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(5/25)豊﨑由美×杉江松恋 書評講座「書評の愉悦出張版」応募原稿その1

 以下は5月25日(水)に開催される標記イベントに応募してくださった方の、書評原稿です。

課題作:
西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社文庫)※ただし表題作のみ。
J・P・マンシェット『愚者が出てくる、城寨が見える』(光文社古典新訳文庫)

文字数:
800~1200字(ただし文末に、どの媒体に向けて書いたか、想定紙誌名を入れる)

 この原稿を豊﨑氏と私が読み、0~5で評点をつけます。点数の高い作品のうちから、豊﨑賞・杉江賞が選ばれる予定です。サイトをご覧の方も、ぜひ書評を読んで、自分で採点してみてください。どれを高く評価したか、それはなぜかということをツイートするときは、ハッシュタグ #nbjp をつけてくださると、こちらで捕捉できます。ただし、他の方の評価を見て、豊﨑・杉江が自分の評価を変えることはありません。

 それではエントリーナンバー#1から、順番にどうぞ。

=====
#1『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット

 精神病院に入院していた主人公のジュリーは、とつぜん企業家アルトグに雇われ、彼の甥であるペテールの世話係になる。ペテールを連れて散歩に出たジュリーは、四人組のギャングに誘拐される。睡眠薬を飲まされ、首つりにされかけたところを命からがら逃げ出し、逃走劇が始まる。二人は迫り来る追っ手をかわしつつ、スーパーマーケットから丘の上の城まで一気に駆け抜けていく。
 銃撃戦や死、吐瀉物に彩られた道中は息つく暇もない。うねりながら展開していくシーンの連続は、まるでアクション映画を見ているようだ。下手なカメラマンならぶち壊しにするところでも、視点がしっかりついていく。脂肪分をそぎ落とし、極限までシェイプアップした文章が、めちゃくちゃなスピードに耐えている。この書き方でなければ、たった一行でパリから何十キロも遠くへ逃げることはできない。
 驚くべき点は、登場人物の感情が叙事文のまま書かれていることだ。どんな現象にもかならず、ページを埋められるだけの理由があると思い込みがちな私たちにとって、この文体は抜き身のナイフのように鋭い。ジュリーが精神を病んだ理由もなければ、アルトグに雇われた理由もない。登場人物のほとんどの行動について、理由は示されない。仕事を終えるまで胃痛が止まない殺し屋が好例だ。ためしに理由を追ってみよう。胃痛がするのはストレスからだ。人を殺すことにストレスを感じるのだとすれば、なぜ殺人がいやなのだろう。血が嫌いなのか、警察に捕まるからか、はたまた過去のトラウマか。いくらでも書けそうだが、そんな仕事は三流にまかせておけばいい、と言わんばかりに書かないのである。
 私たちは、あらゆる現象に理由を求めてしまう。恐慌に陥った誰かに接すると、助けを求める声から、怖がっている理由をくみ取ろうとする。しかし、理由を説明するのは、じつはとても難しいことなのだ。たとえば私たちが死を恐れるのはなぜか。こう問いかければ、きっと大抵のひとが困惑するはずだ。
 感情に理由はない。マンシェットはくだくだしい説明をすべてそぎ落とし、ありのままの二人の逃走を、剥き出しの危機を描写した。この小説は、どうしても死を意識できない私たちに与えられた、持ち運びできる紙の銃なのだ。
(BookJapan)


#2『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット

 犯人が重要ではない犯罪小説。1970~90年代に活躍したフランス人犯罪小説家の代表作である本書には、まともな登場人物が存在しない。つまり、誰がどのような罪を犯したところで納得できるし、大した驚きはないのである。そんなまともではない小説で描かれるのは、どんなトリックよりも、どんな犯人よりも意外な展開と謎である。
 〈トンプソンが殺すべき男はおかまだった〉。物語は意表を突く一文から始まる。なぜおかまなのか?戸惑う読み手の隙を突くかのように、胃痛持ちの殺し屋トンプソンは、心臓を細切りにする凶器でおかまをあっという間に葬り去り、場面は主人公ジュリーの入院する病院へと切り替わる。
 精神病院に入院中の若い女性ジュリーはある日、大金持ちの実業家アルトグの計らいによって病院を退院することになる。彼の経営する会社・アルトグ財団で働くことになったジュリーの役割は、アルトグの幼い甥で財団の御曹司ペテールの子守をすること。突然弟を襲撃するアルトグの兄フエンテスや、初対面から反抗的で情緒不安定なペテールなど、周囲は不安と謎だらけである。ジュリーは、縁も所縁もない自分を雇ったアルトグに不審を抱きつつも、退院初日を終える。ところがその翌日、ジュリーは何者かの依頼を受けた殺し屋トンプソン一味に、ペテールともども捕えられ誘拐されてしまう。
 不可解な物語は、ここから混迷の度合いを深める。善と悪のわかりやすい対立軸は、窮地を脱してペテールとともに逃走を図る、躁鬱気味な精神異常者ジュリーによって破壊される。車と金を奪われて惨殺された中年男。神の素晴らしさを説いていて散々に毒づかれた説教師。無関係な人々が、事件の被害者であるはずのジュリーから理不尽な目に遭わされ、誰が被害者で誰が加害者なのかもわからなくなる。
 精神が異常なのは、一人だけではない。ジュリーとペテールが逃げ込んだスーパーマーケット。店内で、ある者はジュリーによって逃走の邪魔だと殴りつけられ、ある者はジュリーを追うもう一人の精神異常者トンプソンによる銃撃のとばっちりで射殺される。いつしか物語は血を血で洗う抗争の中で、ただただ逃れたいというジュリーの狂気と、ただただ殺したいというトンプソンの狂気に支配され、無秩序状態となる。
 もはや誰が誘拐事件の首謀者であろうと、誰が正義の味方であろうと、ジュリーとトンプソンどちらかが死ぬまで続く戦いを止めることはできない。果てのない逃走劇を繰り広げる一行が向かう先には、アルトグのいる(とジュリーが思い込んでいる)別荘の城寨が待っている。アルトグが城寨を指して言う単語「フォリー」には<別荘>と<狂気>、2つの意味がある。狂気を宿して別荘の城寨へと向かうジュリーたちに、何が起こるのか?作者の描く謎とは、狂気の行方ただ一つである。
 (週刊文春)


#3『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

日本語を整体するあたらしい私小説
 「何んのそのどうで死ぬ身の一踊り」。大正期の私小説作家・藤澤清造の句からタイトルを取った小説「どうで死ぬ身の一踊り」で西村賢太は世にあらわれた。藤澤清造の「没後弟子」を自称する主人公は作者を彷彿とさせる人物で、42歳で凍死した不遇の作家を世に知らしめようと、「藤澤清造全集」の自力刊行に向けて努力している。しかしその努力の中身はといえば、藤澤清造の原稿が掲載された雑誌類を古書店から買い漁るなどのほか、全集をよりコンプリートなものにすべく情熱を燃やしたあげくの借金の積み重ねであり、同棲相手の親にまでしてしまうから、当然、女との諍いも絶えず、DVのような所業にまで及んでしまう。
 師の月命日に墓参をしたり、「清造忌」の世話を焼いたりといった藤澤清造がらみの行動と、同棲中の女との関係、小説の大半を占めるのはこの二種類の場面だ。そしてこの小説がユニークでしぶといのは、喧嘩や暴力、後悔、懇願といった悲喜劇を通して、「私」が少しずつ変わっていくとか、まして成長するとか、精神の高みをチラッとでも垣間見せるような瞬間を徹底的に排除している点にある。そのための絶妙の道具立てがその後の西村賢太の小説にも必ず出てくる気安い食べ物。小説の中の女と男は、自分の服にも飛沫がかかるほどの怒りをもってぶちまけられたカツカレーの残骸とともに、ただそこにいることしかできないのである。

【三十面を下げながら、どうかすると日に二度も三度も自分を汚すことに没頭したが、それがセフレなりがいる上での普通のセンズリ
ならまだしも、私の場合、どこまでもそれらが得られぬがゆえの、切実なセンズリであることが何んとも無念であった。(中略)いっ
そ藤澤清造の全集も伝記も放り出し、父親と同様の、では積年の憂さは晴れはしない、きっとそれ以上の罪を重ねて、挙句ひと思いに
果敢なくなってしまいたかった。】

近代小説の作家たちから受け継いだと思われる古風な言いまわしと「普通のセンズリ」「切実なセンズリ」が同居する面白さ。白眉は「セフレ」で(断じて「セックスフレンド」ではダメ)この死語が、「果敢なくなって」といった表現と同じ流れに乗っていることの豊かさも、見ておきたいと思う。西村賢太の文章は、日本語の解体でも実験でも保守でもなく、部品の点検と入れ替え、再構築をめざす、ポキポキと小気味のいい整体のようだ。

北区の滝野川や大田区の萩中といった東京の地名がさりげなく挿入され、そこに込められた作者の愛情と悲しみも仄かに伝わってくる。
西村賢太の小説には東京の東(生誕地の江戸川区)と南(萩中や羽田)、北(滝野川や王子)は出てくるものの、西だけはまったく舞台として欠落している。東京の西はだいたい地方出身者が多く住むところであり、このあたり、西村賢太の「東京」についても、いずれ考えてみたい。

7月、新潮文庫から藤澤清造の『根津権現裏』が刊行予定。
(想定媒体:東京新聞)


#4『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

"地獄の季節"でいいじゃないの。
 「季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える」、小説のタイトルはアルチュール・ランボー『地獄の季節』(中原中也訳)の詩句をもじったものなのだそう。
 有名な一節といわれても、知らないひとはどうよ。「愚者」が「お城」を眺める牧歌的な光景がうかんじゃった(泣)。
 牧歌的? トンデモナイ。"地獄の季節"のがわかりやすい、"地獄"なかんじの小説。手負いの誘拐犯一味と、彼らを撃って逃げだした精神疾患の女の、死に物狂いの逃走劇。
 精神病院から退院したてのジュリーは("愚者が出てくる"は、そこに由来させている)、わずか六歳の財閥の御曹司を小脇にかかえ、オートマチックの銃を握り、逃げる、隠れる、ぶっ放す。
 ジュリーは〈背の高い痩せた娘で、頬がこけ…美しいのに、人をどきりとさせるところがあった。女装した男のようにもみえる〉キレイな女。だから男たちはすっと気がゆるむ。そこをすかさずズガンと倒す、クルマを盗む、六歳の御曹司も甘ったれれば張り手一発。"愚者"ことジュリーの迷いのなさ、キレてるぐあいがまことに「セ・シボン(すばらしい)」。
 逃走劇の白眉は、スーパーの大乱射騒動。誘拐犯に見つかったジュリーは、売り子に助けをもとめ騒ぎはじめる。ジュリーににえをきらし狙撃…しそこなう誘拐犯。スーパー中が錯乱状態に陥るなか、ジュリーは御曹司の手をひねりあげ泣くなと叱咤し、身をふせて逃げ、〈右腕が血まみれで、長い手袋をはめてるみたい〉になりつつ、発砲する犯人に向け燃料用アルコールや蒸留酒を火炎瓶がわりに投げつける。大火災。燃え盛る炎の阿鼻叫喚。そんな"地獄"が展開する。
 さて、そこで他生の縁。ランボー『地獄の季節』も読めば、アララ!
 『愚者が~』のジュリーは、誘拐犯がタイプで打った手紙に「うんざり、なにもかもいや」と自筆で書くよう促されるが、『地獄の季節』には「狂気の処女」(栗津則雄訳では「おろかな乙女」)が登場し、「私は駄目です。うんざりです」と嘆くくだりが。
 あるいは、『愚者が~』の冒頭。〈トンプソンが殺すべき男はおかまだった。ある実業家の息子に手をだした報いだ〉。忽然と"おかま"が銃殺される挿話がおかれ、〈女装した男のようにもみえる〉ジュリーも登場する。なぜに"おかま"のイメージが反復するか、いまいちわからなかったけど、そういえば『地獄の季節』。ランボーが同性愛関係にあったヴェルレーヌに狙撃される騒動の直後に書かれた。この文学的記憶をくすぐる仕掛けかも。
 そして「お城」。ジュリーは御曹司をつれて、別邸〈モールの塔〉に向かうのだが、高さ三メートルほどの円錐型の塔で、周囲が〈山岳地帯独特の牛小屋〉〈タイのパゴダ風寺院をハンマーで叩きつぶしたよう〉と描写されるけど、そもそも〈モールの塔〉って何? 。
 『地獄の季節』は、ギリシア・ローマの由緒よりケルト系「ゴール人」の末裔であると名乗りをあげる。「季節が流れる、城寨が見える」の数行後には「ゴオルの鶏が鳴くたびに、/「幸福」こそは万歳だ。」の詩句もある。
 はいはい。「モール」と「ゴール」。苦しいです。わかるひと教えてくらはい。私はフランス語も読めません。
 とにかく、マンシェットがタイトルにだけ『地獄の季節』を引用したと思えない。
 すごくわかりよいところでは、『地獄の季節』は一八七三年印刷。マンシェットの本作は一九七三年の「フランス推理小説大賞」を受賞。きっと賞の審査員のひとびとは、「お、百年だ~」って思ったんだろうね。
 そんなふうに、「推理(の余地がたくさんある)小説」です。


#5『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

 黒塗りのリンカーン・コンチネンタルが、精神病院から女性患者ジュリーを運び出した。行く先は、障害者を好んで雇う篤志家の企業家、ミシェル・アルトグのパリの邸宅。ジュリーの仕事は、アルトグの甥で財団の御曹司ぺテール少年の世話係。
 その誘拐事件が起こったのはリュクサンブール公園。
 邸宅に着いた翌日、ジュリーとぺテールが青いルノーで誘拐された。逃げなければ。ぺテールをつれて、アルトグが写真でみせてくれた“フォリー”へ。写真で一度みたきりの白いお城に、たどりつかなくては(“フォリー”には「別荘」「狂気」、両方の意味がある)。
 作者のマンシェットは一九四二年うまれ。一九七二年発表の本作は「フランス推理小説大賞」を受賞。
 しかし、もとはシネアスト志望。二十代の頃はポルノ映画の脚本やヴィスコンティ『若者のすべて』のノヴェライゼーションを書いたという。シネフィルの筆致とみるべきか、描写が非常に視覚的。場面の移動、人物の登場ごとに、絵コンテのように風景や人物の輪郭が描かれる。たとえば公園で、誘拐犯と遭遇するシーン。
 〈ジュリーはびくりとして、組んだ脚をほどいた…若い男を高飛車に見返してやった。男は鼻筋が通り、青い目で、もじゃもじゃの茶色の髪、手に新聞の「ル・モンド」を持って微笑んでいた。〉
 そのまま映像になりそうな描写が、視覚的な想像をかきたてる。実際、マンシェットの作品は、のきなみ映画化されたという。
 でも、小説でしか楽しめまいと思うのは、小道具としての雑誌使い。
 「ル・モンド」を持った男が声をかけるジュリーは、買ったばかりの「ヴォーグ」を広げたところだ。退院したての精神疾患の女や、そして、これから誘拐をしようという男の妙にノーマルな内面が垣間見える。ほかにも「プレイボーイ」「週刊シャルリ」(マンガ誌)、人物の手に雑誌が配され、そのたび、物語世界とまったくべつの、うつつの生を喚起させる。
 これは映画では味わえまい。雑誌のタイトルなど、すっと流して見逃しそうだ。
 アクション、アクションで続くマンシェットの文体は、心理的な説明を排した「行動主義」で、ヘミングウェイからダシール・ハメットへと連なる系譜、といわれるが、でも小道具が、たとえば雑誌が“喋る”。心理描写がないから「タフで寡黙な男の内面」や「美学」を彷彿とするのではなく、物語に拘束しがたい、卑俗でとりとめのない人間、マスメディアの発達後の先進国の人間一般が浮かび上がる。
 ブレヒト的な異化の技法といおうか。マンシェットは五月革命を担った世代で、左翼的な政治活動に参加していた。七〇年代に成熟を増す後期資本主義、ブルジョア的な価値観や心理傾向の支配する消費社会への反発があったかもしれない。
 六八年を経て市民挙げての政治運動は下火になり、七〇年代に入ると過激な新左翼運動が勃興する。ジュリーが逃げる先の街頭に、忽然と、福音派の街頭説教師があらわれ、〈一九六九年一〇月七日、モントリオールで起こった出来事〉を訴える。調べてみれば、一九七〇年、モントリオールでは「オクトーバー・クライシス」とよばれる要人誘拐殺人と爆弾テロ事件多発があったようだ。一九七二年当時の読者なら、その記憶が喚起されたろう。
 また、スーパーに逃げ込んだジュリーに誘拐犯が発砲し、ジュリーが応戦して火炎瓶を投げつけ、買い物客が発砲や火災の巻き添えをくいながら逃げまどう場面がある。これは無差別爆弾テロを思わせる。
 マンシェット『殺しの挽歌』の解説文によると、フランスで展開した犯罪小説、ロマン・ノワールの主眼は、犯罪の謎解きではなく、犯罪を通して人間社会の“暗い(ノワール)”面を描くことだ。本作『愚者が~』はまさに、マスメディアが価値観をリードし、大量消費社会が花開き、その一方で新左翼運動に恐恐としている、当時のマンシェットの眼前にあった、いまはない四十年前の“暗がり”がすけてみえる。

その2に続く。

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