これは、表記のイベントに応募された原稿です。詳しくはその1を参照のこと。
======
#16『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)
大金持ちのアルトグにより精神病院を退院させられ、アルトグの甥ぺテールの付き添いをすることになったジュリーは、殺し屋トンプソン率いる一味にぺテールとともに誘拐されてしまう。生き延びようとする本能の赴くまま、ぺテールを連れて逃げ出すジュリー。追うトンプソンもまた任務遂行の執念に燃えている。過激な逃走と追跡の過程で、死体がポンポン転がり、バンとあがる火柱にジョーン・バエズの甲高い歌声がかぶさる。形容詞がほとんどない短い文章がスタッカートに繰り出される乾いた文体から、なんと豊穣な阿鼻叫喚やスラップスティックが生み出されたことか。それぞれの殺され方の描写も〈九ミリの弾丸が肋骨の下に入り、肝臓を破裂させ、尻から抜けた〉〈耳のなかにショットガンの中身を二発ぶち込んだ〉と、実に具体的である。
登場人物のほとんどは何かに「とり憑かれて」いる。富と権力にとり憑かれた奴もいるし、ヒロインのジュリーは過去のトラウマに取り憑かれ、「生き延びる」という本能にもとり憑かれている。彼女が理性ではなく本能の赴くままにつむじ風のように動くので、物語は必然的に疾走してしまうのだ。
そんなジュリーに一番翻弄されるのが殺し屋トンプソン。この男もまた暴力が大嫌いな癖に「殺し」の本能にとり憑かれている。強いストレスから胃が食べ物を受け付けず、ついには生きた獲物を自らくびり殺したものだけを摂取して生きている。つまり殺した生き物の魂にとり憑くことにより執念だけの生を維持しているのだ。おそらくジュリーを殺したあかつきには、その屍体に齧り付くのではないか、と思わせる悪鬼ぶりである。
振り返れば、ハードボイルド作家の果ては悲惨なものが多い。文体の祖といわれるヘミングウエイはマチズモに取り憑かれ、自滅した。魂の祖であるハメットはマッカーシズムと同居人のリリアン・ヘルマンに取り憑かれ、書けなくなった。
そしてこのマンシェットも巻末の年譜に寄れば、52年の短すぎる生涯に過労、アル中、広場恐怖、膵臓癌(消化器の癌!)と悲惨な経験を重ねている。本作を執筆中の悪戦苦闘ぶりも解説中の『日記1966~1974』により明らかだ。消化器官として用をなさない胃を抱えつつ、執念にとり憑かれて生きるトンプソンの狂気はそのまま「文体」に苦しみ、「プロット」に悶える作者の姿を反映しているように思えてならない。
そしてぺテール。最初、ジュリーの鼻筋に木製の犬を叩きつけるという印象的な登場をするくそ餓鬼だが、誘拐されて子供なりに辛酸をなめ、この〈アンチモラルな生存競争の寓話〉(中条省平の解説)の中で末恐ろしい存在感を発揮するようになる。奇妙な城寨でひとり遊ぶその後姿は立派にハードボイルド。あっぱれなアンファンテリブルではないか。
(朝日新聞)
#17『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太
あぁ腹が立つ。
女を殴る、ひっぱたく。
髪の毛をつかんで引きずりまわす。
『どうで死ぬ身の一踊り』の主人公のひどさにハラのワタも煮えくりかえる。
同棲してる女とこいつが話すときの口汚さはひどい。
「便座あげとけって言ってんだろが!」
「あんたが留守にしてたから忘れてたのよ。なにもそんなに怒らなくてもいいじゃない。あたしが忘れてたら自分であげりゃいいだけのことでしょう? 簡単なことじゃない」
「簡単なことだからおまえがやれと言っているんだ。どうで難しいことなんかできやしねえんだから、せめて簡単なことぐらいおまえがやれと言ってるんだ」
「だって……」
「何が、だって、だ。口答えすんな」
「……」
「何んだその目は。生意気な奴め。それに簡単なことついでにもうひとつやっといてもらいたいんだが、そのベランダの洗濯物、さっさと取り込め。いつまで乾かしてりゃ気が済みやがんだ。鴉除けのつもりか」
だぁーあー! もう!
別にこんな言い方しなくていいじゃん!
生意気な奴め、なんて普通言うか? 言わねぇよ。
便座だの洗濯物だの怒るきっかけになるものが小さい事なのにまるで自分は世界一偉いみたいな言い草。
自分の女の前でしかこんな事言えないくせに!
それで女が怒ったのにさらに腹を立ててひどい暴力をふるって、しまいには追い出して実家に帰す。
なのに1週間もしたら寂しくなって電話で
「あ、ぼくです。ごめんね。大丈夫? まだ寝てなかった?」
「そっちのいない生活は、本当に面白くも何んともないよ。」
なんて同情を誘って帰ってきてもらおうとする。
よくそんな可哀相なぼくちゃんみたいな感じで話せるな。
その後なんとか女と会う機会を設けて話し合い。
「本当に、もう駄目なの?お願いだから考え直してくれよ。もう絶対に手を上げたり、イヤな思いをさせませんから……」
なんて。
どの口がそんな事言うんだ。
それで女もやめればいいのに根負けして男のもとに戻ってくる。
あぁもう馬鹿馬鹿、女もしょうがねぇな!
この男は口だけは上手いんだからさ。充分あんたも分かってるでしょうに!
そんでもってこれが私小説だっていうんだからタチが悪い。
この作者、自分が最悪だって分かっててこう書いてる。
分かってるなら直せばいいのにそれが出来ないのはなんでなんだ。
自分の女だからって甘えすぎじゃないのか!
さらに悔しいのは、この男と女の口論はものすごくテンポが良くて一気にガーッと読めてしまうところ。
読めば読むほどイライラするのにその文章を読むのはひどく面白い。
言葉のリズムがすごい良いんだよ。
もう腹が立ってしょうがないのにちょっと楽しいみたいな感情もあってそれがさらにムカつく!
結局この本を読んでてこんなに憤ってしまうって事は僕はこの小説にずっぷり感情移入してると認めてしまってる事になるワケで……。
あぁ腹が立つ。
#18『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太
この小説の主人公は「私」と名のるひとです。「私」は、よそのひととお話しするときは「ぼく」といいます。だから、「私」は男のひとです。年は三十四さいで、しょく業は日やといのフリーターです。「私」は中学校を卒業してからと言うもの、定しょくについていません。
定しょくについていない「私」は、びんぼうですが、好きなときに休めます。「私」は、藤澤?造という作家を深くそんけいしていて、月に一度は石川県までおはかまいりに行かなければならないので、それだけ考えると、むしろよいあんばいといえます。けれども、交通費のほかにも、なにやかやとお金がかかります。それが毎月ですから、たいへんです。そこに持ってきて、「私」には藤澤?造全集を出したいという夢があり、その費用の貯金もしなければならないのです。おはかまいりにしろ、全集にしろ、だれかにたのまれたわけでも、命令されたわけでもありません。けれども、「私」は、そうしなければならないのです。どうしても、なんとしても、そうしなければならないのです。
「私」は一しょにくらしている女の父親にお金をかります。ほぼ、女のお金で生活しています。女はごはんのしたくもしてくれます。でも、「私」は女をどなったり、なぐったり、けったりします。さいしょ、「私」と女はなかよくやっていました。女は「私」を受け入れ、ダメ出しなぞしませんでした。ところが、くらしているうち、女は「私」の欠点を指てきしたり、ちゃかしたり、しちめんどくさいことを言うようになります。おトイレの便ざは上げておけと「私」が言っているのに、上げなかったり、チキンライスにチキンが入っていなかったり、カツカレーを食べる「私」に「豚みたいな食べっぷりね」とつぶやいたりします。
「私」は「私のことを愛してくれる、優しい恋人」がほしいのに、女は「私」の思うようになりません。「私」はあきたりません。?造全集を出すことにかんしても、おはかまいりなどにかんしても、そして「私」にかんしても、「私」はあきたりないのですが、もとをたどると、ばくぜんとした「あきたらなさ」が「私」のなかにあり、それが「私」をおしすすめたり、からまわりさせたり、いじけさせたり、しつこくさせたりしているようです。なんぎです。
なお、「あきたりない」は、「慊りない」と書きます。「慊」には、不満と満足、ふたつの意味があるそうですが、それはともかく、この小説には、そのほかにも、むずかしい漢字や、「結句」、「はな」などのいっぷう変わった言葉や、「このヌメリは誰にも渡さねえ」といったゆかいな表現がどっさり出てきます。意味や読みかたがわからないときは、おとうさんやおかあさんに聞いてみましょう。
(『小学四年生』)
#19『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)
筋書きはいたってシンプルで、ジュリーという女性とペテールという少年が、身代金目当てのギャングから狙われて、さぁ大変、というものだ。変わっているのは、逃げる側のジュリーがやたら人を殺すこと。追っ手を撒くためとはいえ、関係ない通行人まで殺したり、スーパーに放火するなど、やりたい放題だ。
ジュリーの世界では、捕まらないという目的が、倫理や道徳を超えてしまっている。ギャングからの逃走が、いつの間にか世界の枠組みからの逃走にスライドしているのが面白い。
けれど、何よりも小説世界のヴィジュアルが際立って鮮明であるということに惹きつけられる。マンシェットの文章は、とても映像的なのだ。
とはいえ、登場人物が表情豊かに生き生きと動き回るとか、当時のフランスの雰囲気が香り立つとか、そういう感じではない。動画ではなく静止画で、なんというか、絵コンテに近い。
マンシェットの人物造形には、内面描写がほとんどない。台詞も簡潔だ。そのかわり動作は実に緻密に描かれていて、人物の性格や感情は、それら身体の動きと声のトーン、表情などから補わなければならない。
物の描き方も同じで、彼の作品には、シトロエン、ルノー、リンカーンなどたくさんの車が登場するが、描かれているのは、その動きのみ。車が人物や場面の雰囲気を演出するような、いわゆる小道具として機能することはない。シトロエンならシトロエンの、あくまでヴィジュアルだけが浮かび上がるようになっている。
マンシェットは、目に見えている部分の情報しか与えてくれない。外側の情報だけを組み合わせて出来た世界が、映画の設計図、つまり絵コンテっぽいのである。けれどその情報量が多いので、解像度はとても高くて、美しい。
そう思うのは私だけではないようで、今までにも彼の作品は数多く映像化されている。例えば<トンプソンは全弾をペテールに浴びせたが、弾は松の枝のなかで跳ねまわり、松葉や木のかけらや露や松脂のしずくをそこらじゅうに撒き散らした。一発もペテールに当たらない。殺し屋は苦痛に体を折り、しゃっくりしながら不器用に引き金をひき、胆汁と混じって泡立つ血液をカービン銃の上に吐いた。>のような文章を映像化した場合、おそらく臨場感たっぷりのアクションシーンが出来上がるだろう。しかしそれは、文字で読んだ場合に思い浮かべる絵とは趣が異なる。マンシェットは徹底して人や物の動く様子を描いてはいるが、読み手の目の前に広がる世界は、叙情性を排除した静止画なのだ。時間が流れている証拠である「動き」が、時間の止まった世界を生み出す。生を描いたはずの文章が、死をはらんでいる。この不思議な読み心地は、文字によってのみ味わえるのだと思う。
(毎日新聞)
#20『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太
私のお墓の前で暴れないでください、と秋川雅史なら歌いだすかもしれない。西村賢太の私小説には、それほどひどい男が登場する。
無頼な生活の末に凍死した大正時代の作家、藤澤淸造を語り手の「私」は崇拝している。彼の全集を刊行したいと大望を抱き、関係資料の収集に尽力している。「私」はこの作家の墓へ毎月参るだけでなく、淸造忌の法要を復活させ施主も務め始めた。しかも、自室の藤澤淸造コレクションのなかには、作家の最初の墓標(木製)まであった。「私」の住む賃貸の部屋が、もうひとつの墓と化しているのだ。
しかし、「墓前生活」を送る「私」は、暴れる。墓や法要にこだわる男だが、信心深く慈悲深いわけではない。金に関しては同居する女に頼りっきりなうえ、すぐにブチ切れては暴力をふるう。かといって、性欲の強い「私」は彼女に逃げられたくなくて、暴力のあとにはいつも平謝り。DV男の典型である。
題名「どうで死ぬ身の一踊り」は、藤澤淸造の言葉に由来する。とはいえ、全集刊行の大望と女に逃げられたくない思いでいっぱいの「私」は、「どうで死ぬ身」と思い切ってはおらず、生に執着しまくり。そして、「一踊り」ではすまず、何度でも己の感情に踊らされる。
作中では、女が「私」には二面性があるともらす。なるほど。語り手の「私」は、文章中でオナニーのことを「自らを汚す」と表現する。気どっている。まるで「汚す」前はきれいであるみたいだが、金、性欲などで意地汚く、身の回りも汚いのが「私」だろう。
また、主人公は地の文章では「私」なのに会話での一人称は「ぼく」。この男は、「ただでさえ私にとり、月一回藤澤淸造の展墓をし、月回向の法要を行なうことは自分の唯一の矜持の立脚点」などと書く。墓参りをしかつめらしく「展墓」と表現する。だが、話す時は「ぼく」に変身し、甘えや媚びを含んだ口調になる。「あんなことで、拗ねたりして、ぼく、本当にどうかしてた。おまえに随分と不愉快な思いをさせちゃったね」なんて女にのたまう。困った「ぼく」ちゃんである。
褒めにくい主人公だが、彼の美点をあげるなら、藤澤淸造への無垢な一途さになる。それは、女へのひどいふるまいと裏表だ。藤澤には尊敬、女には気安さで対しているが、一途さでは共通したところも感じられる。ただ、相手がなにをいっても応答のない死者か、いいかえしてくる生者かの違いが、「私」として矜持を持てるか、「ぼく」になって甘えてしまうかの差にあらわれているようにも思える。
当たり前の話だが、「私」と「ぼく」の根は一緒だし、主人公が「ぼく」の時に示す、自分かわいさの態度については、身に覚えのある人も多いはず。人は誰でも、困った「ぼく」ちゃんを飼っている。だから、主人公を憎めない。西村賢太は、そんな自分かわいさを生々しく描く。この小説には、本当の人間がいる。
とはいっても、墓の前ではやっぱり暴れないほうがいいと思うけどね。
(想定媒体「BOOK JAPAN」)
#21『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太
三度ほど結婚し全てDVに終わり職もない男が、属性を偽って参加したお見合いパーティー(医者限定)で知り合った女性と事実上の婚姻関係となりヒモ生活を送ったあげくその後保険金目当てに殺害、捕まった男は“いかにも”な風貌、というような事件を三面記事欄でよく見かける。私はこのような関係性が昔から謎だった。例え男性が悪人に仕上がった過去に同情し「私がいないとこの人は」というような陶酔を味わえたとしても、金をとられたあげくに暴力までふるわれて、どうして目が醒めないのだろう?と。
不本意ながらこの小説を読むと、そういう女性の気持ちを追体験させられる。主人公は文中頻繁に登場する形容詞:「嫌ったらしい」としか言いようがない性格の男性で、「不幸な家系に生まれ育ち苦労の末人の痛みが分かる優しい人間に」風な願望を完璧に打ち砕く。子供には/動物にはやさしいなどの条件付き愛情もなく、どこまでも怠惰、それでいてキレやすく、やさしさや卑屈さを見せるときには必ず何らかの狙いがあり、あらゆる意味で関わると危険なタイプだ。
彼には「無名の文豪の全集を出す」という自身に課した使命がある。男の性格や素行がひどいものであればあるほど、名作を残しながら公園のベンチで凍死し身元不明者として桐谷斎場で荼毘に付された作家にいれこみ、「その情熱を働くことに向けたらどうですか?」と誰もが突っ込みたくなる程の情熱を傾けて自主的に著作を集め法要を企画し、しかもそのほとんどの費用は女や女の家族からの借金から捻出しているという行動のアンバランスさが際立ち理不尽なことに不思議な魅力となるのだ。
主人公のブレない極悪ぶりはすさまじいほどで、せめて私的関係はともかく、作家に関することには善良であってほしいと願うこちらの期待を軽々と裏切り、法要に協力する人にもキレまくる。たちの悪いことに、彼はキレまくる自分の感情の状態に充分自覚的だ。自覚した結果コントロールできないのか、しようとしないのかは、途中からはどうでもよくなる。しかし女が出て行くシーンで、私は図らずも彼に同情した。自分はもちろん、自分の知人がこのような男と交際していたら直ちに距離をおくことをすすめるのに、彼とこの女は別れないで欲しいと思う始末。
彼が更正するのではないか、人と暮らすことのあたたかさを知るのではないかという期待はまたも軽々と裏切られ、彼のろくでなしぶりはむしろ加速する。彼に一瞬でも同情した私は騙された怒りを感じる。そして、まさにこれは“いかにも”な男性と交際し裏切られた女性の気持ちそのものなのではないかと気づき愕然とする。「一つのことに夢中になれる男性は素敵」と口にしたことのある方にぜひ、そういう男性の総合的人格についての示唆として読んでもらいたいと思う。
(想定媒体:朝日新聞)
#22『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)
文庫のうしろには、「殺人と破壊の限りを尽くす、逃亡と追跡劇が始まる!」とあるので、アクション場面を期待して読みはじめてしまいそうだ。が、まずはこれを忘れて小説の冒頭からじっくり読んでほしい。
J・P・マンシェット『愚者(あほ)が出てくる、城塞(おしろ)が見える』は、小説前半の緻密で繊細に計算された描写によさがある。
ストーリーの前半を簡単にまとめると、精神を病んで何年も入院していたジュリーが退院し、富豪のアルトグの家に雇われることになる。仕事はアルトグの甥であるペテールの世話係だが、ペテールに会ってみると予想以上にクソガキでジュリーにやたら反抗的な態度をとり、しまいには前の世話係だったマルセルの方がよかった、と言い出す始末……。
あらすじだけ読むと平凡な物語に見えるかもしれないが、出てくるキャラクターのどれもが、多面性を持ち魅力的であることが読み進めていくと分かる。アルトグは精神を病んでいる人々を「いかれたやつら」と呼んでしまうような人物でありながら、積極的に障害者を雇用し、また様々な土地の廃屋を組み合わせて風変わりな塔を建ててしまう建築家としての顔も持つ。
ジュリーは、精神を病んでいたはずなのに、アルトグと会ってすぐに彼の持つトラウマをあっさりと見破ってしまうくらい聡明な女性だ。そして、4人組のギャングにおそわれ、必死に逃げる状況になり、徐々に彼女の本性が明らかになっていく。
小説の前半からじっくり読んでいれば、後半にジュリーが実行する大胆な行動のひとつひとつにおどろきつつページをめくることができるはずだ。
この小説は1972年に出版された書籍で、アクションシーンが映画的だと高く評価されている。でも、正直、今の水準から見るとそれほどの派手さは感じない。ただ、前半で登場人物たちに厚みを持たせるように書いているため、後半のアクション場面の連続にも退屈することなく読み進めていける。
最初はジュリーに反抗的だったペテールも、ギャングから逃げるうちに、次第にジュリーを頼っていく。この二人の関係が、逃避行の果てにどのようなものになっていくかはこの小説の読みどころの一つだろう。
この小説は通勤電車で細切れに読むのではなく、休日にゆっくりと読んでみたい。
想定媒体(SPA)
#22『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)
マンシェットという作家は、なかなかオフビートなアクションを書く人だなと思った。ストーリー自体は単純明快、骨子は通俗アクションなのに、人物設定やストーリーの展開が少しずつおかしい。
ストーリーはシンプルそのもの。遺産相続人である少年とベビーシッターの女性がギャングに攫われるが、隙を突いて逃亡。ベビーシッターは一見可憐な少女だが、荒くれ者相手に銃をぶっ放し、火炎瓶を投げ、次々に追撃を躱してひたすら逃げる。「あ、『グロリア』じゃん」と思った人は、ちょっとしたアクション映画通。芸術家肌の監督ジョン・カサベテスが撮った唯一のエンターテイメント。鉄火肌の娼婦上がりの姉御が、命を追われる少年の保護者になり、街中でマフィアに銃撃戦、派手に逃げに逃げるロードムーヴィー。女性が主人公のハードボイルド映画の嚆矢で、確かチャンドラー以外褒めない矢作俊彦が絶賛していた記憶がある。
グロリアは大の子ども嫌い。一方少年は「僕はオトナだ」と突っ張る6歳児。口が減らないプエルトリカンのガキと苦虫を噛み潰したような性悪女が、次第にお互いを求め歩み寄っていく情感が裏のメインテーマ。その意味ではひねくれているようでも、ウェルメイドの商業映画だ。
ところがこの作品にはそんなウェットな部分が微塵もない。ベビーシッターのジュリーは、精神病院を退院したばかりの元不良少女で、行動が胡乱極まりない。逃亡中もヒッチハイクで乗せてくれた男をいきなり殺して車を奪ったり、身を隠すために潜んだ講演会で暴言を吐いて放り出されたり、ひたすら場当たりで衝動的。グロリアのような浪花節風の慈悲は感じられない。追ってくるから撃つ、狙われているから庇う、判断が動物的で一貫性など全くないのだ。理性を経由しないむき出しの生存本能がジュリーを突き動かしている。
一方追うギャングの頭目トンプソンは、「人殺しは本当に嫌いだ」とうそぶき、度重なる部下の失態に胃を痛める繊細な男。追跡中に山で車の事故を起こし、プチサバイバルな彷徨の末、なぜか川鱒を生で齧る野生状態に転落する。この唐突な変身エピソードに作者は合理的な説明は与えない。ストレスで精神が破綻したとでも言いたいのか。ひたすら狂った肉食動物を数匹檻に放り込むのみ。但し書きのない狂人VS狂人の構図に導かれて、血が飛び散り人が死ぬ。
「グロリア」は紆余曲折→感情のカタルシスで客を泣かせたが、この小説の中央にはただの黒い虚無のブラックホールが横たわっている。明らかにモノガタリとしてごっそり抜け落ちた穴ぼこだ。その分、苛烈で身も蓋もない暴力が際立つ。行為のみ描く文体の簡潔さもあいまって、脱脂粉乳のように、ベタつきのないフリーズドライの血の飛沫が振りまかれる物語。それは、行為の解釈を任せられた我々の舌上で唾液を吸って、本来の血の鉄の味ではなく、奇妙に甘い。
掲載誌「ミステリマガジン」
(完)
※このイベントの詳細はこちら。