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(5/24)書評イベントに寄せて その2:「多様性と孤立」

(承前) 次に、なぜ小説の読書が個人的体験にすぎないか、ということについて。

2 落語(=小説)の多様性
(前略)
 知らずに個人の話になってしまうのは「落語(=小説)を好きになっていく道」が、すべての落語(=小説)ファンでまったく違っているからである。(中略)落語家(=小説家)は多様性に満ちている。落語家(=小説家)の数だけ、落語(=小説)を好きになっていく道がある。(中略)そもそも、まったく同じタイプの落語家(=小説家)というのは存在しない。
(中略)
 観客(=読者)も、どこでどうやってどの落語(=小説)を好きになったのか、落語(=小説)との出遭いは観客(=読者)の数だけある。(中略)他者とは交換できないルートでそれぞれ落語(=小説)にアプローチする。観客(=読者)の数だけ落語(=小説)観がある。(中略)最初に受けた影響から逃れられず、その入口から見えた風景でしか、落語(=小説)は語れない。
(中略)
 いくつもの大きな壁がてんでに立ちはだかっている地上で、区切られた空を見上げているようなものだ。その位置から、空について語れ、と言われたら、自分の立ち位置から見える範囲の空について語るしかない。人と共有できる部分もあれば、まったく拒絶する部分もある。
(後略)
 落語の全体像は一観客に把握することができない、ということが『落語論』では詳しく語られているのだが、ここではちょっと割愛した。落語家の個性が演じられる落語には反映しているという観点は、小説とは事情が異なるだろう。小説家の存在を意図的に無視して、作品それ自体を語ることが小説の場合は可能だからだ。そこのところは、あまり類似を意識しないほうがいいのかもしれない。しかし観客=読者の個人的事情については、落語も小説も一緒なのではないかと思う。読者は孤独な存在であるということは、読書について考えるときには絶対に必要な前提条件だ。
(続く)

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