忘れない限り致命的な間違いは犯さずに済むのではないか。そんな風にぼんやりと私は考えているのである。甘いといわれても、これは仕方がない。
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昨日深夜から本日未明にかけて、twitter上で複数の書評家・批評家が書評と批評について議論を行った。豊崎由美→米光一成→伊藤信也→杉江松恋の順で参加して、少しずつ重なりながら話をしたのである。偶然発生した言葉の連なりを、小嶋智氏がまとめてくれた。いろいろ触発された議論なので、これはたいへんありがたい。書評に関心のある方は、よかったらご覧になっていってください。詳細はコチラ。こういうお話を継続してやっていけたらいいな。
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twitterで指摘をいただいたので『小林信彦60年代日記』を引っぱり出してきた。一九六一年十一月二十日の日記に、常盤新平氏が編集人で作った伝説の雑誌「ホリディ」の記述がある。三号で潰れるカストリ雑誌どころか、一号で無くなってしまったのである。
一九六九年には、常盤氏が早川書房を退社した前後の慌ただしい事情が記されている。五月二十八日に福島正実氏が退社、小林氏は「早川書房では、福島なきあと、トップになっ常盤新平の独裁政治が始まるとか。やれやれ」と嘆いている(これは偶然だが、次の六月一日の日記は翻訳家・村上啓夫の訃報を伝えるもの。小林氏は焼香後福島宅を訪れ、故人を偲んでいる)。ところが十月七日には「常盤新平が早川書房をやめた、と人に教えられる。なにがあったのか?」との記述が。小林氏は常盤氏の退社の会を欠席するのだが、人づてに「白けきった会で、酔った福島正実が荒れたという」と聞く。その感想が「一九六〇年ごろに、私たち〈若者〉が抱いた夢の塊が泥でしかなかった、というだけのことなのに」という述懐であるのは、同時代の空気を知らない人間には今一つわからない。小林氏は一九六〇年代に「ヒッチコック・マガジン」の編集人を務めて退任、福島氏は『未踏の時代』に記されたSF小説啓蒙の時期を過ごしたわけなのだから、そうした「何か新しいものが生まれる」という期待が、果たされずに終わったということなのだろうか。このへん、文庫化された『未踏の時代』を読み返すと見えてくるものがあるように思う。
ちなみに、小林氏は人から(前述の、会の模様を伝えた人とは別らしい)「とにかく、あれだけ悪い編集者はいなかったです」との常盤氏の人物評を聞き、〈当然のなりゆき〉と頷いている。編集人としては評価していなかったのだろう。
この『60年代日記』は、小林氏がマルチタレント文化人から本格作家への脱皮を模索していたころの、苦渋に満ちた気分が克明に描かれている。小林氏を嫌う人も多いだろうが、本書は一読をお薦めしたい。何かをつかめずにあがいているときの心境が、四十年という時間を越えて今の読者にも響くと思うからだ。六〇年代の小林氏は二十代半ばから三十代という年齢だった。一九八五年に出たこの本を読んだとき、私は十代後半だったのである。自分の二十代もこんな風に苦いものになるのか、と戦慄しながら読んだ記憶がある。バブル景気というものが到来し、小林氏よりも自分の二十代はいくらか賑やかなものになった(と錯覚していた)のだが、同じ年代のときにもう少し苦悩しておけばよかったかと悔やむ気持ちもある。今四十代にさしかかってこの本を読み、再び愕然としているのである。二十代で呟くべき言葉を、今の自分は口にしているではないか。遅刻するにもほどがある。
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吉田豪さんのインタビューを読むためだけのために「BREAK MAX」を定期購読しているのだが、先月号から前後編で乗っている蛭子能収の回が異常におもしろい。もう受け答えの一つ一つが神業である。
蛭子 俺ね、『オンステージ』っちゅう雑誌でXとかのコンサートを観て感想を描くっていう仕事でもほとんど寝てましたね(あっさりと)。すごい音量でワーッてやってるんだけど、すごい寝るんですよ。X JAPANも観たし、いろいろ観ましたね。でも寝た。
――さすがですよね(笑)。
蛭子 何がいいって、騒音の中で寝てるといろいろな漫画のアイデアが浮かぶんですよ。
うわあ、すげえ。でもこんなの序の口なのである。
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昨日古書店で購入した常盤新平『ブックス&マガジンズ』(サイマル出版会)を読んでいたら、なかなか大胆なことが書いてあった。常盤さんは一九五九年から一九六九年まで早川書房に在籍していた。その間の失敗談である。誤訳が問題になって、本が絶版に追い込まれたことがあったというのだ。曰く、
――ハヤカワ・ミステリの編集担当は私一人である。『デルチェフ裁判』は定評のある訳者の仕事だったので、私は原稿を読むこともせず、製作担当者にわたした。それが失敗だったのである。本になってから、誤訳を指摘する読者の手紙が何通か来た。早川書房の本をよく書評にとりあげてくださる評論家から、はじめからまるで意味が通じないと言われた。社長の早川氏からだいぶ叱られた。
それで絶版である。あっけらかんと書いてあるが、何がまずいって編集者が上がってきた原稿を読んでいないことが一番まずいことは言うまでもない。この月、ハヤカワ・ミステリは十三点もの新刊があったそうで、それを常盤さん一人が担当していたのだそうだ。すごいことをしていたんだなあ。でもノーチェックでスルーというのは今なら考えられない事態である。
調べればすぐわかってしまうことなので書くが、『デルチェフ裁判』の訳者は森郁夫だ。ヘンリー・スレッサーやクレイグ・ライスなどの訳書があり、軽妙な感じで私は好きだった。アンブラーとはよほど相性が悪かったのか。機会があったら読み返してみたいと思う。
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ここ半年で自分が仕事をしている業界の様子が大きく変わってきた。一言で表すなら、悪いほうに事態が動いている。つきあいのある媒体でぎりぎりのところまで追い詰められているものもあるし、昔だったら絶対にしないようなさもしい施策を打ち出してきたところもある。それもこれも経済環境の悪化が原因だ。
一年前であれば、武士は食わねど高楊枝で、周囲はどうであろうと自分は自分、を貫くことができた。いや、今でもそうしようと思えばできる。自分の収入の問題ではない。ライターとして働けなくなったら、他の仕事に就けばいいだけの話だ。節を曲げてまで生き残りたくない、と言い放つのは簡単なことなのである、実は。
自分自身というより、自分がお世話になってきた文化に関する問題だ。それが今、終焉を迎えようとしている。未曾有の危機と言ってもいい。そのときに、自らの身だけ清ければいいのか、ということである。手を汚したくないがために、大樹が朽ちていくのを座して見守っていていいのか。できることがあるのなら、今こそ手を差し伸べるべきではないか。
今までは、他の物書きが自己顕示欲をむき出しにする姿勢を、さもしいものとして嫌ってきた。そういう風に自分を売りこむのではなく、著わしたものによって自ずから名が高まっていくのが本来のあるべき姿勢ではないかと考えていたのである。また、そうした自重しない姿勢は身を滅ぼす元だとも思っていた。
だが、そうしたことを言っていられない事態が出来したのである。手を汚すべき時であり、身を惜しまずに動くべきときである。自分の名前を売ることが少しでも何かの役に立つのであれば、そうしなければいけない。気取り屋は必要ない。太鼓持ちと呼ばれようが、媚態が醜いと言われようが、とにかくすべきことをするときに来た。同業者諸氏にも広く呼びかけたい。あなたが高潔な文士でいられる時代は終焉した。これから必要なのは、どぶ板営業のセールスマンだ。若松孝二に倣って私も言いたい。俺は手を汚すぞ。
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今回は直木賞作品に挑戦してみました。詳細はコチラ。
表現には気を遣ったつもりなのだが、これでもまだちょっと角がとれていないかもしれない。
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本屋大賞のホームページで今年度の候補作が発表になっていた。詳しくはコチラ
露骨な直木賞候補作外しになっているのがおもしろい。せっかくなら松尾スズキ『老人賭博』も入れてあげて反直木に加えて反芥川の姿勢も明確にしたらよかったのに。投票で決まる候補作だから、そういう仕掛けはできないか。
候補作に上がった中では、私は『天地明察』を支持します。山田風太郎賞と二冠とっちゃえ。あっちの方で候補になっているかどうかは知らないけど。
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翻訳ミステリー大賞シンジケートで、新しいコーナーを始めた。コーナー名は、
杉江松恋の「私、辛党ですけど〈お茶とケーキ〉プリーズ!」
第一回のタイトルは、
アリス・キンバリー〈ミステリ書店〉のおもしろさは、ニバイ、ニバイ(by高見山大五郎)の巻
である。
不真面目なタイトルですまぬが、中身は大真面目なのでぜひ読んでください。コージー・ミステリーのシリーズを隔週で採り上げていく予定である。
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樋口明雄『約束の地』、道尾秀介『龍神の雨』が受賞とのことである。そうか道尾さんが対象になるか、と報せを受けて感心してしまった。最近のこの賞は、近藤史恵『サクリファイス』や東山彰良『路傍』など、他の文学賞ではなかなか拾ってくれない作品に賞を授けてくれることが多くなっている。当初は冒険・ハードボイルドの賞というイメージがあったが、すっかり衣替えしたといってもいいのではないだろうか。いわゆるクライム・ノヴェル、英米で使われている広範な意味の犯罪小説の賞として定着した観がある。とてもおもしろい賞に育ったものだ。こうなると来年が楽しみである。こちらの予想を裏切るような作品に毎回授賞してもらいたい。
これは授賞式に行かなくちゃ。
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これはかなり笑った。
「グッチャネでシコッてくれ」河童に脳みそをかき回される『粘膜人間』
心ある人はしかるべき箇所に注目するものだということがよく判る書評だ。これが連載四回目なのだが、『粘膜人間』以前に採り上げた作品が、『封印漫画大全』『羆嵐』『魔羅節』の三冊だというのも素晴らしい。その調子でいけ!
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かくも訃報が相次ぐとは。去る人は日々に疎しというが、自分にとって大切な人の思い出はいつまでも胸に止めておきたいものである。
昨日は都内某所の書店で「AXNミステリー ブック倶楽部」の収録を行った。いつもの番組とは少し趣向を変え、書店の「こういう本棚を作ってもらいたい」という求めに応じて書評家が店内から本を選んでくる、というコーナーをやってみたのである。店長が呈示したテーマに基づいていろいろ本を選んだのだが、さて、あれでご希望に沿うものになったといえるかどうか。実際の撮影がどうなったかは、2月に放映される番組をご覧になって確認してください。
なかなか楽しい撮影だったので、またやってみたいものである。全国の書店さんからのお声がかりを待つ。
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すでにご覧になっている方も多いと思いますが、翻訳ミステリ大賞シンジケートでは2月10日に読書会を予定しています。関東近郊で参加できる方は、ぜひお越しください。詳細はコチラ。
本日はこれからPTA関係の会議に出席し、それから都内某所でAXNミステリーの収録だ。閉店後の書店を借りてやるので、22時スタートなんですと。そんなわけで今月はプロレス焼き肉にはいかないのだった。
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昨日の第三回バカミス☆アワード候補作募集に対して寄せられたご意見の数々を、リストにしてご報告します。こんな作品名が挙がりました。とりあえず経過報告ということで。
(順不同)
・『青酸クリームソーダ』佐藤友哉(講談社ノベルス)
・『サンドマン・スリムと天使の街』リチャード・キャドリー(ハヤカワ文庫FT)
・『レポメン』エリック・ガルシア(新潮文庫)
・『死神を葬れ』ジョシュ・バゼル(新潮文庫)
・『解雇手当』ドウェイン・スウィアジンスキー(ハヤカワ・ミステリ文庫)
・『迷惑なんだけど?』カール・ハイアセン(文春文庫)
・『バッド・モンキーズ』 マット・ラフ(文藝春秋)
・『ダイナー』平山夢明(ポプラ社)
・『ロング・ドッグ・バイ』霞流一(理論社)
・『忙しい死体』ドナルド・E・ウェストレイク(論創社)
・『麗しのオルタンス』ジャック・ルーボー(東京創元社)
・『ババ・ホ・テップ』ジョー・R・ランズデール(ハヤカワ・ミステリ文庫)
・『ANOTHER』綾辻行人(角川書店)
・『三崎黒鳥館白鳥館連続殺人』倉阪鬼一郎(講談社ノベルス)
・『電気人間の虞』詠坂雄二(光文社)
・『粘膜蜥蜴』飴村行(角川ホラー文庫)
・『フロム・ヘル』アラン・ムーア/エディ・キャンベル(みすず書房)
(1/20追加分)
・『ルシアナ・Bの緩慢なる死』ギジェルモ・マルティネス (扶桑社ミステリー)
・『七つ星の首斬人』藤岡真(創元クライム・クラブ)
・『神国崩壊―探偵府と四つの綺譚』 獅子宮敏彦(原書房)
(1/21追加分)
・『夢で殺した少女』ベネット・ダブリン(ヴィレッジブックス)
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バカミス☆アワード準備委員会では、今年も第三回選考会へ向けて作業を進めています。
バカミス☆アワードとは、その年(一月一日~十二月三十一日)に刊行されたすべてのバカミスの中から、一冊の最優秀作を選ぶものです。一月中に候補作を選出し、3月上旬に選考会を行う予定です。
このバカミス☆アワードの選出に、あなたも参加してみませんか? 参加手段は三つ。
その1)mixiの「バカミス紹介コーナー」コミュニティに参加し、投票を行う。
その2)twitterでハッシュタグ「#bkmys2010」をつけて作品名を呟く(作品募集期間)またはこれはと思う作品に投票する(投票期間)。
その3)杉江松恋宛にメールで投票する。
~1/23 この期間は「作品募集期間」です。自分が「これはと思うバカミス」を挙げてください。
~1/28 この期間は「投票期間」です。一人一回だけベスト3作品の投票ができます。
投票の詳細についてはまたご報告いたします。とりあえず、まずは作品名募集です。ご協力、どうぞよろしくお願いします。
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講談社文庫でもう一冊。本格ミステリ作家クラブ編『珍しい物語のつくり方』の解説を書きました。これは『本格ミステリ06』の文庫化で、道尾秀介さんの第一短篇「流れ星のつくり方」が収録されている。思うにこの年あたりから、本格ミステリーをめぐる環境は変化し始めたんだな。無邪気に楽しめる環境が少しずつなくなっていったというか。元通りの閉じたサークルで遊んでいる分にはまったく支障はないのだけど、一旦広がった輪が小さくなっていくるは確かで、それを認めるか否かで、それぞれが態度表明をしなければいけなくなった。
私は個人としては閉じたサークルの中で少数派の遊びをするだけでも満足できるのだけど、公人としてはそういう後ろ向きの発言をするのはよくないと考えています。だからもう恋なんてしないなんていわないで絶対(槇原敬之)。
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昨日の芥川賞・直木賞発表にはびっくりさせられた。佐々木譲さんの受賞以外はまったく予想していなかったので、ぽかんと口を開けて「そんな馬鹿な」と呟いてしまいましたよ。宮城谷昌光氏の白石一文評「高級な文体で、高級な展開を」のくだりを読んでさらにびっくり。高級ってなんだ、高級って。
などといいつつ、文庫解説を書いた本が到着したのでご紹介を。初野晴『1/2の騎士』である。解説を頼まれたとき、『ジョジョ』第四部のことはどこかで書かなければならないと思っていたので、自然な文脈でそれに触れられて非常に満足。『ワンピース』についても書けました。実はとてもジャンプスピリットのある作家だと思う。
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原稿と取り組んでいるうちに夜が明けた。雨模様の夜明けだったが、これが午後からは雪になる由。こういう日は外出せず無精を決め込むに限る、と思っていたが午後一番で副校長と面談する予定を入れたことをすっかり失念していた。やむをえぬ。着膨れて出かけることにしましょう。
昨日はずっと籠って芥川賞候補になった作品を読んでいた。好みとしては松尾スズキ『老人賭博』。酷薄な喜劇であるところが気に入ったのだが、選考委員には受けるかどうか。好感を抱いた藤代泉『ボーダー&レス』は、図式的で判りやすすぎるところが気になる。判りにくい顔をしている大森兄弟『犬はいつも足元にいて』も同じで、謎で牽引する小説と思われると忌避される可能性があるかも。この両者はいずれも候補になったのは初めてだからそういう意味でも受賞は遠い。舞城王太郎『ビッチ・マグネット』が、この作者にしては読みやすいという理由で意外と票を集めるかも。まだ半分しか読めていないので迂闊なことは言えないけど、羽田圭介『ミート・ザ・ビート』が減点法でいくと点を集める可能性もあり、予想を立てるならこの二作に○を打つ。
本命 羽田圭介
対抗 舞城王太郎
穴 藤代泉
大穴 松尾スズキ
メディアがしきりに煽った大森兄弟は無いものと見た。こんな予想は作品の質とはまったく別物で意味がないことだけどね。
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先週土曜日に、豊﨑由美さんの書評講座にゲストで呼んでいただいた。課題作についての書評を匿名で書き、出席する受講生の投票で「書評王」を決めるというもので、私が出席するのはこれで四回目である。津原泰水『バレエ・メカニック』で挑戦したのだが、投票では豊﨑さんに負けてしまった。残念なので、ここに原稿をアップしておきます。なお、二箇所ほど後から読んで気に食わない表現があったので微修正を施した。どんなものでしょうね。
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「あそこのドアから入ってきて、そこに座るまでの一分間。その間に、君の目に映ったものをすべて書いてごらん。作家になろうと思う人なら、そのくらい簡単だろう」
これはテストだ、とうながすと、若い女性は、ペンをとって猛然と何事かを紙に書き込み始めた。その様子を見守りながら小説家は、共犯者に見せる笑みを顔に浮かべた。
あの日、小説家は何を考えていたのだろうか。バーでファンだという女性から、あたしもいつか作家になりたいと思ってるんですぅ、と話しかけられ、意外なほどの気さくさで相談に乗ってやった。そのとき彼の胸中には、どのような思いが去来していたのだろうか。静止した笑顔の下で、こんなことを呟いていたのではないかと私は思うのだ。
目に映ったものが書けるだけじゃ駄目だ。それを写せるだけじゃ駄目なんだ、本当は。
日本の近代文学は、江戸戯作文学を外来の写実主義によって駆逐することから出発した。近代文学史は、視覚表現というテーマとの格闘の歴史だ。金科玉条の小説作法として語られる「視点の統一」は、その歴史上の産物である。どこで、誰が、何を見ているのか。それこそが小説表現の絶対的な必要条件なのだ――。
ほんとに?
津原泰水はそう言う。人間の想像力を言語化し、紙上に写し取ったものが小説である。であれば想像の写し絵は、本来的に視覚情報なるものを超越してしまうはずではないか。
二〇〇九年に津原が上梓した『バレエ・メカニック』は、そうした津原の問いが封じこめられた小説だ。造形家・木根原の娘、理沙は七歳のときに海で溺れ、酸欠状態になって脳死状態に陥った。彼女を生かし続けるため、木根原は美術商に魂を売って金になる作品を作り続けなければならない。そんなある日、彼は理沙を担当する医師の龍神から異様な電話連絡を受けた。理沙の病室の前に、突如として広大な空き地が出現したというのだ。それだけではなく、病院のある東京都心部を中心に、大規模な異変が起きつつあった。事故のため自家用車を失っていた木根原は、隣人の所有する馬車に乗って病院がある新宿区へと向かう。ペルシュロン種の巨大な馬が引く車に乗り、木根原の奇妙な旅が始まるのだ。
異変の中心に木根原理沙がいることは、早い時点で示される(その手がかりが、造形家が幼い娘に読み聞かせた『みつばちマーヤの冒険』である、というのがいい。そうした先行作品への尊崇の念が随所に示された小説だ)。彼女の大脳皮質は死滅したが、脳幹は生きている。それが、なんらかの理由で都市のネットワークと結びつき、代替物として利用し始めたのだ。常ならぬ表現手段を得た脳が、暴走するさまを作者は書くのである。常軌を逸した現象が次々に描かれる。小説を読んだ人は皆、ペルシュロンが引く馬車が、東京都庁の外壁を垂直に登っていく場面に驚かされるはずだ。そうした眼福の場面で楽しませつつ、作者は読者を自らの領域に引きずりこむ。すべての始まりの地点へ向けて進んでいく木根原の周囲で、幻想は現実との摩擦係数を増しながら変化していき、人間の視覚が追いつける速度をあっという間に振り切ってしまう。視覚情報の中に観念、情動が曳光弾のように打ち込まれた奔流のような文章は、安易な映像化を頑として拒むものである。
ここまでが第一部。第二部で津原は人間の知覚の信頼度を疑わせるような問いを呈示し、第三部ではついにその正当性さえも取り上げてしまう。それは、知覚の網の中心に人間がいるという小説の大前提を消去することと同義だ。日常からは遥かに離れた、想像力の言霊だけが辿り着ける最果ての地。そこでも俺は小説を書ける。書けるのだ、と津原は叫ぶのである。あの日の君よ、君が話しかけた相手はそんな小説の魔王だった。(想定媒体:SFマガジン)
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毎年この日になると、歌野さんのいやーな短篇を思い出してしまう。また今年も思い出した。
たいへんに衝撃を受けた出来事があり、先週の木曜日から昨日までほとんど仕事をすることができなかった。いつまでも呆けてはいられないので、今日からぼちぼち再開していこうと思います。どんなことがあってもお腹は空くし、夜になったら眠くなる。そしてまた日は昇るんだぜ。
衝撃といえば、近日中にちょっとしたニュースについて書くことになると思う。自分だけに影響のあることではないので、関係者ときちんと相談した上で書く。したがって期日は未定である。書かなければ、というか周知しなければならないニュースだと思うのだ。
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本日は某所にて新年会に誘われていたのだが、急な用事が出来たため欠席させていただくことにした。その関係のみなさま、申し訳ありません。
2010年はのっけから急を告げている。みなさまお変わりなく。どうぞ健やかにお過ごしください。
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気がついたらもう五年もmixiを利用していた。最初に誘っていただいたときは、閉じた空間の中で友人と密接な関係を持つことができるという点に惹かれたのだが、その後招待制がなくなり、十八歳未満の利用者が許可されるようになり、ツィッターを意識したとしか思えないボイスという機能が入り、アプリゲーム利用者が幅を利かせるようになり、すっかり最初のころとは様変わりしてしまった。度重なるデザイン変更もあって、今ではほとんどROM専門になっている。いや、古株のユーザーばかり優遇していても仕方ないし、サービス企業として新しいことを試していく姿勢には賛同するんですけどね。新しいものが増えたけど、自分にはそれが必要なかった、というだけのお話だ。
昨年、小学校の卒業式でこんなことをお話しした。
「君たちは、お友達と仲良くしましょうと教えられて育ってきた。だから友達が多いのはいいことだと無条件に信じていると思う。でも考えてみてもらいたい。友達って、モノか。コレクションか。友達は数で量るものか。友達の数が少ない人は、人間として何かが欠けているというのか。人の幸せってそういうことで決まるものか。人に親切にする、誰とでも相手を尊重して付き合うことができる。それは人間として最小限のマナーだが、そのことと友達の数とはまったくの別問題だ。中学になると別の小学校からも生徒が進学してきて、新しい人間関係ができる。そのとき、今言ったことを考えてみてもらいたい」
これは自戒をこめた言葉である。自分の中にある、嫌な部分を見つめなおしてみたら自然とそういうことを言いたくなった。つきあう人の数が増えていくと、どこかで関係の濃淡ができてくる。それはやむをえない。嫌なのは、自分との間にある距離、どれくらい言葉を交わすかという頻度、そうしたものを「相手の価値」に置き換えて考えてしまうことだ。何様のつもりだ自分は、ということである。挨拶の数が少ないから相手はC判定、この間一緒にご飯を食べたからA判定、生意気な口を聞いたからD判定、そういうことなのか。陳情を聞くことを仕事にしている政治家か。朝貢をしてこないと敵と見做す中国の王朝か。そんな肥大した自意識は気持ち悪いったらありゃしない。
mixiって、誰もが持っている「俺俺、俺、世界の中心だから」という気分を巧く利用して、それを助長させることによって成長したサービスだと思う。友人同士のネットワークをつくるって、要するにその中心に自分が座っているということでしょう(ツイッターのいいところは、その中心点が無いということだと今の時点では思っている)。ボイスだとかアプリだとか、新しいサービスが増えることによって、もしかするとそういう気分が中和されて薄くなっていくのかもしれない。だとしたら、ちょっといいことだよそれは。まあ、私は使わないわけなんだけど。古くからのmixiの方が好き、ということではなくて、今はそんなに人付き合いをしたくないという気分だから。ただそれだけだ。
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WEB本の雑誌の目黒考二さんブログの一月六日エントリーに、池上冬樹さん、大森望さん、北上次郎(目黒考二)さん、杉江松恋の四名が二〇〇九年に書いた文庫解説のリストが上げられている。目黒さんの要請をいただいてそれぞれが作ったリストが元だから、たぶん正確なはずだ。各人の傾向がよく出ていて、なかなかおもしろいと思います。
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雑用のため取り紛れていたのだが、いただいたDVDでようやく観た。昨年までと違って、国産・翻訳のミステリーを同列に扱うようになったので、その分ベストランキングの枠に空きが無い。いきおい戦いも激化した形になっていて、おもしろいのではないかと感じた。未見の方は、機会があれば、どうぞご覧ください。
それにしても会場では二時間喋っていたものを三十分に縮めているわけである。私が話した内容もだいぶきられていた。相手の話につっこむやり方など、作戦を検討しなければならない(その点、大森さんなどは手慣れたものである。さすが黒幕)。TVのタレントさんは、ああいうことを日常的にやられているわけだ。私には容易く真似のできることではないと感じた。もともと引きこもり体質で、人前で話すのは好きではないしな。だが、どうなのだろう。ラジオ放送局における起用枠が縮小して過激なことを言うタレントさんが活躍の場を狭められ、反対にポッドキャストやネットラジオで素人や半素人が自由に言葉を流せる土壌が広がりつつある。映像での「見栄え」を気にしなければ、どんな人でも「喋り」で勝負できる時代になってきたわけだ。参入の敷居が低くなっていくと、文章の世界と同様、喋りという表現形式でも芸の変容が起きていくのだろうか。ラジオになんの思いいれもないので無責任なことを言うが、混沌の中で自然淘汰がなされ、新しい形の喋り芸が生まれるのであれば、それはぜひ聴いてみたいと思うのであった。無責任なことを言うな、私は。文章の世界でも同じことが起きたらどうする。いや、それは自然淘汰されないように闘うしかないわけだが。淘汰されたりして。困るな。
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仕事の合間に泉直樹『プロレスは生き残れるか』を読んだ。ルポルタージュの著書がある方がプロレス業界の先行きについて取材して書いた本で、業界内の書き手ではないだけに期待して読んだ。感想としては「間違ってはいないけど、それだけ」という印象。後記にも書かれているが、取材を受けてくれた相手が極端に少なかったらしく(その点は著者に同情する。やはり閉鎖社会なんだな)、リングドクターの林督元、元「週刊ゴング」編集長で現「Gスピリッツ」の小佐野景浩、ZERO1の笹崎勝己レフェリー、全日本プロレス常務取締役の内田雅之、同じくレスラーのカズ・ハヤシ、同じくレスラー兼社長の武藤敬司(なのだが、直接取材できているのか判断しかねた。内田雅之からの又聞きのようにも読める箇所がある)、以上である。ルポルタージュとしては取材人数が少ない方だ。これでは、どうしても物事の見方が一面的になってしまうので、その辺の薄い感じが上記の感想につながっている。真面目に書かれた本で、暴露本ではないので、ファンの方は試しに目を通してみてもいいと思う。「Gスピリッツ」などを定期購読している熱心なマニアは、急いで買う必要はないはずだ。
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新年最初に書いた原稿は、自分の教養不足を恥じざるを得なくなるようなものだった。やや意気消沈。だがまあ、明日からがんばろう(ポジティヴ)。
難しい文章を書くとき、いつも気になるのが「~度」「~性」「~的」といった用語だ。私はこれを書くのが嫌いなのである。大学のとき、もはや名前も覚えていないようなゼミの先輩から「そんなこなれていない文章を使わないと表現ができないようなら、日本語で文章を書く意味がない」とかなんとか言われたのが効いていて、今でも「信頼性」とか書くたびに「これを言い換えることはできないものか」と不安な気持ちになってしまう。いや、名前も覚えていない人から言われたことを気にしなくてもいいようなものなのだが。
だが、この心の縛りは(おっと、心理的なと書きそうになった)、自分の文章をふくよかに、柔らかくするためには役に立っているように思う。自覚無しに硬い言葉を使えば、その何文字かが文章の中で空洞を作ってしまうからである。たとえば上の文章を「無意識に硬い言葉を使えば」と書いても意味は通るのだけど、「無意識に」という部分に私は何も考えていない感じを覚えるのですね。無意識に、って、その間お前はトランス状態だったのかよ、とつっこみたくなるでしょう。「うっかり」とか「言葉をよく吟味せずに」とかいう意味を言葉に持たせることを回避しようとするから、あたかも自分に責任のないような「無意識」という用語を使ってしまうのだ。それは逃げですね。硬い言葉を使うのは、自分を曝け出すことを怖い人間が打つ、ずるい逃げなのである。そういう言葉が一文の中に二つ以上出てくるような文章を読んだら(成語として一人歩きしている学術用語などは無論仕方がないし、論文の中にはそういう書き方をしないといけないものもあるから、一概には言えないけど)、書き手の度胸を疑ってみましょう。
やーい、臆病者ー。
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新年明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。
早々に賀状を頂戴した皆様、たいへん遅くなりまして申し訳ありません。
本日から仕事始めという方も多いかと思いますが、ネットとか見てないでちゃんと書類の整理をしておかないと駄目ですよ。
会社員時代は、仕事始めの日は挨拶回りをするように言われていた。その言いつけをきちんと守り、午前十時には会社を出て、電車で十分の客先に直行し、一時間で挨拶すべきところには全部顔を出して、後は夕方まで喫茶店で本を読んでいたものである。大企業相手のOEM営業が職務だったので、一つのビルに全部お得意さんがいたのね(こういう会社員になってはいけないと思うし、こういう会社員だったから気軽に辞表を書けたのだ)。
今年もゆるゆると行きましょうね。
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