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(2/3)立川談志

 仕事の合間に『立川談志 最後の落語論』をちらちら読んでいる。わーっと読んでしまえばすぐ終る長さなのだが、もったいなくてちびちび読み。体調のこともあって正直内容は期待していなかったのだが、とんでもない。相変わらずの鋭さで、家元には驚かされるばかりである。たとえばこんなくだり。

 ――「文明」とは、その時代々々の最先端であり、より速く、より多くを求めるもので、それに取り残されたモノに光を当てたものを「文化」と称う。文明は、文化を守る義務がある。

 文明と文化の関係についてこういう表現をした先例を私は知らない。そうか文明は文化を守る義務があるのか。本書は『現代落語論』『あなたも落語家になれる』に続く第三の落語論の著書だ。注目すべき点は『あなたも落語家になれる』で展開した「落語とは、人間の業の肯定である」との主張をさらに推し進め、「業」とは「非常識」のことである、と置き換えた。つまり文明社会で生きる人間が生きるために必要な「常識」を遵守することができない非常識を認めたものが落語だと規定したのだ。

 さらに常識/非常識といった社会との関わりの部分より前に、人間には「よくわからない部分」としての「自我」があるとし、演者は「自我」さえも入れ込んで落語を語ることができると述べる。そこで見えてくるのが演者の「狂気」だ。この「狂気」と、近年の談志が落語論の中心に据えている「イリュージョン」は同じものではないのだが、「つながったりつながらなったりする」。イリュージョン、幻影と談志が呼んでいるように現実の何かをさっと切り取ってきたときに閃くその場限りのものなので、構造を理屈づけて説明することは無理なのだ。しかし自我を落語に持ちこんだ演者にして初めてイリュージョンを語ることが可能になるわけなので、業の肯定論からイリュージョン論への橋渡しがおぼろげに見えてくる。おそらくこれ以上は図式的に整理しようとするのではなく、個々の噺、個々のフレーズを玩味しながら都度感じるべき領域なのだろう。本書の次に予定されている『談志 最後の根多帳』(二〇一〇年春刊行の予定だがどうなるか)では、おそらくそうした各論が展開されるに違いない。

 家元の快気を祈念申し上げます。どうかあまりお急ぎになられず、ゆるゆると高座にも執筆活動にも復帰されますよう。



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Comments

>「イリュージョン、幻影と談志が呼んでいるように現実の何かをさっと切り取ってきたときに閃くその場限りのものなので、構造を理屈づけて説明することは無理なのだ。しかし自我を落語に持ちこんだ演者にして初めてイリュージョンを語ることが可能になるわけなので、業の肯定論からイリュージョン論への橋渡しがおぼろげに見えてくる。」

ここ、ここ、ここのあたりなんですよね。
これと、刊行されたばかりの
春日太一「天才 勝新太郎」(文春新書)における
「降りてきた!カメラを回せ!」のあたりとリンクして考察すると、とても興味深く感じることができました。

Posted by: 霞流一 | February 04, 2010 at 09:33 AM

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