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(5/24)書評イベントに寄せて その1:「好き嫌い」

 以下は明日に開催を控えた豊﨑由美×杉江松恋「書評の愉悦出前講座(仮)」の存在を意識して書いた文章である。堀井憲一郎氏の著作を題材にしてあれこれ言っているので、氏及びそのファンの方には前もって謝罪しておきたい。ちなみにこの文章を読まなくても、明日のイベントを楽しんでいただくのには支障がない。もちろん、明日のイベントのことを知らなくても、この文章を読むことは可能である。

 堀井憲一郎『落語論』(講談社現代新書)を読んだとき、第三章の「観客論」は用語を置き換えればそのまま「小説読者論」になるのではないか、と思ったことがある。もしくは「インターネット書評論」として。この本は落語という芸能の根底に「原作」のようなものがあるという認識は間違いで、演者のパフォーマンスことがその本質だということを説いている。演者にとって観客とは自分のパフォーマンスをぶつける対象だから、「観客論」を考察する必要がでてきたわけだ。

1 好き嫌いからしか語れない
(前略)
 落語(=小説)は個人的体験でしかない。だから落語(=小説)は好き嫌いからしか語れない。
(中略)
 少なくとも、わたしはまず好き嫌いにとらわれてしまう。
 そこから何とかしようともがきはするが、最初に好悪がついてしまうのは、避けられない。おそらくみんなもそうだとおもう。だから、自分は、まず好き嫌いから入ってしまうのだということを自覚するしかない。(中略)あそのあと、できるかぎりの努力を続けるしかないのだ。
(中略)
 好き嫌いの地平を越えて、まったく平等に落語を見ることは(=小説を読むことは)、地上の存在にはほぼ不可能である。越えようとすると、好き嫌いを抱えたまま、上から視点の発言ばかりになる。神の視点だ。しかもおそろしくわがままな神の視点である。(後略)

 小説家にとっての「読者」は、落語家にとっての「観客」とは別物だろう(読者をまったく意識せずに小説を書く、というのはごく当たり前の行為だ)。だから、「観客論」を「小説読者論」に置き換えたときの「読者」の立場は、非常に肩身の狭いものである。相手(小説家)からは顧みられていないという前提なのだから。しかし、そういう一方通行の関係であるにもかかわらず、「観客論」を「小説読者論」へと変換してみる意味はある。
 以下、引用の中の(=○○)が私による置き換えである。著者の堀井氏がこういうことを言っているわけではないので、混同されないようにお願いします。
 あまり説明の必要はないだろう。小説を「上からの視点」で評価することがタブーであるとは、私はあまり思っていない。一回性に支配される落語のような芸能と違って、後に残る文章によって比較が可能なジャンルだからだ。しかし読者が好き嫌いの地平を越えることができないというのは、その通りだと思う。書き手が自身の好き嫌いを明らかにしない書評は、読者の心には届かない。これは自戒をこめてそう思う。
(続く)

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