(2/28)今年もすごいぞ、大藪賞選評
毎年、大藪春彦賞の選評を読むのを楽しみにしている。他の賞でも選評を読むのは楽しいものだが、この賞は格別である。逢坂剛、志水辰夫、真保裕一、馳星周の各氏が歯に衣を着せぬ直言を呈しているからで、特に馳の評言は的確であり、同時に手厳しい。小説という表現形式に愛着があるからこそで、これから創作を志す人にとっては、姿勢を正されるような言葉が並んでいる。ぜひ一読をお勧めしたい。
これを読む限り、受賞作、平山夢明『ダイナー』については、全会一致で受賞の意見がまとまったようである。
「シュールなラテン文学を思わせる展開」(逢坂)、「この作者特有の残虐場面の裏にも、人間の弱さや儚さが垣間見えるシーンもあり、物語に奥行きが感じられた」とあり、馳によれば、作品を好きか嫌いかで言えば嫌いと答えた選考委員も、実力は認めないわけにはいかない、と表明した由。ちなみに馳は「好きだ」と言った委員だ。志水辰夫があえての批判(受賞自体に異論があるわけではない)を述べていて、おもしろいので引用してみよう。
「この作品で不満があるとすれば、手をひろげているときは奔放なイマジネーションが躍動するが、終末が近づいてくると、途端に黴の生えたリアリティで辻褄合せをしてしまうことだ。(中略)どうせ絵空事なのだから、徹底的に大風呂敷をひろげ、そのまま押し通してもらいたかった」
なるほど。
次に支持を集めたのは須賀しのぶ『神の棘』と乾ルカ『メグル』だった模様。
『神の棘』については、エンターテインメントとして主人公の動機が伝わりにくい、ミステリーとしては唐突などんでん返しがある、という批判があったようだ。「主人公格の二人の生き方にも、共感しにくいものがあった。量、質ともに力作なのに、作者がいったい何を書きたかったのか、十分伝わってこない」(逢坂)「精緻な文章に似合わない仕掛けの幼さ」(志水)。私の意見は正反対で、この小説の魅力は、読者が容易に主人公の意思を推し量ることができず、踏み込んで物語に対峙するように書かれている点にあると思うし、周到な読み手ほど最後の仕掛けに感心するようになっている。だが、後者については、この作品を支持しながらも「作者がミステリの視点というものをあまり理解していない」と評する真保の言うとおりで、弱点があることは否めない。真保は「今後の課題は、人物に肩入れしすぎず、突き放してみることではないだろうか」と言い、馳は「この作者の物語を紡ぐことへの貪欲なまでの欲求はいずれ、とんでもない傑作を生み出すだろうという奇妙な確信が芽生えた」と賞賛した。須賀しのぶにはぜひ、この選評を読み、バネとしてより一層の傑作をものしてもらいたいと思う。
『メグル』は「一話目に収録されている「ヒカレル」が大傑作だった」のに「連作」という足枷をはめられて奔放な想像力が自由を奪われ、もがきながら着地した」という馳の評言に、私も同意する。昨年の沢村凛作品にも同じことを思ったが、作者の足枷となるようならば、いっそ連作短篇集という「形式」は捨ててしまうべきなのではないだろうか。
それ以外の二作について。海道龍一朗『天佑、我にあり』については、逢坂選評がすべてを言い尽くしている。いわく「さして必要とは思えぬ時代考証に、筆を費やしすぎ」「中盤までの冗長さが、惜しまれる」「持てる馬力を空回りさせない技巧を、身につけてほしい」。福田和代『ハイ・アラート』は、今年の「馳星周に叱られる役」の作品で、「この小説はただ現実の空虚さをなぞっているだけだ。今も昔もこの先も、わたしがこの手の小説を認めることはないだろう」という激しい評言が、苛烈ではあるが胸に沁みるものだった(全文はぜひ「問題小説」を読んで確かめてもらいたい)。真保の「もう少し物語を俯瞰して見たら、書き方も変わってくるように思えた」という言葉にも、深く頷けるものがあった。
やはり大藪春彦賞選評はおもしろい。小説を読む楽しみを知っている人は、ぜひこれを読むべきである。詳しくは「問題小説」三月号で。