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(7/20)「”この町の誰か”が翻訳ミステリファンだと信じて」で言い忘れたことを書いてみる

 私は、これまで生きてきた中でほとんど「昔は良かった」と思ったことがない。それは自分の趣味がかなり特殊だという自覚があるからである。読書に関していえば、高校を卒業するまで同世代の友人と本の感想を語り合ったことはなかった。周囲にミステリー読みはほとんどおらず、特に翻訳ミステリー読みは皆無。わずかに小学生のころ、同じクラスのT君とアガサ・クリスティーの話をしたことがあるくらいである。あとは推して知るべしで、小説の話などを学校でした経験はまったくない。これは誰のせいでもなく、自分の肥大した自意識のせいである。

 世の中が浮ついていて、「根暗」が蔑まれ、軽くて明るいものが尊ばれる時期に中学高校時代を過ごしたものだから、自分の中にそういう趣味があることはひたすら隠していた。今にして思えば、ミステリーファンであることを公言しても別に迫害を受けることはなかったはずなのだが、十代の自意識がそれを許さなかったのである。そういう怨嗟の記憶があるため、高校卒業までの期間は自分にとっては暗黒時代もいいところであった。今でも「クラスの人間関係」なるものに悩んでいる子供たちを見ると、駆け寄って肩をたたきたくなる。一部の人間にとって、学校とは、多数派の論理が幅をきかせ、同調圧力に日々脅かされる場なのである。ろくなもんじゃない。

 大学に入って、ミステリー研に所属したときはほっと息を吐いたものだが、最初に味わった感想は正直なことをいえば失望だった。自分より豊富な知識を持っている人間は、同期どころか、先輩にもいなかったのである。唯一、Kという先輩だけが読書の教養という点では尊敬に値する人物で、私は好きだったのだが、とっとと中退してどこかへ消えてしまった。アントニオ猪木とほぼ同じ身長という巨人で、ビリヤードをすると、とんでもない先にまでキューが届くので不公平極まりなかった。成人してから一度だけ池袋西武のリブロで会ったことがあるが、周囲を威圧するような巨大さで、壮観であった。編集者になったらしいのだが、今はどうしているのだろうか。

 話が横道に逸れた。つまり大学に入れば同じような趣味の人がたくさんいて、朝から晩までミステリーの話ができる、という思い込みは幻想にすぎなかったのである。ミステリーというのは、当時においてもあまり若者の趣味ではなかった。ミステリー読者が一気に低年齢層化したのは、一九八八年の新本格ブーム以降のことだし、その当時においても二十歳前の小僧が翻訳ミステリーが好きだというのは、かなり特殊な趣味だった。このことは、電書「”この町の誰かが”翻訳ミステリファンだと信じて」でも言い落としてしまった。つまり、かつて翻訳ミステリーを若者が呼んでいた黄金時代がある、というような幻想は自分の知る限りでは誤りというか、記憶の美化だと思うのである。

 ミステリー研で軽い失望を味わった後もそこに私が居続けた理由は、中井英夫とラブクラフトを心から愛するT君が同期にいたり、一年下に歳は上だが三浪して入学が遅れたY君(彼はやたらとオヤジくさい警察小説が好きだった)が入ってきたりといった具合に、「趣味が同じとはいえないが、よく話をすると共通の部分がある」友人が発見できたからである。それは対話の賜物で、趣味がまったく違うからといって無視していたら、彼らから吸収できるものはなかった。

 それよりも何よりも大きかったのは、大学の四年先輩に川出正樹、村上貴史、小山正といった先達がいたことで、彼らがOBとして顔を出してくれていなかったら、もしかしたら私はミステリー研を早期に退会していたかもしれない。毎週一回開かれる読書会の例会も、正直言ってOBと話をするために行っていたようなものである。触発されるのが楽しかったからだ。自分の知らないことを教えてもらうのが好きだったからだ。「自分は人と趣味が違うから」と自分で理由をつけて偏屈に凝り固まっていた意識をほぐしてもらい、私は大いに成長することができた。

 ミステリー研のような大学のサークルは非常に貴重な場で、そこでしかできない会話、そこでしか作ることができない友人というものがある。しかし、「自分と同じ趣味の人間なんていない」という自意識を抱えている人間にとっては、それでも不十分なのだ。お薦めの作品を教えてもらったところで、相手が尊敬する相手でなければ、その本に手を伸ばすことはない。読書というのはその人間の人格を大きく左右する要因なのだから、余計な知識をもらいたくない、と考える者がいても不思議でないのである。トリヴィアルな知識の量を誇示して、自分が他人よりどれだけ凄いか、と自慢する輩は当時からいたが、別になんとも思わなかった(ほとんどの情報がネット上に氾濫している現在では、なおさらそれは尊敬に値しない行為だろう)。結局は人だったのだ。話して尊敬できる相手の知識は受け入れる。できなければ無視する。その仕組みは現在でもまったく変わっていないはずだ。

 読書家で、自分は孤独だと思っている方に言いたい。あなたたちは間違っていない。たとえ本以上に親しい友人がいなくても、それは人格の欠陥を意味しない。本が自分の一部であって、周囲の人間は外部にすぎない。そういう自意識を私は否定しない。ただし、かつての私がそうであったように、進んで踏み出すことによって何か新しいものに出会う機会をつかむことができるというのもまた事実である。つかむことができる、というのは、つかまなくてもいい、ということなのだから選択権は自分にある。自分を豊かにするための手段は自身で選んだほうがいいし、他人のそうした選択を邪魔する権利は誰にもない。あなたたちは間違っていないし、自由だから、自分で何をしたいのか決めてかまわないのだ。ただ、周囲の声をきき、動きを見る目だけは放棄しないでもらいたいと思う。

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