« April 2011 | Main | September 2011 »

(5/25)書評の愉悦 出張版を本日ustreamでご覧になる方

 本日の豊﨑由美×杉江松恋 書評の愉悦出張講座(19:30~21:30)は、事前にみなさんから応募していただいた、22本の書評を採点し、それについて語りながら、「よい書評」とはどんなものか、を模索するという内容です。

 なので、放送をご覧になるときは、この画面から指定の書評を閲覧しながら見られることをお勧めします。
 事前にプリントアウトするのもいい手かも。ただし、匿名ですが著作権はそれぞれの書評の著者に帰属しますので、権利を侵害するような行為はお止めください。

 書評#1~#5
 書評#6~#10
 書評#11~#15
 書評#16~

 なお、会場でご覧になりたい方は、まだ席に余裕があります。こちらを参考にどうぞ。

 杉江が考えるよい書評の条件というのを中途で言及することがあります。以前、こちらにまとめました。

 会場の方針により、講座の途中での質問は来場者に限定した権利とさせていただきます。ただし、開演前にtwitterで発せられた質問については、杉江が回収して講座の途中で言及する可能性があります(お約束はできませんが)。ハッシュタグ #nbjp をつけてご発言ください。杉江のIDは@from41tohomaniaです。

 では会場、もしくは放送でお会いしましょう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

(5/25)豊﨑由美×杉江松恋 書評講座「書評の愉悦出張版」応募原稿その4

 これは、表記のイベントに応募された原稿です。詳しくはその1を参照のこと。
======
#16『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

 大金持ちのアルトグにより精神病院を退院させられ、アルトグの甥ぺテールの付き添いをすることになったジュリーは、殺し屋トンプソン率いる一味にぺテールとともに誘拐されてしまう。生き延びようとする本能の赴くまま、ぺテールを連れて逃げ出すジュリー。追うトンプソンもまた任務遂行の執念に燃えている。過激な逃走と追跡の過程で、死体がポンポン転がり、バンとあがる火柱にジョーン・バエズの甲高い歌声がかぶさる。形容詞がほとんどない短い文章がスタッカートに繰り出される乾いた文体から、なんと豊穣な阿鼻叫喚やスラップスティックが生み出されたことか。それぞれの殺され方の描写も〈九ミリの弾丸が肋骨の下に入り、肝臓を破裂させ、尻から抜けた〉〈耳のなかにショットガンの中身を二発ぶち込んだ〉と、実に具体的である。
 登場人物のほとんどは何かに「とり憑かれて」いる。富と権力にとり憑かれた奴もいるし、ヒロインのジュリーは過去のトラウマに取り憑かれ、「生き延びる」という本能にもとり憑かれている。彼女が理性ではなく本能の赴くままにつむじ風のように動くので、物語は必然的に疾走してしまうのだ。
 そんなジュリーに一番翻弄されるのが殺し屋トンプソン。この男もまた暴力が大嫌いな癖に「殺し」の本能にとり憑かれている。強いストレスから胃が食べ物を受け付けず、ついには生きた獲物を自らくびり殺したものだけを摂取して生きている。つまり殺した生き物の魂にとり憑くことにより執念だけの生を維持しているのだ。おそらくジュリーを殺したあかつきには、その屍体に齧り付くのではないか、と思わせる悪鬼ぶりである。
 振り返れば、ハードボイルド作家の果ては悲惨なものが多い。文体の祖といわれるヘミングウエイはマチズモに取り憑かれ、自滅した。魂の祖であるハメットはマッカーシズムと同居人のリリアン・ヘルマンに取り憑かれ、書けなくなった。
 そしてこのマンシェットも巻末の年譜に寄れば、52年の短すぎる生涯に過労、アル中、広場恐怖、膵臓癌(消化器の癌!)と悲惨な経験を重ねている。本作を執筆中の悪戦苦闘ぶりも解説中の『日記1966~1974』により明らかだ。消化器官として用をなさない胃を抱えつつ、執念にとり憑かれて生きるトンプソンの狂気はそのまま「文体」に苦しみ、「プロット」に悶える作者の姿を反映しているように思えてならない。
 そしてぺテール。最初、ジュリーの鼻筋に木製の犬を叩きつけるという印象的な登場をするくそ餓鬼だが、誘拐されて子供なりに辛酸をなめ、この〈アンチモラルな生存競争の寓話〉(中条省平の解説)の中で末恐ろしい存在感を発揮するようになる。奇妙な城寨でひとり遊ぶその後姿は立派にハードボイルド。あっぱれなアンファンテリブルではないか。
(朝日新聞)


#17『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 あぁ腹が立つ。
 女を殴る、ひっぱたく。
 髪の毛をつかんで引きずりまわす。
『どうで死ぬ身の一踊り』の主人公のひどさにハラのワタも煮えくりかえる。
 同棲してる女とこいつが話すときの口汚さはひどい。
「便座あげとけって言ってんだろが!」
「あんたが留守にしてたから忘れてたのよ。なにもそんなに怒らなくてもいいじゃない。あたしが忘れてたら自分であげりゃいいだけのことでしょう? 簡単なことじゃない」
「簡単なことだからおまえがやれと言っているんだ。どうで難しいことなんかできやしねえんだから、せめて簡単なことぐらいおまえがやれと言ってるんだ」
「だって……」
「何が、だって、だ。口答えすんな」
「……」
「何んだその目は。生意気な奴め。それに簡単なことついでにもうひとつやっといてもらいたいんだが、そのベランダの洗濯物、さっさと取り込め。いつまで乾かしてりゃ気が済みやがんだ。鴉除けのつもりか」
だぁーあー! もう!
 別にこんな言い方しなくていいじゃん!
 生意気な奴め、なんて普通言うか? 言わねぇよ。
 便座だの洗濯物だの怒るきっかけになるものが小さい事なのにまるで自分は世界一偉いみたいな言い草。
 自分の女の前でしかこんな事言えないくせに!
 それで女が怒ったのにさらに腹を立ててひどい暴力をふるって、しまいには追い出して実家に帰す。
 なのに1週間もしたら寂しくなって電話で
「あ、ぼくです。ごめんね。大丈夫? まだ寝てなかった?」
「そっちのいない生活は、本当に面白くも何んともないよ。」
 なんて同情を誘って帰ってきてもらおうとする。
 よくそんな可哀相なぼくちゃんみたいな感じで話せるな。
 その後なんとか女と会う機会を設けて話し合い。
「本当に、もう駄目なの?お願いだから考え直してくれよ。もう絶対に手を上げたり、イヤな思いをさせませんから……」
 なんて。
 どの口がそんな事言うんだ。
 それで女もやめればいいのに根負けして男のもとに戻ってくる。
 あぁもう馬鹿馬鹿、女もしょうがねぇな!
 この男は口だけは上手いんだからさ。充分あんたも分かってるでしょうに!
 そんでもってこれが私小説だっていうんだからタチが悪い。
 この作者、自分が最悪だって分かっててこう書いてる。
 分かってるなら直せばいいのにそれが出来ないのはなんでなんだ。
 自分の女だからって甘えすぎじゃないのか!
 さらに悔しいのは、この男と女の口論はものすごくテンポが良くて一気にガーッと読めてしまうところ。
 読めば読むほどイライラするのにその文章を読むのはひどく面白い。
 言葉のリズムがすごい良いんだよ。
もう腹が立ってしょうがないのにちょっと楽しいみたいな感情もあってそれがさらにムカつく!
 結局この本を読んでてこんなに憤ってしまうって事は僕はこの小説にずっぷり感情移入してると認めてしまってる事になるワケで……。
 あぁ腹が立つ。


#18『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 この小説の主人公は「私」と名のるひとです。「私」は、よそのひととお話しするときは「ぼく」といいます。だから、「私」は男のひとです。年は三十四さいで、しょく業は日やといのフリーターです。「私」は中学校を卒業してからと言うもの、定しょくについていません。
 定しょくについていない「私」は、びんぼうですが、好きなときに休めます。「私」は、藤澤?造という作家を深くそんけいしていて、月に一度は石川県までおはかまいりに行かなければならないので、それだけ考えると、むしろよいあんばいといえます。けれども、交通費のほかにも、なにやかやとお金がかかります。それが毎月ですから、たいへんです。そこに持ってきて、「私」には藤澤?造全集を出したいという夢があり、その費用の貯金もしなければならないのです。おはかまいりにしろ、全集にしろ、だれかにたのまれたわけでも、命令されたわけでもありません。けれども、「私」は、そうしなければならないのです。どうしても、なんとしても、そうしなければならないのです。
 「私」は一しょにくらしている女の父親にお金をかります。ほぼ、女のお金で生活しています。女はごはんのしたくもしてくれます。でも、「私」は女をどなったり、なぐったり、けったりします。さいしょ、「私」と女はなかよくやっていました。女は「私」を受け入れ、ダメ出しなぞしませんでした。ところが、くらしているうち、女は「私」の欠点を指てきしたり、ちゃかしたり、しちめんどくさいことを言うようになります。おトイレの便ざは上げておけと「私」が言っているのに、上げなかったり、チキンライスにチキンが入っていなかったり、カツカレーを食べる「私」に「豚みたいな食べっぷりね」とつぶやいたりします。
「私」は「私のことを愛してくれる、優しい恋人」がほしいのに、女は「私」の思うようになりません。「私」はあきたりません。?造全集を出すことにかんしても、おはかまいりなどにかんしても、そして「私」にかんしても、「私」はあきたりないのですが、もとをたどると、ばくぜんとした「あきたらなさ」が「私」のなかにあり、それが「私」をおしすすめたり、からまわりさせたり、いじけさせたり、しつこくさせたりしているようです。なんぎです。
 なお、「あきたりない」は、「慊りない」と書きます。「慊」には、不満と満足、ふたつの意味があるそうですが、それはともかく、この小説には、そのほかにも、むずかしい漢字や、「結句」、「はな」などのいっぷう変わった言葉や、「このヌメリは誰にも渡さねえ」といったゆかいな表現がどっさり出てきます。意味や読みかたがわからないときは、おとうさんやおかあさんに聞いてみましょう。
(『小学四年生』)


#19『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

 筋書きはいたってシンプルで、ジュリーという女性とペテールという少年が、身代金目当てのギャングから狙われて、さぁ大変、というものだ。変わっているのは、逃げる側のジュリーがやたら人を殺すこと。追っ手を撒くためとはいえ、関係ない通行人まで殺したり、スーパーに放火するなど、やりたい放題だ。
 ジュリーの世界では、捕まらないという目的が、倫理や道徳を超えてしまっている。ギャングからの逃走が、いつの間にか世界の枠組みからの逃走にスライドしているのが面白い。
けれど、何よりも小説世界のヴィジュアルが際立って鮮明であるということに惹きつけられる。マンシェットの文章は、とても映像的なのだ。
 とはいえ、登場人物が表情豊かに生き生きと動き回るとか、当時のフランスの雰囲気が香り立つとか、そういう感じではない。動画ではなく静止画で、なんというか、絵コンテに近い。
 マンシェットの人物造形には、内面描写がほとんどない。台詞も簡潔だ。そのかわり動作は実に緻密に描かれていて、人物の性格や感情は、それら身体の動きと声のトーン、表情などから補わなければならない。
 物の描き方も同じで、彼の作品には、シトロエン、ルノー、リンカーンなどたくさんの車が登場するが、描かれているのは、その動きのみ。車が人物や場面の雰囲気を演出するような、いわゆる小道具として機能することはない。シトロエンならシトロエンの、あくまでヴィジュアルだけが浮かび上がるようになっている。
 マンシェットは、目に見えている部分の情報しか与えてくれない。外側の情報だけを組み合わせて出来た世界が、映画の設計図、つまり絵コンテっぽいのである。けれどその情報量が多いので、解像度はとても高くて、美しい。
 そう思うのは私だけではないようで、今までにも彼の作品は数多く映像化されている。例えば<トンプソンは全弾をペテールに浴びせたが、弾は松の枝のなかで跳ねまわり、松葉や木のかけらや露や松脂のしずくをそこらじゅうに撒き散らした。一発もペテールに当たらない。殺し屋は苦痛に体を折り、しゃっくりしながら不器用に引き金をひき、胆汁と混じって泡立つ血液をカービン銃の上に吐いた。>のような文章を映像化した場合、おそらく臨場感たっぷりのアクションシーンが出来上がるだろう。しかしそれは、文字で読んだ場合に思い浮かべる絵とは趣が異なる。マンシェットは徹底して人や物の動く様子を描いてはいるが、読み手の目の前に広がる世界は、叙情性を排除した静止画なのだ。時間が流れている証拠である「動き」が、時間の止まった世界を生み出す。生を描いたはずの文章が、死をはらんでいる。この不思議な読み心地は、文字によってのみ味わえるのだと思う。
(毎日新聞)


#20『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 私のお墓の前で暴れないでください、と秋川雅史なら歌いだすかもしれない。西村賢太の私小説には、それほどひどい男が登場する。
 無頼な生活の末に凍死した大正時代の作家、藤澤淸造を語り手の「私」は崇拝している。彼の全集を刊行したいと大望を抱き、関係資料の収集に尽力している。「私」はこの作家の墓へ毎月参るだけでなく、淸造忌の法要を復活させ施主も務め始めた。しかも、自室の藤澤淸造コレクションのなかには、作家の最初の墓標(木製)まであった。「私」の住む賃貸の部屋が、もうひとつの墓と化しているのだ。
 しかし、「墓前生活」を送る「私」は、暴れる。墓や法要にこだわる男だが、信心深く慈悲深いわけではない。金に関しては同居する女に頼りっきりなうえ、すぐにブチ切れては暴力をふるう。かといって、性欲の強い「私」は彼女に逃げられたくなくて、暴力のあとにはいつも平謝り。DV男の典型である。
 題名「どうで死ぬ身の一踊り」は、藤澤淸造の言葉に由来する。とはいえ、全集刊行の大望と女に逃げられたくない思いでいっぱいの「私」は、「どうで死ぬ身」と思い切ってはおらず、生に執着しまくり。そして、「一踊り」ではすまず、何度でも己の感情に踊らされる。
 作中では、女が「私」には二面性があるともらす。なるほど。語り手の「私」は、文章中でオナニーのことを「自らを汚す」と表現する。気どっている。まるで「汚す」前はきれいであるみたいだが、金、性欲などで意地汚く、身の回りも汚いのが「私」だろう。
 また、主人公は地の文章では「私」なのに会話での一人称は「ぼく」。この男は、「ただでさえ私にとり、月一回藤澤淸造の展墓をし、月回向の法要を行なうことは自分の唯一の矜持の立脚点」などと書く。墓参りをしかつめらしく「展墓」と表現する。だが、話す時は「ぼく」に変身し、甘えや媚びを含んだ口調になる。「あんなことで、拗ねたりして、ぼく、本当にどうかしてた。おまえに随分と不愉快な思いをさせちゃったね」なんて女にのたまう。困った「ぼく」ちゃんである。
 褒めにくい主人公だが、彼の美点をあげるなら、藤澤淸造への無垢な一途さになる。それは、女へのひどいふるまいと裏表だ。藤澤には尊敬、女には気安さで対しているが、一途さでは共通したところも感じられる。ただ、相手がなにをいっても応答のない死者か、いいかえしてくる生者かの違いが、「私」として矜持を持てるか、「ぼく」になって甘えてしまうかの差にあらわれているようにも思える。
 当たり前の話だが、「私」と「ぼく」の根は一緒だし、主人公が「ぼく」の時に示す、自分かわいさの態度については、身に覚えのある人も多いはず。人は誰でも、困った「ぼく」ちゃんを飼っている。だから、主人公を憎めない。西村賢太は、そんな自分かわいさを生々しく描く。この小説には、本当の人間がいる。
 とはいっても、墓の前ではやっぱり暴れないほうがいいと思うけどね。
(想定媒体「BOOK JAPAN」)


#21『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 三度ほど結婚し全てDVに終わり職もない男が、属性を偽って参加したお見合いパーティー(医者限定)で知り合った女性と事実上の婚姻関係となりヒモ生活を送ったあげくその後保険金目当てに殺害、捕まった男は“いかにも”な風貌、というような事件を三面記事欄でよく見かける。私はこのような関係性が昔から謎だった。例え男性が悪人に仕上がった過去に同情し「私がいないとこの人は」というような陶酔を味わえたとしても、金をとられたあげくに暴力までふるわれて、どうして目が醒めないのだろう?と。

 不本意ながらこの小説を読むと、そういう女性の気持ちを追体験させられる。主人公は文中頻繁に登場する形容詞:「嫌ったらしい」としか言いようがない性格の男性で、「不幸な家系に生まれ育ち苦労の末人の痛みが分かる優しい人間に」風な願望を完璧に打ち砕く。子供には/動物にはやさしいなどの条件付き愛情もなく、どこまでも怠惰、それでいてキレやすく、やさしさや卑屈さを見せるときには必ず何らかの狙いがあり、あらゆる意味で関わると危険なタイプだ。

 彼には「無名の文豪の全集を出す」という自身に課した使命がある。男の性格や素行がひどいものであればあるほど、名作を残しながら公園のベンチで凍死し身元不明者として桐谷斎場で荼毘に付された作家にいれこみ、「その情熱を働くことに向けたらどうですか?」と誰もが突っ込みたくなる程の情熱を傾けて自主的に著作を集め法要を企画し、しかもそのほとんどの費用は女や女の家族からの借金から捻出しているという行動のアンバランスさが際立ち理不尽なことに不思議な魅力となるのだ。

 主人公のブレない極悪ぶりはすさまじいほどで、せめて私的関係はともかく、作家に関することには善良であってほしいと願うこちらの期待を軽々と裏切り、法要に協力する人にもキレまくる。たちの悪いことに、彼はキレまくる自分の感情の状態に充分自覚的だ。自覚した結果コントロールできないのか、しようとしないのかは、途中からはどうでもよくなる。しかし女が出て行くシーンで、私は図らずも彼に同情した。自分はもちろん、自分の知人がこのような男と交際していたら直ちに距離をおくことをすすめるのに、彼とこの女は別れないで欲しいと思う始末。

 彼が更正するのではないか、人と暮らすことのあたたかさを知るのではないかという期待はまたも軽々と裏切られ、彼のろくでなしぶりはむしろ加速する。彼に一瞬でも同情した私は騙された怒りを感じる。そして、まさにこれは“いかにも”な男性と交際し裏切られた女性の気持ちそのものなのではないかと気づき愕然とする。「一つのことに夢中になれる男性は素敵」と口にしたことのある方にぜひ、そういう男性の総合的人格についての示唆として読んでもらいたいと思う。
(想定媒体:朝日新聞)


#22『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

文庫のうしろには、「殺人と破壊の限りを尽くす、逃亡と追跡劇が始まる!」とあるので、アクション場面を期待して読みはじめてしまいそうだ。が、まずはこれを忘れて小説の冒頭からじっくり読んでほしい。
J・P・マンシェット『愚者(あほ)が出てくる、城塞(おしろ)が見える』は、小説前半の緻密で繊細に計算された描写によさがある。
ストーリーの前半を簡単にまとめると、精神を病んで何年も入院していたジュリーが退院し、富豪のアルトグの家に雇われることになる。仕事はアルトグの甥であるペテールの世話係だが、ペテールに会ってみると予想以上にクソガキでジュリーにやたら反抗的な態度をとり、しまいには前の世話係だったマルセルの方がよかった、と言い出す始末……。
あらすじだけ読むと平凡な物語に見えるかもしれないが、出てくるキャラクターのどれもが、多面性を持ち魅力的であることが読み進めていくと分かる。アルトグは精神を病んでいる人々を「いかれたやつら」と呼んでしまうような人物でありながら、積極的に障害者を雇用し、また様々な土地の廃屋を組み合わせて風変わりな塔を建ててしまう建築家としての顔も持つ。
ジュリーは、精神を病んでいたはずなのに、アルトグと会ってすぐに彼の持つトラウマをあっさりと見破ってしまうくらい聡明な女性だ。そして、4人組のギャングにおそわれ、必死に逃げる状況になり、徐々に彼女の本性が明らかになっていく。
小説の前半からじっくり読んでいれば、後半にジュリーが実行する大胆な行動のひとつひとつにおどろきつつページをめくることができるはずだ。
この小説は1972年に出版された書籍で、アクションシーンが映画的だと高く評価されている。でも、正直、今の水準から見るとそれほどの派手さは感じない。ただ、前半で登場人物たちに厚みを持たせるように書いているため、後半のアクション場面の連続にも退屈することなく読み進めていける。
最初はジュリーに反抗的だったペテールも、ギャングから逃げるうちに、次第にジュリーを頼っていく。この二人の関係が、逃避行の果てにどのようなものになっていくかはこの小説の読みどころの一つだろう。
この小説は通勤電車で細切れに読むのではなく、休日にゆっくりと読んでみたい。

想定媒体(SPA)


#22『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

 マンシェットという作家は、なかなかオフビートなアクションを書く人だなと思った。ストーリー自体は単純明快、骨子は通俗アクションなのに、人物設定やストーリーの展開が少しずつおかしい。
 ストーリーはシンプルそのもの。遺産相続人である少年とベビーシッターの女性がギャングに攫われるが、隙を突いて逃亡。ベビーシッターは一見可憐な少女だが、荒くれ者相手に銃をぶっ放し、火炎瓶を投げ、次々に追撃を躱してひたすら逃げる。「あ、『グロリア』じゃん」と思った人は、ちょっとしたアクション映画通。芸術家肌の監督ジョン・カサベテスが撮った唯一のエンターテイメント。鉄火肌の娼婦上がりの姉御が、命を追われる少年の保護者になり、街中でマフィアに銃撃戦、派手に逃げに逃げるロードムーヴィー。女性が主人公のハードボイルド映画の嚆矢で、確かチャンドラー以外褒めない矢作俊彦が絶賛していた記憶がある。
 グロリアは大の子ども嫌い。一方少年は「僕はオトナだ」と突っ張る6歳児。口が減らないプエルトリカンのガキと苦虫を噛み潰したような性悪女が、次第にお互いを求め歩み寄っていく情感が裏のメインテーマ。その意味ではひねくれているようでも、ウェルメイドの商業映画だ。
 ところがこの作品にはそんなウェットな部分が微塵もない。ベビーシッターのジュリーは、精神病院を退院したばかりの元不良少女で、行動が胡乱極まりない。逃亡中もヒッチハイクで乗せてくれた男をいきなり殺して車を奪ったり、身を隠すために潜んだ講演会で暴言を吐いて放り出されたり、ひたすら場当たりで衝動的。グロリアのような浪花節風の慈悲は感じられない。追ってくるから撃つ、狙われているから庇う、判断が動物的で一貫性など全くないのだ。理性を経由しないむき出しの生存本能がジュリーを突き動かしている。
 一方追うギャングの頭目トンプソンは、「人殺しは本当に嫌いだ」とうそぶき、度重なる部下の失態に胃を痛める繊細な男。追跡中に山で車の事故を起こし、プチサバイバルな彷徨の末、なぜか川鱒を生で齧る野生状態に転落する。この唐突な変身エピソードに作者は合理的な説明は与えない。ストレスで精神が破綻したとでも言いたいのか。ひたすら狂った肉食動物を数匹檻に放り込むのみ。但し書きのない狂人VS狂人の構図に導かれて、血が飛び散り人が死ぬ。
 「グロリア」は紆余曲折→感情のカタルシスで客を泣かせたが、この小説の中央にはただの黒い虚無のブラックホールが横たわっている。明らかにモノガタリとしてごっそり抜け落ちた穴ぼこだ。その分、苛烈で身も蓋もない暴力が際立つ。行為のみ描く文体の簡潔さもあいまって、脱脂粉乳のように、ベタつきのないフリーズドライの血の飛沫が振りまかれる物語。それは、行為の解釈を任せられた我々の舌上で唾液を吸って、本来の血の鉄の味ではなく、奇妙に甘い。
掲載誌「ミステリマガジン」


(完)
※このイベントの詳細はこちら

| | Comments (2) | TrackBack (0)

(5/25)豊﨑由美×杉江松恋 書評講座「書評の愉悦出張版」応募原稿その3

 これは、表記のイベントに応募された原稿です。詳しくはその1を参照のこと。
======
#11『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 西村賢太の師事する作家藤澤淸造は、大正時代の一時を流れ星のように駆け抜けた薄幸の人だった。性病から精神異常をきたし、警察の拘留や内縁の妻への暴行をくり返しあげくの果てに失踪、最終的には公園のベンチで凍死するというなんともお粗末な末路だった。
 西村氏は、そのほとんどの人が忘れさっている作家に盲目的な執着をみせる。月命日には石川県の菩提寺に墓参りに行き、自筆原稿、その他の淸造の手になる文章、また淸造について書かれた文章、手紙、唯一の本になった長編「根津権現裏」の署名無削除版、はては腐りかけている木の墓標まで、あらゆる物をコレクトしてゆく。その面では、彼には目に見えない糸をたぐりよせるようなキャッチ・ア・ウェーブが何度も訪れる。それはまるで人生にめぐりあう幸運のすべてを藤澤淸造がらみの出来事で使い果たしているようにも見えるのである。
 だがその反面、彼の人生の多くの部分は負の要素で彩られているといっても過言ではない。本作ではその淸造関係の出来事と、同居している女との相克を描いている。まるで天国と地獄。幸せが一気に暗転するその対比にカタルシスを感じてしまうぼくは変態か?何気ない一言がまねく修羅場。越えてはいけない一線を軽々と飛び越えてしまう西村氏の破天荒さに舌鼓をうつ。どうしてここまで何事も裏目に出てしまうのか。私小説を書くということは恥部を曝けだすに等しい行為だ。いってみれば自分を切り売りするに等しい。
 その行為をなんの衒いもなく、むしろ得意気に語りおこす西村氏の筆勢は、それがゆえにユーモアの片鱗をみせ、あくまでも快調だ。自己中心的でヒガミっぽく、少しでも非難を受けると一気に頭に血が昇ってしまい見境がなくなってしまう。いいわけと後悔の毎日の中で繰り返されるドメスティック・バイオレンス。あなた人間やめたほうがいいんじゃないですかと言いたくなってしまうほどに、それは非生産的でおぞましい。彼は愚かな行為をくり返す。何度も何度も何度も。だが、読者もそれを待っている。彼の痛烈で独特な罵倒と暴力を。まことにもって、笑止千万。しかし、それがやめられねえんだな。
(週刊現代)


#12『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 「共感してしまう恐怖」と「気持ち悪いもの見たさ」で、すぐに読み終えることができた。そして吐き気がした。
 主人公は、すでに42歳で亡くなった作家・藤澤清造をこよなく愛し、おっかけ続ける男。寺に頼み込んで清造の墓標を手に入れ、自分の部屋を「室内墓地」に改造。作品収集、毎年命日に開催する「清造忌」に、『藤澤清造全集』の制作活動と、清造中心の生活をおくる。
 お金を払わなければ女とセックスできなかったモテない男だが、ようやくできた彼女と同棲。女は「室内墓地」や膨大なコレクションに文句を言わず、『藤澤清造全集』の校正作業にも協力してくれる。そしてスーパーのレジ打ちバイトで生活を支えてくれる。男は清造に心酔するあまり、そんな女の親から借金をし、気にさわると暴力をふるう。男にとってのその女の魅力とは、理解のあるところというか、清造に没頭するための都合のよさだった。女がいなくなってからそれだけではないことに気付くが、もう遅い。
 私自身、男性アイドルに夢中になり、周りが心配するほど時間とお金をつぎ込んでいる。だからこそ、序盤共感して読み進めることができた。男が女にこう言われる場面がある。「やっぱり、あなたは徹底してるわ。こういうのって、中途半端にやられちゃうと、そりゃ引きもするけど、(中略)ここまでやられると逆に感心しちゃうよ」と。うんうん、やっぱり好きなことは極めたいし、こうでありたいよな!とも思った。だからこそ、終盤の展開に吐き気がこみあげた。
 私にとってのアイドルのおっかけは、「リアル」を補うためのものであって、あくまでも「バーチャル」である。リアルな生活でつのった不満を、何も言わずに受け止め笑いかけてくれる存在に忘れさせてもらう。だからリアルが順調ならばバーチャルに入れ込む割合も減ってくる。リアルとバーチャルが合わせて100になるのであって、その中でもリアルが割合多くあることに幸せを感じる。そうであるべきだ。
 対象が現役アイドルならば、相手とどうにかなれるかもしれないという夢を抱くことだってできる。しかしもうこの世にないものに熱をあげるあまり、なににも変えがたい「リア充」を失うこの男は、人としてどこか欠落している。たぶん大きく分類すれば自分もこの男と同類だと思ったからこそ、一歩間違えば同じ道を歩みかねないからこそ、ものすごく吐き気がした。公私混同というか、リアバー混同というか、絶対にこうはなりたくないという「おっかけ界の反面教師」だ。
 芸能人やアニメの主人公が好きすぎてリアルな恋愛に興味がわかない……私もたまに陥るけれども、そんな悩みを持つ人にとってこれはとてもいい作品。歌って踊れて有名でなくとも、隣に実在する、またはこれから実現するパートナーはきっと何にも変えがたいリアルな存在なのだ。そんな風に我に返れる、ありがたい作品だった。
(エキサイトレビュー)


#13『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

 70年代、型にはまったロマン・ノワールを越え、社会の歪み、人の狂喜、強烈な暴力をクールな文体で描写して、<ネオ・ポラール(新・犯罪小説)>の扉を開いた作家マンシェット。本書は1973年に「フランス推理小説大賞」を受賞し、彼をブレークさせた小説だ。日本でも74年に別題名で翻訳されたが、作家共々長らく忘れられていた。今回は、初訳でマンシェットファンになった訳者による、30数年ぶりの新訳である。
 抗うつ剤を常用し、気持ちが昂ぶるとパニックに陥る、精神病院を出たばかりのジュリー。彼女は大金持ちの事業家アルトグの希望で、彼の甥で孤児の少年ペテールの世話係になるが、ペテールとふたり、何者かに雇われた無慈悲な殺し屋トンプソンとその一味に誘拐されてしまう。監禁され、命の瀬戸際に追い詰められたとき、彼女の中の凶暴な生存本能が爆発し、間一髪ペテールを連れての脱出に成功! そして、行く先々のすべてを目も眩む暴力の嵐に巻き込みながら、誘拐一味との壮絶な逃亡劇が繰り広げられていく。
 少々手垢チックなストーリー。だが、カッコいい。短く、スタイリッシュリフ。出てくるのは、頭がまともじゃないヤツばかり。くどくどしい心理や感情の説明は無い。ただ言葉と行動と状況の観察のみで、彼らの思考と気分を刻々と追うマンシェットの描写力が凄まじい。イライラと爪を噛み、ギリギリと歯を食いしばるようなその焦燥感、緊迫感。人や車が駆け巡り、ナイフや銃の弾が、人の体を貫き、えぐり、吹き飛ばす。その疾走感、臨場感。それらの熱さと、街や部屋の風景、車や食べ物などの細部を描き込む冷静さが交互に出現するという偏執的描写の温冷浴状態で、くらくらしてくる。
 マンシェットはこの小説の完成に4年の歳月を費やした。彼は後年、完璧主義が高じて小説が書けなくなったという。超ストイック、さらにはドM。本書に登場する男たちは、作家の分身のようだ。彼らの欲は金というより自己実現。自分の仕事の完成や目標の達成に血眼になって、自分自身を追い詰めていく。彼らは、男との乱交に走りかねぬセクシーなジュリーに指1本触れない。彼女に抱きつきキスして「好きだ」と囁くのは、わがまま放題の悪ガキペテールだけ。にも関わらず、男たちにとって、本能のまま彼らの望みをぶち壊していくジュリーは間違いなくファム・ファタールだ。露骨な性描写のない本書だが、ジュリーの生命力に蹂躙される男たちの姿はマゾヒスティックで、そのバイオレンス描写はだからすごく官能的。そして、この狂乱を招いた欲望や破壊された物、すべてが終わった後勝ち残ったものの意味に気づけば、この小説の虚無感や荒涼感の正体、現代につながる深い社会性をも感じることができるだろう。本書は、ただカッコいいだけの小説では、けっしてない。
<女性誌> 


#14『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

 ぶっ飛んでる? 普通? え? これ普通?
 これは、ちょっと、参った。読み始めてしばらくすると眉間の辺りが痛くなっていた。なぜかというと、読みにくい……。なぜ読みにくいかというと、描写(行動)と台詞が一致していないとか、登場人物が獰猛な野生猿みたいにギャンギャン喚き散らすとか、会話がとにかくぶっきらぼうだとか。随分とまあ親しみにくい読み心地なのだ。まるでパリ=ダカールの荒れ地を猛スピードでばく進するラリー車に乗っているようだし、その荒れ地具合は尋常でなく車内はガッコンバッタンお祭り騒ぎなのである。普段親しみのない海外文学のロマン・ノワールなんてものに迂闊にも手を出してしまうからと、初めは苦しんでいたのだが……。

 精神病院から退院したばかりのヒステリックな女性ジュリーが莫大な財産を相続した少年ペテールのお守りとして、その後見人の富豪アルトグに雇われたところ、少年もろとも胃痛持ちの殺し屋トンプソンに命を狙われる。四人を軸にしたこの暗黒小説は映画のように目まぐるしく進んでいく。人物の中では、殺し屋にもかかわらずトンプソンが妙に親しみやすい。悲鳴を上げる胃を押さえながら必死に仕事を進める様子など、まるで現代の社会人のようでつい応援したくなってしまう。反対にヒロインであるはずのジュリーがとんでもない女性なのだ。昼間から酒を飲みまくってわーわー喚いて子どもを引っぱたく。物を壊す、車を奪う、人にコーヒーをかけたり宗教家に罵声を浴びせたり。言うことはいつも過激だしスーパーマーケットでは大暴れするし、わあ、こうして書き出すとそのとんでもなさを再認識する。とにかく、がんばる殺し屋に追われるとんでもヒロインのお話、とすると収まりがいいんだか悪いんだか。
 そんなとんでもな彼女だが殺し屋からの逃避行中、少年ペテールのことを決して離さない。なぜか、それがとてもいい。

 行動と台詞が一致していないというその荒れ地を進みながら、ああ、人ってまさに荒れ地を進むラリー車だなと気づく。言ってることがメチャクチャに感じても、人にはそれぞれ目的があり、目的に向かって進んでいる。揺れていても進んでいるその姿そのものが人間だなあと。それに気づいたとき、初めはもう意味不明で憎たらしくて仕方なかったジュリー(つまりツンデレ?)にとてつもない愛を、逆に親近感を持っていた揺れの少ないトンプソンに薄ら寒さを感じるようになる。完全にこの作品の虜だ。
 疾走感や緻密な描写もさることながら、このノワールにはさらに、あまりにも人間味に満ちた登場人物達が生きている。野暮なこと、よくわかることは口にしない、そのぶっきらぼうさが生々しくすばらしい。などといつの間にか没頭し、万感の思いで最後まで読んだところで、確信した。
 うん。やっぱぶっ飛んでる。そのぶっ飛び方はぜひその目でご確認ください。(クイックジャパン)


#15『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

 不条理で、不親切な小説だ。フレンチ・ハードボイルドの名手・マンシェットが1972年に書き、2009年に新訳が出た『愚者が出てくる、城塞が見える』のことだ。
 精神病院に入院していたジュリーは、大富豪のアルトグに雇われ、その甥である少年・ペテールの子守をすることになった。ところが初日からジュリーとペテールはプロの殺し屋トンプソン率いる4人組にさらわれてしまう。危ういところで脱出した2人は執拗に追いかけてくる殺し屋たちから逃げ回るのだが、ジュリーの頭がおかしな方向にとっちらかっているせいで、どんどん状況が混乱していく。
 ジュリーは過去のトラウマから<警察という言葉を聞くとアレルギーが出る>体質で、せっかく脱出しても権力を頼れない。追い詰められた彼女は車を奪ったり盗んだり、逃亡者にあるまじき大騒ぎをしつつ、雇い主・アルトグが待つと信じる山中の隠れ家を目指す。一方、トンプソンは潰瘍持ちであり、常に吐き気と胃痛に悩まされている。もしかしたらあまり殺し屋には向いてない性格かもしれないが仕事は一流であり、恐るべき執念と観察力でジュリーとペテールを追い続ける。ペテールは甘やかされて育った生意気なクソガキで、登場そうそう奇声を発して木製のおもちゃを投げつけテレビを破壊する。ケチな建築家だったアルトグが大富豪になったのは身内の死で大金が転がり込んだせいであり、気分屋で尊大な態度の裏に劣等感を潜ませている。登場人物たちは残らずどこか壊れているのだが、その内面は一切描写されない。読者はただセリフや行動から、想像するほかはない。
 心理描写をしないのは正統派のハードボイルド小説も同じだが、それによって主人公の信念やスタイルをより際立たせることに眼目がある。それに対してこの小説から立ち現れるのは、信念というよりは執着、スタイルというよりは強迫観念。もとから「わかっちゃいるけどやめられない」式の人間ばかりが集まっているのに加え、内面描写の欠如によって、登場人物たちの行動はより唐突に、暴力はより衝動的に描かれる。
 ピエロたちのドタバタ芝居の裏に、実は周到な伏線が巡らせてある。合理的な判断をしない人間の不条理さと、内面を切り捨てた描写の不親切さとの掛け算は、中盤のスーパーでの銃撃戦から急激に緊張を高めつつ、痛くて残酷で殺伐とした終章へ向けて加速していく。約40年前の作品だが、マンシェットの徹底的にムダを排したクールな文体は、より抑制の効いた新訳によって現代的な魅力を増している。とくに旧訳ではヤクザ者口調だったトンプソンは、知的で複雑なパーソナリティを持つ人物として描かれていて、作品全体を引き締めている。フランス暗黒小説のリーダー的存在であったマンシェットだが、本邦では絶版・品切れで読めないものばかり。文庫・新訳で本作を読めることを喜びたい。
(週刊誌)

(その4に続く)

| | Comments (1) | TrackBack (0)

(5/25)豊﨑由美×杉江松恋 書評講座「書評の愉悦出張版」応募原稿その2

 これは、表記のイベントに応募された原稿です。詳しくはその1を参照のこと。
======
#6『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

「どうで死ぬ身の一踊り」の「私」には月命日に必ず訪れる墓がある。「私」が人生をかけて傾倒する大正時代の小説家、藤澤清造の墓である。清造への入れ込みようは半端なものではなく、「私」の部屋は壁のいたるところに清造の書が掲げられ、墓標までもガラスケースで保管してあった。
 藤澤清造の祥月命日の前日、「私」は自身で復活させた『清造忌』のため、清造の菩提寺に向かうが、飛行機に乗り遅れ、次の便まで時間を潰すために十数年ぶりに母方の墓へ訪れる。墓は誰からも世話されず〈殆ど、無縁墓と化していた〉。家族と関係が断絶している「私」は、家族や親類がどうしているか想像も出来なかった。『清造忌』を終えて、「私」は女と同棲しているアパートへ戻る。
 女は「私」の父が性犯罪者であることも、「私」が清造に入れ込んでいることも気にしない。少々口煩いが、「私」が暴言を吐いたことを〈「許してくれなきゃ、もう生きてゆけねえんだ」〉と子供のように謝れば、顔をほころばせて許す、優しい女だ。ところが、「私」が清造の貴重な自筆書簡を譲りうける約束を取りつけて有頂天になったとき、女が「私」の大切する清造の墓標が入ったガラスケースの上に物を置く粗相をしてしまう。それに怒り狂った「私」は女に手を上げた。
 一週間もすると、「私」は実家に帰った女が恋しくなり、文学館で行われる『藤澤清造展』の記念講演の準備も手に着かなくなった。結局、「私」は女の実家まで出向き、泣きついて謝罪し、やっとのことで女を連れ帰る。
女は粗暴な「私」を愛し、「私」も女を愛しながら、生活の全てを清造に捧げている。
「私」は突発的にふるってしまう暴力で壊れていく女との生活を〈ママゴト〉と形容する。〈ママゴト〉さえも上手く演じられないことを理解してしまっている「私」の姿は、とてもむなしい。
それでは、「私」が何よりも優先する清造への執着は何と言えばいいのかと考えたとき、本書の題名を思い出した。
〈どうで死ぬ身の一踊り〉。
 この一踊りとは、清造への死ぬ身の奉納の踊りではないだろうか。〈ママゴト〉の関係を犠牲にした「私」の死ぬ身の清造への奉納の一踊りを、最後まで見逃さないでほしい。
 藤澤清造の詠句から取って名付けられた本書は私小説である。読了後、〈どうで死ぬ身の一踊り〉を作者西村賢太も踊っているのかも、と読むこともできる、別腹的な楽しみ方も本書は持っている。
 媒体(本の雑誌)

 
#7『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 2011年に第144回芥川賞を受賞した作者の、第134回芥川賞候補作である。作者の西村賢太は私小説の書き手として脚光を浴びた純文学作家。私小説? 純文学? 小難しいのでは? という方でも安心。高尚な理屈は一切無し。出会ったときには「数千万人に一人の女」と思って同棲したのに、すぐに飽きて「私は女が自我を主張しだしたことに不快を覚えるようになった」と言い出す男がひたすら自分を甘やかす、自己啓発の反対で自己過保護ともいえる短編だ。

 まず主人公は好きなことしかしない。藤澤清造という作家が好きで、自筆原稿や掲載雑誌や写真だけでなく木の墓標まで家に溜め込んで、「清造忌」という作家を弔うイベントや全集の出版を企画している。しかし定職にはつかず、費用は他人もち。生活費は同棲している彼女、全集の出版資金は彼女の親から借りている。ちなみにこれで三十代だ。

 さらに気が短くて口が悪い。イベントの招待状を送って返事をよこさない人達には「どん百姓ども」、彼女とケンカしたら「この、サゲマンめがっ!」、そのときに折悪く電話してきた彼女の父親には「あの猿公」。一昔前の言葉でなじるのも、ちょっとインテリっぽくてイヤらしい。ちなみに口だけでなく手も出ることがあり、前カノとは前歯を叩き折ったせいで別れた。さらにカネから家事から生活まるごと世話になってる同棲中の彼女にも、気に入らないことがあれば手を上げる。

 ただしガンガン強気に出るのは母、叔母、姉、彼女、つまり身内で女性だけだ。他人、それも男が相手なら面と向かって文句は言わない。さらに自己評価も低い。地の文から自分を紹介するところを取り出すと、「たださえ酒むくみの、好色そうな野卑な顔に、じっとりと情慾を滲ませている私」「いったいに我が強く、不快を感じるといい年してそれがすぐ顔にも声にも出る私」「根が甘ったれにできてる私」「自分の保身で頭が一杯の私」。下手に大きく出て傷つかないよう、防御も万全なのだ。それでも痛いところを突かれたら? 開き直る。「誰か新しい人見つけて」と別れ話を切り出されたら「ぼくがどれだけもてないか、おまえもよく知ってるだろう!」と逆ギレ。俺も俺の被害者なんだ!といわんばかりだ。

 もちろん世の中みんながこんな人だと困るので、人前で「羨ましいっす!」「俺もやってみたいっす!」とは絶対言えない。だけど、内心はほんのちょっと憧れる部分が無いとはいえない。だってスキルアップ、キャリアプラン、ヒューマンスキル、めんどくさいんだもん。人間、気の向くままに怒鳴り散らしたり、自分を甘やかしたいときもある。だからといってほんとにやったら今まで我慢してきた分が台無しだ。だからちょっと代行してもらう。そんなつもりで読んでほしい小説だ。
(想定媒体:CIRCUS)


#8『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 このおっさん、俺の親父と同じだなあ。
 どういう育ち方をすればこんなクズ男ができあがるんだろうか、というのが主人公に対しての第一印象。
 大正時代に活躍した小説家藤澤清造に傾倒しすぎて、藤澤清造の死後、寺から墓標を譲り受けたり、ゆかりのある人たちを集めて「清造忌」を開いたりするところはコレクターとして共感するんだよ。俺もアニメ「プリキュア」シリーズの大ファンだからさー、キャラクター原案をもらったり、スタッフの人たちを集めて飲み会を開いたりするところを想像しちゃうんだよね。『どうで死ぬ身の一踊り』は同じ主人公による作品が3つ収録されている。1話にあたる「墓前生活」では藤澤清造のファンとして、必死になっている姿に好感も持てたし、羨ましいぞコンチクショーって思っていた。しかし次の「どうで死ぬ身の一踊り」に入ったとたんに評価がガクっとボッシュート。
 自分の女(名前もでてこない!)に殴るわ蹴るわの大暴行祭り。女に注意されてふてくされ(チキンライスにチキンが入ってないというアホすぎる捨て台詞付き)、〈豚みたいな食べっぷりね〉ということばに腹を立て、カレーを鍋ごと流しにぶちまける始末。最後には必ず平手打ちと蹴りが入る、まるでテンプレのような一連の流れ。「どうで死ぬ身の一踊り」は有名な作品だと聞いたので、感想を書いているサイトをいくつか閲覧したり、何人かに話を聴いた。なになに?「暴力に嫌悪感は覚えるけど、どこかデフォルメのようで、ある意味笑いのポイントでもある」!?
 ええー! 殴ってんだよ? 蹴ってるんだよ? 笑えねえよー!
 多分、俺の親父とまったく同じことをしているから、人ごととして読めないんだろうなあ。いまはそうでもないんだけど、俺の小さいころ、「親父は母親に暴力を振るう人」というイメージでしかなかった。小一のころ(1993年)、酔っ払って深夜に帰宅した親父は、寝ている俺と母親を叩き起こして、食え! とおみやげの寿司を目の前に出してきた。いきなり起こされて食えるわけもない、と告げたら、さっきまでの上機嫌から一変。当時3階だったアパートの窓から寿司を全部放り出し、じゃあ食うな! と激怒し、母親をひっぱたく。ささいな、食べ物のことで切れる姿がまるっきりいっしょだよー。小さかった俺は母親を殴る親父を止められずに震えることしかできなかった。「どうで死ぬ身の一踊り」を読んでいると、あのころの記憶が鮮明によみがえってしまう。主人公の賢太(と思わしき男)が女を殴っていた部屋の隅っこには、俺もいる。親父の暴力を止められないように、俺も賢太の暴力を止めることはできない。
 暴力描写が出てくるたびに「もういいだろ……」と本を閉じようとすら思った。でもなぜかな、読んでしまう。賢太はクズでダメ人間で、関わりたくもない男だ。ふとした瞬間、親父の持っていた暴力性が、俺にも受け継がれているのかもしれない恐怖といっしょに襲ってくる。もう思い出しくないんだ。やめてくれよ。
 (想定媒体「ひよこクラブ」)


#9 『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 読書好きの方なら西村賢太、と聞けばその姿を思い出してしまうだろう。それほど彼の登場は強烈だった。
 それと同じく、作品自体も「強烈な私小説」と。
 では何が強烈なのか?
 私小説ということは「彼自身」という意味に受け取ると、私たちは彼の文章を読むことによって同じ光景を見ていることになる。目にそして脳に焼き付けているわけだ。
 これはとても有害である。その物語が悲惨であるほど辛い想いをしなければならないし、素晴らしければ素晴らしい程、現実との自分の生活とのギャップに居たたまれなくなるからだ。
 ならなぜ彼はそんな文章を私たちに読ませるのか?
 私小説とは私自身という意味。
 ならばそれを読む私たち読者と彼との間に成立する関係が共有である。
 冒頭での、著者が我々読者の前に初めて登場した際の風貌は明らかに小説家をイメージする所ではない。
 しかもその舞台は日本でも有数の栄えある場である、芥川賞の受賞式だ。
 後日インタビューで芥川賞の受賞の連絡をいつ聞いたか?の問いに
「ソープに行こうとしていた時に聞いた。行く前でよかった」
 と言って退けるほど他者への思いが強いのだ。
 上記を読んで、なんたるふしだらな発言だ、と思う人もいるかもしれないが、実際に彼の作品を読めばわかるが、彼の性描写は非常にあっさりしている。
 細かい描写がない。
 しかし自慰行為は「汚れた」と表現するのだ。
 彼自身には性衝動を脅かすほどの衝動が他に用意されていたのだ。
 それは師と仰ぐ亡くなった作家、藤澤 清造への想い。
 というより、敬愛する藤澤 清造の為に何かしなければ、という自己への責務。
 物語の全編で彼は藤澤清造全集と伝記を刊行させ、追悼法要へ異様な執着をみせる。
 彼が歩む「私たち読者に見せたい部分」がこの道のりなのだろう。
 俺はこんなに苦労してるんだ!
 でもこんな人間的なところもあるんだ!
 と、書いておきながら、書いてある内容はわりとアウトだと思う。
 私ならこんな男と付き合わない、とか私ならこうするのに、とかやたら「私なら」と枕につけて考えてしまうほどこの主人公はダメ男だ。
 この「私なら」と考えてしまう時点でもうすでに共有できている気がする。
 しかし彼の意とする共有は「俺の過酷の生活を見せたのだから、同じようにツラい思いを感じてくれ!」なんでしょうけど「その環境で感じたこと、アンタって最低」だとしてもいいのだろうか。
 それでも私と、いや、私たち読者と共有したいというのなら、それはもはや小説ではなく、手紙レベルだ。
 それほど生々しい生活の描写。
 私自身この「私小説」に首を突っ込む事によって感じた事は「この男はなんだ!自分の事ばかり!女も女だ!」
 これこそ、彼と本当の意味での共有ができた気がした。
 著者に突きつけても否定する余地なかろう。
 余談だが著者の名前には「賢い」という字が入っている。
 その賢さ、そして太さを我々読者も忘れなければ、笑えて、切ないバカ男の何日かが共有できるであろう。


#10『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

 題して『どうで死ぬ身の一踊り』である。「何の話?」とひく人も多いはず。しかし、見逃してはならない。ここには超弩級のモテ男が潜んでいるのだ。主人公の男子、以下モテる男の条件をすべて満たしているのである。すごくないか?
①ロマンティックである。
 藤澤清造という作家のファンである。マニアと言ってもいい。彼に関係するものであれば古本から原稿、手紙まで収集している。血縁でもないのに、彼の命日には法要まで開催している。もちろん経済的には無償。ボランティアである。いわゆる「何の得にもならないことを、情熱的に続けている30男」なのだ。これぞ、男のロマンである。
②エキセントリックである。
 ついさっきまで上機嫌だったのに、ちょっとしたことですぐに気分を害してしまう。「お腹がすいた。何か作ってくれよ」とおねだりしていたのに、ちょっと言葉遣いを注意されただけでいきなり、不機嫌になり部屋に引っ込んでしまうことも。移り気で次の行動がまったく読めない。気ままな猫のようなヒョウ系男子である。
③ピュアである。
 相手の言葉をストレートに受け止める純粋さを秘めている。その言葉にカッとなり、思わず手が出てしまいそうになることも多々あり。実際出てしまうこともあるのは、感情の赴くままに動くピュアさの表れである。
④独自の美学を持つ。
 藤澤清造のものであれば墓標でも部屋に飾る。自分の美学に合うからである。彼女の作るカレーの上に惣菜屋のカツが乗っているのは許せない。自分の美学に反するからである。
⑤繊細である。
 彼女に食事の仕方をからかわれ、傷ついてしまう繊細さを持っている。お腹がすいていただけなのに……。その残酷な言葉に傷ついて彼女を殴ってしまうのは、そう、ピュアだから。
⑥仕事に燃えている。
 藤澤清造の法要に人が集まらなくても、彼の作品をまとめる仕事が実現しなくても、くじけない。彼に関連する資料を収集しイベントを開催するために、彼の故郷である石川県と東京を往復して頑張っている。厳しい資金繰りという逆境など、ものともしない。
⑥愛する女は一人だけ、である。
 彼女が家を飛び出して実家に帰ってしまったら、迎えに行く。プライドなどかなぐり捨てて言葉を尽くして自分の愛と誠意を語り、戻ってくれるように口説き倒す。当たり前であるが、彼女の不在中に風俗店で性欲を満たすような、不誠実なことはしない。あくまでも彼女を想いながら、他の方法を試す。

 万人受けするかはともかく、これを読んで思わず「付き合いたい!」と思った女子もどこかにいるはず。人は付き合って幸せになれるかどうかは保証しないが、これだけそろえば立派なモテ男である。いい男だ。ちなみに著者の西村賢太氏は自分のことしか書かないという私小説家。ということは、氏もこの条件を満たす男だということ? それも絶対見逃せない。
(想定媒体 Sweetなど青文字系女性ファッション誌)

(その3に続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

(5/25)豊﨑由美×杉江松恋 書評講座「書評の愉悦出張版」応募原稿その1

 以下は5月25日(水)に開催される標記イベントに応募してくださった方の、書評原稿です。

課題作:
西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社文庫)※ただし表題作のみ。
J・P・マンシェット『愚者が出てくる、城寨が見える』(光文社古典新訳文庫)

文字数:
800~1200字(ただし文末に、どの媒体に向けて書いたか、想定紙誌名を入れる)

 この原稿を豊﨑氏と私が読み、0~5で評点をつけます。点数の高い作品のうちから、豊﨑賞・杉江賞が選ばれる予定です。サイトをご覧の方も、ぜひ書評を読んで、自分で採点してみてください。どれを高く評価したか、それはなぜかということをツイートするときは、ハッシュタグ #nbjp をつけてくださると、こちらで捕捉できます。ただし、他の方の評価を見て、豊﨑・杉江が自分の評価を変えることはありません。

 それではエントリーナンバー#1から、順番にどうぞ。

=====
#1『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット

 精神病院に入院していた主人公のジュリーは、とつぜん企業家アルトグに雇われ、彼の甥であるペテールの世話係になる。ペテールを連れて散歩に出たジュリーは、四人組のギャングに誘拐される。睡眠薬を飲まされ、首つりにされかけたところを命からがら逃げ出し、逃走劇が始まる。二人は迫り来る追っ手をかわしつつ、スーパーマーケットから丘の上の城まで一気に駆け抜けていく。
 銃撃戦や死、吐瀉物に彩られた道中は息つく暇もない。うねりながら展開していくシーンの連続は、まるでアクション映画を見ているようだ。下手なカメラマンならぶち壊しにするところでも、視点がしっかりついていく。脂肪分をそぎ落とし、極限までシェイプアップした文章が、めちゃくちゃなスピードに耐えている。この書き方でなければ、たった一行でパリから何十キロも遠くへ逃げることはできない。
 驚くべき点は、登場人物の感情が叙事文のまま書かれていることだ。どんな現象にもかならず、ページを埋められるだけの理由があると思い込みがちな私たちにとって、この文体は抜き身のナイフのように鋭い。ジュリーが精神を病んだ理由もなければ、アルトグに雇われた理由もない。登場人物のほとんどの行動について、理由は示されない。仕事を終えるまで胃痛が止まない殺し屋が好例だ。ためしに理由を追ってみよう。胃痛がするのはストレスからだ。人を殺すことにストレスを感じるのだとすれば、なぜ殺人がいやなのだろう。血が嫌いなのか、警察に捕まるからか、はたまた過去のトラウマか。いくらでも書けそうだが、そんな仕事は三流にまかせておけばいい、と言わんばかりに書かないのである。
 私たちは、あらゆる現象に理由を求めてしまう。恐慌に陥った誰かに接すると、助けを求める声から、怖がっている理由をくみ取ろうとする。しかし、理由を説明するのは、じつはとても難しいことなのだ。たとえば私たちが死を恐れるのはなぜか。こう問いかければ、きっと大抵のひとが困惑するはずだ。
 感情に理由はない。マンシェットはくだくだしい説明をすべてそぎ落とし、ありのままの二人の逃走を、剥き出しの危機を描写した。この小説は、どうしても死を意識できない私たちに与えられた、持ち運びできる紙の銃なのだ。
(BookJapan)


#2『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット

 犯人が重要ではない犯罪小説。1970~90年代に活躍したフランス人犯罪小説家の代表作である本書には、まともな登場人物が存在しない。つまり、誰がどのような罪を犯したところで納得できるし、大した驚きはないのである。そんなまともではない小説で描かれるのは、どんなトリックよりも、どんな犯人よりも意外な展開と謎である。
 〈トンプソンが殺すべき男はおかまだった〉。物語は意表を突く一文から始まる。なぜおかまなのか?戸惑う読み手の隙を突くかのように、胃痛持ちの殺し屋トンプソンは、心臓を細切りにする凶器でおかまをあっという間に葬り去り、場面は主人公ジュリーの入院する病院へと切り替わる。
 精神病院に入院中の若い女性ジュリーはある日、大金持ちの実業家アルトグの計らいによって病院を退院することになる。彼の経営する会社・アルトグ財団で働くことになったジュリーの役割は、アルトグの幼い甥で財団の御曹司ペテールの子守をすること。突然弟を襲撃するアルトグの兄フエンテスや、初対面から反抗的で情緒不安定なペテールなど、周囲は不安と謎だらけである。ジュリーは、縁も所縁もない自分を雇ったアルトグに不審を抱きつつも、退院初日を終える。ところがその翌日、ジュリーは何者かの依頼を受けた殺し屋トンプソン一味に、ペテールともども捕えられ誘拐されてしまう。
 不可解な物語は、ここから混迷の度合いを深める。善と悪のわかりやすい対立軸は、窮地を脱してペテールとともに逃走を図る、躁鬱気味な精神異常者ジュリーによって破壊される。車と金を奪われて惨殺された中年男。神の素晴らしさを説いていて散々に毒づかれた説教師。無関係な人々が、事件の被害者であるはずのジュリーから理不尽な目に遭わされ、誰が被害者で誰が加害者なのかもわからなくなる。
 精神が異常なのは、一人だけではない。ジュリーとペテールが逃げ込んだスーパーマーケット。店内で、ある者はジュリーによって逃走の邪魔だと殴りつけられ、ある者はジュリーを追うもう一人の精神異常者トンプソンによる銃撃のとばっちりで射殺される。いつしか物語は血を血で洗う抗争の中で、ただただ逃れたいというジュリーの狂気と、ただただ殺したいというトンプソンの狂気に支配され、無秩序状態となる。
 もはや誰が誘拐事件の首謀者であろうと、誰が正義の味方であろうと、ジュリーとトンプソンどちらかが死ぬまで続く戦いを止めることはできない。果てのない逃走劇を繰り広げる一行が向かう先には、アルトグのいる(とジュリーが思い込んでいる)別荘の城寨が待っている。アルトグが城寨を指して言う単語「フォリー」には<別荘>と<狂気>、2つの意味がある。狂気を宿して別荘の城寨へと向かうジュリーたちに、何が起こるのか?作者の描く謎とは、狂気の行方ただ一つである。
 (週刊文春)


#3『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太

日本語を整体するあたらしい私小説
 「何んのそのどうで死ぬ身の一踊り」。大正期の私小説作家・藤澤清造の句からタイトルを取った小説「どうで死ぬ身の一踊り」で西村賢太は世にあらわれた。藤澤清造の「没後弟子」を自称する主人公は作者を彷彿とさせる人物で、42歳で凍死した不遇の作家を世に知らしめようと、「藤澤清造全集」の自力刊行に向けて努力している。しかしその努力の中身はといえば、藤澤清造の原稿が掲載された雑誌類を古書店から買い漁るなどのほか、全集をよりコンプリートなものにすべく情熱を燃やしたあげくの借金の積み重ねであり、同棲相手の親にまでしてしまうから、当然、女との諍いも絶えず、DVのような所業にまで及んでしまう。
 師の月命日に墓参をしたり、「清造忌」の世話を焼いたりといった藤澤清造がらみの行動と、同棲中の女との関係、小説の大半を占めるのはこの二種類の場面だ。そしてこの小説がユニークでしぶといのは、喧嘩や暴力、後悔、懇願といった悲喜劇を通して、「私」が少しずつ変わっていくとか、まして成長するとか、精神の高みをチラッとでも垣間見せるような瞬間を徹底的に排除している点にある。そのための絶妙の道具立てがその後の西村賢太の小説にも必ず出てくる気安い食べ物。小説の中の女と男は、自分の服にも飛沫がかかるほどの怒りをもってぶちまけられたカツカレーの残骸とともに、ただそこにいることしかできないのである。

【三十面を下げながら、どうかすると日に二度も三度も自分を汚すことに没頭したが、それがセフレなりがいる上での普通のセンズリ
ならまだしも、私の場合、どこまでもそれらが得られぬがゆえの、切実なセンズリであることが何んとも無念であった。(中略)いっ
そ藤澤清造の全集も伝記も放り出し、父親と同様の、では積年の憂さは晴れはしない、きっとそれ以上の罪を重ねて、挙句ひと思いに
果敢なくなってしまいたかった。】

近代小説の作家たちから受け継いだと思われる古風な言いまわしと「普通のセンズリ」「切実なセンズリ」が同居する面白さ。白眉は「セフレ」で(断じて「セックスフレンド」ではダメ)この死語が、「果敢なくなって」といった表現と同じ流れに乗っていることの豊かさも、見ておきたいと思う。西村賢太の文章は、日本語の解体でも実験でも保守でもなく、部品の点検と入れ替え、再構築をめざす、ポキポキと小気味のいい整体のようだ。

北区の滝野川や大田区の萩中といった東京の地名がさりげなく挿入され、そこに込められた作者の愛情と悲しみも仄かに伝わってくる。
西村賢太の小説には東京の東(生誕地の江戸川区)と南(萩中や羽田)、北(滝野川や王子)は出てくるものの、西だけはまったく舞台として欠落している。東京の西はだいたい地方出身者が多く住むところであり、このあたり、西村賢太の「東京」についても、いずれ考えてみたい。

7月、新潮文庫から藤澤清造の『根津権現裏』が刊行予定。
(想定媒体:東京新聞)


#4『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

"地獄の季節"でいいじゃないの。
 「季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える」、小説のタイトルはアルチュール・ランボー『地獄の季節』(中原中也訳)の詩句をもじったものなのだそう。
 有名な一節といわれても、知らないひとはどうよ。「愚者」が「お城」を眺める牧歌的な光景がうかんじゃった(泣)。
 牧歌的? トンデモナイ。"地獄の季節"のがわかりやすい、"地獄"なかんじの小説。手負いの誘拐犯一味と、彼らを撃って逃げだした精神疾患の女の、死に物狂いの逃走劇。
 精神病院から退院したてのジュリーは("愚者が出てくる"は、そこに由来させている)、わずか六歳の財閥の御曹司を小脇にかかえ、オートマチックの銃を握り、逃げる、隠れる、ぶっ放す。
 ジュリーは〈背の高い痩せた娘で、頬がこけ…美しいのに、人をどきりとさせるところがあった。女装した男のようにもみえる〉キレイな女。だから男たちはすっと気がゆるむ。そこをすかさずズガンと倒す、クルマを盗む、六歳の御曹司も甘ったれれば張り手一発。"愚者"ことジュリーの迷いのなさ、キレてるぐあいがまことに「セ・シボン(すばらしい)」。
 逃走劇の白眉は、スーパーの大乱射騒動。誘拐犯に見つかったジュリーは、売り子に助けをもとめ騒ぎはじめる。ジュリーににえをきらし狙撃…しそこなう誘拐犯。スーパー中が錯乱状態に陥るなか、ジュリーは御曹司の手をひねりあげ泣くなと叱咤し、身をふせて逃げ、〈右腕が血まみれで、長い手袋をはめてるみたい〉になりつつ、発砲する犯人に向け燃料用アルコールや蒸留酒を火炎瓶がわりに投げつける。大火災。燃え盛る炎の阿鼻叫喚。そんな"地獄"が展開する。
 さて、そこで他生の縁。ランボー『地獄の季節』も読めば、アララ!
 『愚者が~』のジュリーは、誘拐犯がタイプで打った手紙に「うんざり、なにもかもいや」と自筆で書くよう促されるが、『地獄の季節』には「狂気の処女」(栗津則雄訳では「おろかな乙女」)が登場し、「私は駄目です。うんざりです」と嘆くくだりが。
 あるいは、『愚者が~』の冒頭。〈トンプソンが殺すべき男はおかまだった。ある実業家の息子に手をだした報いだ〉。忽然と"おかま"が銃殺される挿話がおかれ、〈女装した男のようにもみえる〉ジュリーも登場する。なぜに"おかま"のイメージが反復するか、いまいちわからなかったけど、そういえば『地獄の季節』。ランボーが同性愛関係にあったヴェルレーヌに狙撃される騒動の直後に書かれた。この文学的記憶をくすぐる仕掛けかも。
 そして「お城」。ジュリーは御曹司をつれて、別邸〈モールの塔〉に向かうのだが、高さ三メートルほどの円錐型の塔で、周囲が〈山岳地帯独特の牛小屋〉〈タイのパゴダ風寺院をハンマーで叩きつぶしたよう〉と描写されるけど、そもそも〈モールの塔〉って何? 。
 『地獄の季節』は、ギリシア・ローマの由緒よりケルト系「ゴール人」の末裔であると名乗りをあげる。「季節が流れる、城寨が見える」の数行後には「ゴオルの鶏が鳴くたびに、/「幸福」こそは万歳だ。」の詩句もある。
 はいはい。「モール」と「ゴール」。苦しいです。わかるひと教えてくらはい。私はフランス語も読めません。
 とにかく、マンシェットがタイトルにだけ『地獄の季節』を引用したと思えない。
 すごくわかりよいところでは、『地獄の季節』は一八七三年印刷。マンシェットの本作は一九七三年の「フランス推理小説大賞」を受賞。きっと賞の審査員のひとびとは、「お、百年だ~」って思ったんだろうね。
 そんなふうに、「推理(の余地がたくさんある)小説」です。


#5『愚者(あほ)が出てくる、城寨(おしろ)が見える』J・P・マンシェット(中条省平訳)

 黒塗りのリンカーン・コンチネンタルが、精神病院から女性患者ジュリーを運び出した。行く先は、障害者を好んで雇う篤志家の企業家、ミシェル・アルトグのパリの邸宅。ジュリーの仕事は、アルトグの甥で財団の御曹司ぺテール少年の世話係。
 その誘拐事件が起こったのはリュクサンブール公園。
 邸宅に着いた翌日、ジュリーとぺテールが青いルノーで誘拐された。逃げなければ。ぺテールをつれて、アルトグが写真でみせてくれた“フォリー”へ。写真で一度みたきりの白いお城に、たどりつかなくては(“フォリー”には「別荘」「狂気」、両方の意味がある)。
 作者のマンシェットは一九四二年うまれ。一九七二年発表の本作は「フランス推理小説大賞」を受賞。
 しかし、もとはシネアスト志望。二十代の頃はポルノ映画の脚本やヴィスコンティ『若者のすべて』のノヴェライゼーションを書いたという。シネフィルの筆致とみるべきか、描写が非常に視覚的。場面の移動、人物の登場ごとに、絵コンテのように風景や人物の輪郭が描かれる。たとえば公園で、誘拐犯と遭遇するシーン。
 〈ジュリーはびくりとして、組んだ脚をほどいた…若い男を高飛車に見返してやった。男は鼻筋が通り、青い目で、もじゃもじゃの茶色の髪、手に新聞の「ル・モンド」を持って微笑んでいた。〉
 そのまま映像になりそうな描写が、視覚的な想像をかきたてる。実際、マンシェットの作品は、のきなみ映画化されたという。
 でも、小説でしか楽しめまいと思うのは、小道具としての雑誌使い。
 「ル・モンド」を持った男が声をかけるジュリーは、買ったばかりの「ヴォーグ」を広げたところだ。退院したての精神疾患の女や、そして、これから誘拐をしようという男の妙にノーマルな内面が垣間見える。ほかにも「プレイボーイ」「週刊シャルリ」(マンガ誌)、人物の手に雑誌が配され、そのたび、物語世界とまったくべつの、うつつの生を喚起させる。
 これは映画では味わえまい。雑誌のタイトルなど、すっと流して見逃しそうだ。
 アクション、アクションで続くマンシェットの文体は、心理的な説明を排した「行動主義」で、ヘミングウェイからダシール・ハメットへと連なる系譜、といわれるが、でも小道具が、たとえば雑誌が“喋る”。心理描写がないから「タフで寡黙な男の内面」や「美学」を彷彿とするのではなく、物語に拘束しがたい、卑俗でとりとめのない人間、マスメディアの発達後の先進国の人間一般が浮かび上がる。
 ブレヒト的な異化の技法といおうか。マンシェットは五月革命を担った世代で、左翼的な政治活動に参加していた。七〇年代に成熟を増す後期資本主義、ブルジョア的な価値観や心理傾向の支配する消費社会への反発があったかもしれない。
 六八年を経て市民挙げての政治運動は下火になり、七〇年代に入ると過激な新左翼運動が勃興する。ジュリーが逃げる先の街頭に、忽然と、福音派の街頭説教師があらわれ、〈一九六九年一〇月七日、モントリオールで起こった出来事〉を訴える。調べてみれば、一九七〇年、モントリオールでは「オクトーバー・クライシス」とよばれる要人誘拐殺人と爆弾テロ事件多発があったようだ。一九七二年当時の読者なら、その記憶が喚起されたろう。
 また、スーパーに逃げ込んだジュリーに誘拐犯が発砲し、ジュリーが応戦して火炎瓶を投げつけ、買い物客が発砲や火災の巻き添えをくいながら逃げまどう場面がある。これは無差別爆弾テロを思わせる。
 マンシェット『殺しの挽歌』の解説文によると、フランスで展開した犯罪小説、ロマン・ノワールの主眼は、犯罪の謎解きではなく、犯罪を通して人間社会の“暗い(ノワール)”面を描くことだ。本作『愚者が~』はまさに、マスメディアが価値観をリードし、大量消費社会が花開き、その一方で新左翼運動に恐恐としている、当時のマンシェットの眼前にあった、いまはない四十年前の“暗がり”がすけてみえる。

その2に続く。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

(5/24)書評イベントに寄せて その3:「嫉妬」(了)

(承前)
 ここがもっとも大事なことかもしれない。

3 嫉妬という名の原動力
(前略)
「きわめて個人的でしかない落語(=小説)の個別体験」について語ろうとするとき、その不安定な立場を強固にできるのは、個人的な感情でしかない。
 それは嫉妬である。
(中略)
 たった一人で、何も使わずに行われている芸なので、嫉妬が芽生えやすい。一人で喋る(=書く)というところがポイントである。歌手も多くの場合は一人芸であるが、自分も歌がうまいとおもってないと、嫉妬を抱かない。抱けない。そこにはわかりやすいラインがある。話芸(=文芸)の場合、多くの人は話術(=筆力)で競ったこともなく、その細かい技術もわからず、ただ喋る(=書く)だけで多くの人を巻き込んでゆくというその不思議な現象を目の当たりにして、驚くばかりである。そこで「何かを抱えてる人」は取って代わりたいと無意識におもう。それが嫉妬だ。その嫉妬が落語(=小説)について語る原動力になる。
(中略)
 嫉妬は面倒な感情である。うまく外へ誘導しないと、その熱はねじ曲がってしまう。無自覚な嫉妬は、読んでいる人を苛立たせる。もし、落語(=小説)に関する文章を読んでいて、何かそぐわないと感じるのなら、書き手の熱が歪んでるからである。嫉妬が嫉妬として認識されていない。
(中略)
 あまり読んでいないのだが、過去に書かれた落語(=小説)評論のうち、すぐれたものは、感情から書き出していることを自覚して書かれているはずである。感情でしか書けないことをわかっていて、自分の感情と向かいあって書いている。自分の感情を排除することは諦めている、そういう、きわめて勝手な文章だけが、読むに堪えると思う。自分のない客観的な文章など、踏み潰された蟻ほどの値打ちもない。
(後略)

 小説の読者に「自身が書き手に対して嫉妬している」という認識を持っている人は、新人賞の落選常連でもない限りは少ないと思う。楽しむために読んでいるのであって、嫉妬のような負の感情を持つためではない、とか、作家に対しては尊崇の念しか持っていない、とかいろいろ反論が出そうな箇所だ。
 ここでいう嫉妬は、その地位に自分を置き換えてみたい、というかなり原初的な感情だ。小説ではなく、物語だともう少し話はわかりやすい。綴られた物語を追っていく作業の中で、我知らずその物語に同化してしまった経験のある読者は多いだろう。虚実の境が渾然となる感覚に酔ったとき、その人は物語の綴り手の側に一歩を踏み出しかけている。自身の物語として、その物語を簒奪し、再構成したいという欲求が芽生えているからだ。
 もっとも小説=物語ではなく、物語の存在しない小説はいくらでもある。読者を視点人物の位置に巻き取ろうとしない小説は、物語の存在を押しつけてこない。そういう小説は、もう少し抽象度の高い「表現」というもので読者の位置を侵食しようとしている。実はこのほうが「物語」よりも射程距離が長く、巻き取りの力も強い。目に見えるものを語り尽くそうという、野望がそこにはあるからだ。そうした「表現」の中に巻き取られた経験を思い出してもらいたい。そこには「嫉妬」はなかっただろうか。
 省略した箇所の中で、堀井は落語が身体に与える衝撃についても語っていて、実はそれも小説の比喩に置き換えることが可能なのだが、「小説を読むこと」「読書体験について語ること」の輪郭が曖昧になりそうなので、ここではあえて触れないことにする。
 以上3項について触れた。『落語論』にはこのあとも「観客論」が続くのだが、表現論に関する記述も多くなっていくので、以降は割愛する。「嫉妬」の項は次のように終わる。落語家はマジシャンのようなもので、実演中は観客の言葉を奪う魔法をかけている。終演と同時にその魔法を解いて、言葉を復活させてやるというのだ。
 この、実演中の言葉に対する不自由さが、自分が話者に戻ったときに、いろんな言葉を発せさせる要因になっている。(中略)一人で来て、一人で帰ると、喋れるようになった自分をうまく操れない。ブログが存在しない時代は、そこで何とか自分で解消するしかなかったが、ブログの時代になって、誰もが発信できるようになり、黙って帰っても、喋る空間ができてしまった。嫉妬だと気づこうが気づくまいが、ずっと書き続けないといけない。「取って代わりたい」とおもったかどうかが、大きな分かれ目となる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

(5/24)書評イベントに寄せて その2:「多様性と孤立」

(承前) 次に、なぜ小説の読書が個人的体験にすぎないか、ということについて。

2 落語(=小説)の多様性
(前略)
 知らずに個人の話になってしまうのは「落語(=小説)を好きになっていく道」が、すべての落語(=小説)ファンでまったく違っているからである。(中略)落語家(=小説家)は多様性に満ちている。落語家(=小説家)の数だけ、落語(=小説)を好きになっていく道がある。(中略)そもそも、まったく同じタイプの落語家(=小説家)というのは存在しない。
(中略)
 観客(=読者)も、どこでどうやってどの落語(=小説)を好きになったのか、落語(=小説)との出遭いは観客(=読者)の数だけある。(中略)他者とは交換できないルートでそれぞれ落語(=小説)にアプローチする。観客(=読者)の数だけ落語(=小説)観がある。(中略)最初に受けた影響から逃れられず、その入口から見えた風景でしか、落語(=小説)は語れない。
(中略)
 いくつもの大きな壁がてんでに立ちはだかっている地上で、区切られた空を見上げているようなものだ。その位置から、空について語れ、と言われたら、自分の立ち位置から見える範囲の空について語るしかない。人と共有できる部分もあれば、まったく拒絶する部分もある。
(後略)
 落語の全体像は一観客に把握することができない、ということが『落語論』では詳しく語られているのだが、ここではちょっと割愛した。落語家の個性が演じられる落語には反映しているという観点は、小説とは事情が異なるだろう。小説家の存在を意図的に無視して、作品それ自体を語ることが小説の場合は可能だからだ。そこのところは、あまり類似を意識しないほうがいいのかもしれない。しかし観客=読者の個人的事情については、落語も小説も一緒なのではないかと思う。読者は孤独な存在であるということは、読書について考えるときには絶対に必要な前提条件だ。
(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

(5/24)書評イベントに寄せて その1:「好き嫌い」

 以下は明日に開催を控えた豊﨑由美×杉江松恋「書評の愉悦出前講座(仮)」の存在を意識して書いた文章である。堀井憲一郎氏の著作を題材にしてあれこれ言っているので、氏及びそのファンの方には前もって謝罪しておきたい。ちなみにこの文章を読まなくても、明日のイベントを楽しんでいただくのには支障がない。もちろん、明日のイベントのことを知らなくても、この文章を読むことは可能である。

 堀井憲一郎『落語論』(講談社現代新書)を読んだとき、第三章の「観客論」は用語を置き換えればそのまま「小説読者論」になるのではないか、と思ったことがある。もしくは「インターネット書評論」として。この本は落語という芸能の根底に「原作」のようなものがあるという認識は間違いで、演者のパフォーマンスことがその本質だということを説いている。演者にとって観客とは自分のパフォーマンスをぶつける対象だから、「観客論」を考察する必要がでてきたわけだ。

1 好き嫌いからしか語れない
(前略)
 落語(=小説)は個人的体験でしかない。だから落語(=小説)は好き嫌いからしか語れない。
(中略)
 少なくとも、わたしはまず好き嫌いにとらわれてしまう。
 そこから何とかしようともがきはするが、最初に好悪がついてしまうのは、避けられない。おそらくみんなもそうだとおもう。だから、自分は、まず好き嫌いから入ってしまうのだということを自覚するしかない。(中略)あそのあと、できるかぎりの努力を続けるしかないのだ。
(中略)
 好き嫌いの地平を越えて、まったく平等に落語を見ることは(=小説を読むことは)、地上の存在にはほぼ不可能である。越えようとすると、好き嫌いを抱えたまま、上から視点の発言ばかりになる。神の視点だ。しかもおそろしくわがままな神の視点である。(後略)

 小説家にとっての「読者」は、落語家にとっての「観客」とは別物だろう(読者をまったく意識せずに小説を書く、というのはごく当たり前の行為だ)。だから、「観客論」を「小説読者論」に置き換えたときの「読者」の立場は、非常に肩身の狭いものである。相手(小説家)からは顧みられていないという前提なのだから。しかし、そういう一方通行の関係であるにもかかわらず、「観客論」を「小説読者論」へと変換してみる意味はある。
 以下、引用の中の(=○○)が私による置き換えである。著者の堀井氏がこういうことを言っているわけではないので、混同されないようにお願いします。
 あまり説明の必要はないだろう。小説を「上からの視点」で評価することがタブーであるとは、私はあまり思っていない。一回性に支配される落語のような芸能と違って、後に残る文章によって比較が可能なジャンルだからだ。しかし読者が好き嫌いの地平を越えることができないというのは、その通りだと思う。書き手が自身の好き嫌いを明らかにしない書評は、読者の心には届かない。これは自戒をこめてそう思う。
(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

(5/16)豊﨑由美さんと書評トークをやります

 5月18日は『サトリ』トークイベント、そして5月25日は『ニッポンの書評』を刊行された豊﨑由美さんとの書評トークと、なんだかイベント続きなのである。思えばトークにきたもんだ。

 その25日の告知Vはこちら

 どうぞよろしくお願いします。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

(5/16)青山ブックセンター六本木店で『サトリ』トークイベントやります。

 今週の18日(水)、東京の青山ブックセンター六本木店で、ドン・ウィンズロウ『サトリ』(早川書房)の刊行記念イベントやります。聞き役は私で、ゲストはもちろん、翻訳者の黒原敏行さん。黒原さんは非常に博識で、かつユーモアのセンスの素晴らしい方なので、おもしろい話が聞けることと思います。詳細は公式サイトにあります。ぜひ、お誘いあわせの上ご来場ください。

 黒原敏行、コーマック・マッカーシーを語る。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

(5/11)私のGWは博麗神社例大祭に行くためにあった

 ゴールデンウィーク前に行った池袋に手帳を置き忘れてきてしまい、先の予定が見えなくて困っている。今日がAXNミステリー「BOOK倶楽部」の収録日だというのもメールでスタッフの方に確認した次第。なにか忘れているかもしれないという不安に毎日苛まれている。あれはどうした、というご連絡はお早めに。よろしくお願いします。

 ここのところまた「エキレビ!」(exite reviewから改名する方向の模様)に寄稿を続けている。最近の自分のトピックとして最も大きかったのは、東方Projectオンリーイベント「第8回博麗神社例大祭」に参加したことだが、それも2本のレポートにまとめてみた。

 機会があればぜひご覧ください。

第8回博麗神社例大祭開催直前! 『東方三月精』で気分を高めろ

東方Projectオンリーイベント、博麗神社例大祭に初参加してきた

 9月11日の例大祭SPでは、もう少し知り合いを増やしてみたいものだと思った。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« April 2011 | Main | September 2011 »