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杉江松恋書評百人組手:その5藤岡陽子『手のひらの音符』(新潮社)

※書評百人組手とは:

 一作家につき一作品を採り上げるものとし、百作家百作品の書評を目指します。
 準備ができるまではこのブログに掲載しますが、現在進めている書評サイトbookjapanのリニューアルが終了次第、そちらに移行します。


 人は自分の過去の集積物として現在を生きている。藤岡陽子『手のひらの音符』は、人生のそうした側面に着目した小説だ。

 主人公の瀬尾水樹は45歳、デザイナーの職に就いている。ある日彼女は、勤めている会社が業績不振のため服飾業界から撤退することを告げられるのである。服を作ることは、人生のすべてと言ってもいい大切な仕事だった。それが突然中断されることになり、水樹は途方に暮れる。そこに掛かってきた電話がきっかけになり、彼女は自身の過去を振り返り始めるのである。水樹が置いてきた時間たちを、読者は彼女の視点で眺めることになる。

 描かれるのは、主に3つの時代である。
 主要な足場となるのは瀬尾水樹が45歳になった「現在」だ。最初のうちそれに寄り添っているのは彼女の「幼少期」で、瀬尾家と森嶋家の子供たちの関係を柱として物語が進められていく。瀬尾家は徹と水樹の二人兄妹、森嶋家は水樹と同い年の信也がいて、その2つ上の正浩、3歳下の悠人という三人兄弟だ。

 優秀で皆のまとめ役になる正浩、直情径行の信也、集団行動が苦手な悠人という三人の個性が、はっきりとした輪郭を伴って描き分けられているのが「幼少期」パートの美点だ。だからこそ読者は、彼らに寄り添ってその感情を共有することができるのである。

 瀬尾家も森嶋家も決して豊かではない。瀬尾家の父親は酒に溺れたり、外に女を作ったりするようなろくでなしであり(だから、少しだけ優しさを見せる場面が読者の心に残る)、森嶋家の父親も早世してしまう。大人の男たちがどれも頼りにならないのだ。残された女たち、子供たちは貧困と、そのために生じる問題とつきあって生きていかざるをえない。

 この小説の舞台になっているのは京都だが、読者が想像するような「あの」京都ではない。
「五山の送り火は浴衣を着て見にいくお祭りではなく、団地の五階に住む人の部屋から見る遠い光だった」と水樹は述懐する。「貧しさの中にいることは、真夏の車中に閉じ込められるのに似て」息苦しく、その状況が2つの家庭のひとびとを厳しく縛っている。それは特別なものではなく、1980年代後半にバブルと後に呼ばれることになる景気が到来する前にはごく普通に、どこにでも見られる暮らしのありようだった。
 高度経済成長の末期、豊かになった日本の恩恵を受けられなかった人の視点からこのパートは描かれている。

 もう1つのパートは「高校」である。水樹が中学1年生のときに同じクラスに転入してきた堂林憲吾は、高校3年生のときの同級生でもあった。物語の冒頭にあった電話は、憲吾がかけてきたものだったのだ。彼らの担任であった上田遠子教諭が重い病気にかかって死にかけていることを知り、水樹はひさしぶりに帰郷することを決める。それが消息のわからなくなっている信也を再び意識するきっかけにもなるのである。切れてしまった過去の糸を再びつなぎ合わせる試みが、そこから始まる。

 幼少期の幸せな世界をそのまま大人になるまで維持できる人は少ないはずだ。時間が人と環境を変えていく。水樹の世界も高校卒業を期に大きく変化した。彼女だけではなく、人の過去というものはそうした形でいくつものピースに細分されているのである。それをつなぎ合わせていったときに見える景色を、作者は物語の終わりに準備している。

 過去が現在を賦活するという小説は多く書かれている。しかし作者は、安易に過去を呼び込もうとしない。来た道を振り返ればいいという単純なことではないからだ。自分が落としてきたもの、忘れていたことを思い出す作業の大切さが本書には誠実に書かれている。そのことに私は好感を抱いた。

(お知らせ)
 2月23日(日)午前1時より、立川談四楼独演会がございます。なんと終電から始まって始発で終わる異例の落語会です。3時に終演した後は始発が動く時間まで懇親会もございます。どうぞご参加ください。
 詳細はこちら

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法月綸太郎二夜を終えて

 昨日は芳林堂書店・高田馬場店で法月綸太郎『ノックス・マシン』(角川書店)トーク・セッション&サイン会の夕べであった。ご来場いただいたみなさまに感謝。一昨日の評論対決のお客様も誠にありがとうございます。両夜の模様については、またなんらかの媒体でご紹介する機会もあるでしょう。
 特に『ノックス・マシン』収載の「引き立て役倶楽部の陰謀」の登場人物名鑑は未完成のままでお出ししてしまったので(時間がなかったのです)、完全版をぜひお目にかけたい。

 トーク・セッションを終えた後、法月さんに失礼して先に退出させていただき、ブックオフ高田馬場北店を覗いてみた。ここはブックオフの中でも異色の店舗で、他の店とは別の仕入れと値付けをしている棚があることで有名なのである。覗いたのはひさしぶりで心なしか独自色は薄まっているようであったが、それでも収穫があった。
 東都書房『贋』を読んで以来私の偏愛の対象となっている、金沢出身の作家・水芦光子の詩集が105円で出ていたのである。『九月派の歌』(北国新聞社)だ。うわっ、国会図書館の検索で存在だけは知っていたが見るのは初めてだ。ありがたやありがたや。水芦光子に執着している方を私は自分以外で知らないのだが、ここに書いておく。嬉しかったです。

 それでなんとなくはずみがついたのか、読んでも読んでも感心しないものばかり、という負のトンネルからはようやく抜け出したと思しい。しばらくは読書三昧でインプットに努める次第であります。

(お知らせ)
 2月23日(日)午前1時より、立川談四楼独演会がございます。なんと終電から始まって始発で終わる異例の落語会です。3時に終演した後は始発が動く時間まで懇親会もございます。どうぞご参加ください。
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本日、法月綸太郎さんとのミステリー評論対談です

 どうも読書の神様に見放されてしまったらしく、手に取る本、手に取る本がすべて今一つという罰を受けている杉江松恋です。こんにちは。これも私の黒い心ゆえでしょうか。

 既報のとおり本日は新宿BIRIBIRI酒場において、法月綸太郎さんをお招きしての評論対談を開催します。
 前売を購入されていない方でも「ブログ読んだ」の一言で前売価格で入場できるように手配しておきますので、今からでもひとつご検討ください。

詳しくはこちら

 というのも法月さんの『盤面の敵はどこへ行ったか』がたいへん素晴らしいからであります。この本の中に含まれている問題意識をひとつずつ取り上げるだけで、2時間という予定は終わってしまいそう。場合によっては中入りの休憩もすっ飛ばし、お客さんにもトイレをがまんしていただいて話を進める予定であります。
 いくつか話題にしたいことはあるのだけど、ここでちょっとだけ書いておきましょう。

・ミステリー・ジャンル内の作家はモダニズム文学の筆法を範とし、その轍を行くことをよしとしてきた。しかし、そういう行き方とは別を行った作家もいたのではないか? たとえばフランスの新聞小説(ロマン・フィユトン)の路線を踏襲するというような。

・「伝統芸能としてのハードボイルド様式は、もはやテーマパークの中でしか生き延びられないのではないか」(P58) この問は、拙著の第二部で触れたネオ・ハードボイルドの様式化という問題につながる。問われるべきは「様式」の強度なのか否か。

・古典的なパズラーの作法を現代的な小説に求められる人物描写、社会問題を扱うための視座の持ちようなどと同居させる道がどこかにあるのではないか。それは必ずしも羊頭狗肉なものになるとは限らないのではないか。

 などなどと。
 本書を読んで「語りの型」についての示唆を多く受けました。ものごとにはそれにふさわしい語り方がある。その語り方を導入することによって内容は変容する。そのことを逆手にとった作品、及び用いられた技巧についての言及は、実に痛快なものでありました。

 たいへんおもしろかったので、ぜひ同じおもしろさを多くの方と共有いたしたく。
 本日お待ちしております。


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どきどき中華

 拙宅の近所は古本屋不毛の地だと考えていたが、最近それを改めた。よく考えると、徒歩10分の圏内に、新古書店の中規模店1、おしゃれ系古本屋1、在庫で埋没して身動きがとれない古書店1、特殊分野の店1があるのは贅沢な環境である。徒歩20分と考えるとさらに2軒、30分だと10軒近く増える勘定である。道理でよく本を買うわけだ。

 遅めの昼食がてら出かけて新古書店をひさしぶりに覗いたが、欲しいような本はなかった。まあ、そうだろう。文房具屋で便箋と封筒を買い、これもしばらく入っていなかった中華屋に行く。
 カウンターだけの店だがラーメン専門ではなくちゃんと定食もやっているし、カツ丼なんかも出す店である。とびきり上手いということはないが、まだ血気盛んだったころに大盛りを頼んだらいわゆる「まんが日本昔ばなしのご飯」が出てきたので、私の中では偉い店だということになっている。焼きそばを頼んだら、小さいご飯をサービスでつけますが、と聞かれたので貰うことにする。ご飯といっしょにふりかけの瓶が出てくる。

 ここは若い男女がやっている店である。若いといっても30代くらいだろうか。私が行くと女性のほうが厨房にいて、あとから男性が戻ってきて引き継ぐというパターンが多い。たぶん出前に行っているのだろう。
 それはいいのだが、女性から男性に注文の内容を引き継ぐ際だとか、それを確認するときの言い方が、いつもどうもつっけんどんな気がする。主に女性のほうが「~はやってくれた?」「~って言ったじゃない」という感じの物言いで、何か夫に対して(たぶん夫婦だと思うのだが)不満でもあるのだろうか、といつもどきどきする。今日も私のご飯を出したか出さないかで少しとげとげしいやりとりがあった。どきどき。私のことで喧嘩しないでください。

 上海人が話していると他の地方の出身者には怒っているように聞える、というがそれに似たことなのかもしれない。ただ、この夫婦には男性が入り婿なのではないかと思わせる節があり(以前、女性の母親らしい人を店の中で見かけた)、もしかするとそれがゆえに彼の中には鬱屈が溜まっているのでは、と邪推したくなることがあるのである。今日も二人は子供のことで何か言い争っていた。いや、普通に議論をしていただけかもしれないが、焼きそばをずるずる食べながら聞いていたのでよくわからないのである。幸いその話題は白熱するようなものではなかったらしく、話題はすぐに他の方向に転じた。私はほっとしながら焼きそばを食べ終えたのである。ああ、どきどきした。

 そんなわけで夫婦円満を望む次第である。どうぞお幸せに。そして商売が繁盛しますように。
 しかし、考えてみると、厨房の中の夫婦というものは、あれくらい殺気立っていたほうがいいのかもしれない。なんといっても職場なのだし。客はちょっとどきどきするが、本格的な喧嘩に発展したところは見たことがないので、あれを心配するのもお節介だという気がする。
 逆に考えると、厨房の中で夫婦がべたべたし始めたらどうか、ということだ。そんな夫婦者の作る中華はいやではないか。

 もう、あなたったらあ。
 こいつぅ、かわいいなあ。

 とか言いながらいちゃいちゃしている二人のそばで食べる焼きそばは、きっとひどく甘ったるいものだろうと思う次第である。

1/29(水)に作家・法月倫太郎さんとの評論対談を公開で行います。
詳しくはこちら

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アリス・マンローから水道橋博士まで

 昨日から今日にかけての私。

 昨夜は新宿三丁目BIRIBIR酒場にて恒例の「君にも見えるガイブンの星(ガイブン酒場改め)」を開催した。作家特集は『ディア・ライフ』が刊行されたアリス・マンローで、翻訳者の小竹由美子さんがいらして、たいへん有意義なお話を聞かせてくださった。マンローについての理解が進み、また自分の頭の中も整理できて嬉しい限りである。いつものことだが、壇上の私がいちばん楽しんだと思う。
 それ以外に採り上げたのはティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』とトニ・モリスン『ホーム』である。すでに『帰ってきたヒトラー』以外の作品については書評を書いているが、ヴェルメシュについても近いうちにどこかでやりますね(1/30:やりました)。会場にマライ・メントライン氏がいらしていて、作品についての本国の評価を補足していただけた。感謝。

 『ディア・ライフ』エキレビ!書評

 『ホーム』書評百人組手

 今回のイベントは小竹さん目当てのお客さんがつめかけ、常にはないほどの盛況であった。おかげで控えめにするつもりが結構痛飲してしまい、午前様に。自宅には車で帰る。

 午前5時30分、自力で目覚ましをかけて起きるも、すぐに力尽きて二度寝。20分後にかかってきた電話で起床。しかし寝ていた家人をびっくりさせてしまった。すまぬ。

 電話はTBSラジオ「堀尾正明プラス」のMさんからであった。電話で生放送出演することになっていたのだ。お題は、21日に候補作が発表された本屋大賞の予想である。本命は森見登美彦の名を挙げた。森見は過去最高2位(『夜は短し歩けよ乙女』が佐藤多佳子『一瞬の風になれ』に僅差で惜敗)、そろそろ獲ってもらいたいと考えている書店員が多いのでは、という予想。対抗は芥川・直木賞残念組から岩城けい『さよなら、オレンジ』を選んだ。杉江さん個人の一押し作品は、と聞かれたので万城目学『とっぴんぱらりの風太郎』を。何かあげてくれよう。



『帰ってきたヒトラー』エキレビ!書評

 出番のあとは再び泥のように眠り、昼前に起きて妻と外出した。子供が受験生なので出願の手続きをしなければならないのだ。都内をあちこち歩き回る。

 ぎりぎりになって恵比寿ザ・ガーデンホールに。「水道橋博士のメルマ旬報Festival!」ということで、メルマガ執筆者が一堂に会したイベントなのである。私はその中の本などの話題について話すブロックに声をかけてもらっていた。原カント君からメールで企画書をもらい、いろいろ連絡を受けていたのだが、ここ数日アリス・マンローのことばかり考えていたので、ほとんど読んでいなかった。いざ登壇して、他の方がスライドも作って、けっこうきちんと準備されていたことにびっくりした。一人だけすみません。

 ただ、会場に立川談慶師匠が見えていたので、予定を急遽変更して立川流のことについて話していただいた。5分の持ち時間でミニインタビューの体である。事前にもっと質問を練っておくべきだったのだが、どうかご容赦いただきたい。とりあえず談慶師匠のご著書の話ができてよかった。

 一緒に登壇したのは、樋口毅宏、九龍ジョー、木村綾子、荒井カオル、テレビのスキマ、目崎敬三、碇本学の諸氏と、サプライズゲストとして堀江貴文氏。なんかホリエモンによく似た人がいるなー、と楽屋で思っていたらご本人だった。さらに碇本学氏の出番のときに全裸で股間に天狗の面、という格好で園子温監督が乱入、客席が大きくどよめいた。おかげで後ろに座っていた私は監督の生尻をばっちり拝み続けることに。眼福眼福。

 出番が終わってもまだイベントは続くのだが、立川談慶師匠と引き揚げる。駅までの道すがら四方山話。談慶師匠とは近日中におもしろいことをするのでご期待ください。

 そんなわけでいろいろあった土曜日だったが、ようやく落ち着いて本が読める場所に戻れた。これから読書時間です。そういえば今日は「このミステリーがすごい!」大賞の授賞式の日なのだが、フェスとかぶったこともあって出席が叶わなかった。あ、二次会から顔を出して、という話もあったような気もする。でも会場も教えてもらってないからいいや。受賞者の方にはここでお祝いを言わせてもらいます。どうぞご健筆を。

 というわけで明日はフラン・オブライエン『第三の警官』の読書会なのですよ!(http://d.hatena.ne.jp/honyakumystery/20140122/1390384007) 29日水曜日は法月綸太郎さんをお招きしての評論対談イベント(http://d.hatena.ne.jp/honyakumystery/20140124/1390523892)。ご来場、お待ちしております。

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一度も膝小僧を擦りむかせずに自転車の乗りかたを教える方法・その2

「乗れるようになるまでは絶対に転ばず、一度も膝小僧をすりむかせない自転車の教習法」の話が終わってなかった。

 同じことを実践されている方もいらっしゃると思うので、簡単に書く。

 自転車に乗り始めたころを考えて、どういうときに転んだかを思い出してみた。
 だいたいは失速したとき、それから速度を出しすぎて自分の手に負えなくなったときだった。
 このうち後者については、まず「自転車に乗れている」ことが前提で、そもそもまたがってペダルを漕いだことすらないときにはあまり心配の必要がない。用心すべきなのは前者だと考えた。

 つまり、加速がうまくいかなくてハンドルが路面に持っていかれると、自転車はひょろひょろし始めて転ぶ。
 ということは、速度が落ちないように保てばいいわけだ。
 しかし、慣れないうちはペダルの踏み込みがあだになる。十分に加速してないのに踏み込むと、どっちかに力がかかって重心が左右にぶれるのである。つまり転ぶ。
 だから最初は、一定の速度が出るまではペダルを踏ませなければいいのではないか。

 そう考えた。速度ありき、加速ありき、ということですね。
 じゃあ、どうしたらいいか。もちろん下り坂でもなければペダルを踏まない限り自転車は前に進まない。
 単独では。
 外から力を加えればいいのである。

 結論は「父親がブースターの役割を果たす」だった。

 平坦な場所で子供に自転車にまたがらせ、最初はペダルに触れないように足を上げさせておく。
 その上でハンドルと車体に手をかけ、私が走って自転車を前に進行させたのである。
 これは自転車の上にまっすぐ乗っているという感覚に慣れさせるためだけの練習だ。

 第二段階は、同じことを子供に発車をさせる形でやってみた。誰でも経験がある、けんけんスタートである。
 けんけんで足を離すのと、私が自転車をつかんで横から加速させるのを同時に始める。
 これに慣れた段階で、次に進んだ。

 次はペダルに足をかけさせるが、動くままにさせておいて踏み込むな、と教える。
 私が自転車を掴んで走ると、当然ペダルは動くので、足もその抵抗を感じることになる。それに慣れさせるのだ。

 最終段階は、同じことをやり、加速の結果自転車が自立して走れるような態勢になったら手を離す。
 そこで踏み込めればペダルを踏んでもいい、と教えるのである。
 ここで必要なのは、手を離したあとは決して自分は立ち止まらず、自転車と同じ速度で伴走することだ。
 ペダルを踏んでバランスを崩したり、ハンドルの自由が効かなくなったりすれば、子供の乗っている自転車は大きく揺らぐ。
 そのときは横から自転車を掴んで安定させるのである。子供には「絶対に倒れないという確信ができたときだけ、ペダルを踏み込め」と伝えた。

 ロケット発射のようなダッシュを繰り返すこと20回、次第に自転車は安定し、大きくぶれなくなった。
 どこかの瞬間で子供がうまくペダルを踏み込むことができ、加速に乗って走れるようになる。
 それで、ほとんどブースターのお役目は終了した。
 あとは、けんけんスタートで加速を自分でやらせてみて、危なくなったら横から手助けをするだけだった。

 わずかな所用時間で、練習は終了した。
 50メートルダッシュを30本ぐらい繰り返した形になったので非常に疲れたが、運動不足の解消にもなった。自分がかいたようなべそを子供にはかかせなかったと思えば、報われるというものである。

 親の仕事、ひとつおしまい。

(おしらせ)
 以下のイベント・読書会がございます。

1/24(金)、外国文学の楽しさをお伝えするトークイベントがあります。今回の特集は新ノーベル賞作家、アリス・マンローです。『ホーム』の紹介も行います。
詳しくはこちら

1/26(日)、フラン・オブライエン『第三の警官』を課題作とした読書会があります。
詳しくはこちら

1/29(水)に作家・法月倫太郎さんとの評論対談を公開で行います。
詳しくはこちら

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杉江松恋書評百人組手:その4トニ・モリスン『ホーム』(早川書房)

※書評百人組手とは:

 一作家につき一作品を採り上げるものとし、百作家百作品の書評を目指します。
 準備ができるまではこのブログに掲載しますが、現在進めている書評サイトbookjapanのリニューアルが終了次第、そちらに移行します。

 これはアフリカ系アメリカ人のフランク・マネーと、その妹シーの物語である。

 フランクが4歳のとき、マネー一家はテキサス州バンデラ・カウンティの住み家を追い出された。町外れに住んでいた15軒の住民が、24時間に出て行くように銃と暴力で脅され、服従したのである。唯一立ち退きを拒否したクロフォードという老人は撲殺された。

 マネー一家は着の身着のままで旅をし、ジョージア州ロータスという田舎町へとたどり着いた。そこにフランクの祖父に当たるセイレムが住んでいたのだ。フランクの母、アイダは旅の途中で宿を借りた教会の地下室で、女児を出産した。彼女は「三つの音節全部を注意深く発音する」イシドラという名前を子供につけた。フランクの妹、シーである。

 セイレムにはレノーアという三人目の妻がいた。彼女はフランクの一家を冷たくあしらい、特にシーを憎悪した。レノーアによればシーが「どぶ板の上で生まれ」たという事実が、彼女が「罪深い、価値のない人生」を送るであろうという何よりの証左なのだった。

 そんなレノーアに対し、フランクは身を挺して妹を守ろうとする。彼にとってロータスの町は憎悪の対象でしかなかった。やがてフランクは三人の友人たちとともに軍に入り、故郷を捨てる。後ろ盾を失った妹もまた、言い寄ってきた男に心を許し同じように家を出てしまう。

『ホーム』はノーベル賞作家トニ・モリスンが2012年に発表した、彼女の第10長篇にあたる作品である。邦訳書で200ページにも満たない短い作品だが、1960年代の南部アメリカを舞台にした内容には、この作家ならではの要素が濃縮され詰め込まれている。

 物語は、フランクが妹シーの危難を知るところから始まる。理由はわからないが、彼女は死の床に就いていた。何者かが手紙でそれを報せてくれたのである。一方のフランクもまた、人生の危機に瀕していた。朝鮮戦争の従軍経験が彼の心に傷を負わせた。そのために彼は問題を起こし、精神病院に軟禁されていたのである。なんとか脱出に成功したフランクは、シーの救出に向かう。

 小説は二筋の語りによって構成されている。一つはフランクとシーを主な視点人物とする三人称の叙述だ。フランクは他人を拒絶するような行為を繰り返す。恋人リリーとの生活を自ら破壊したのも、酒を飲んで譫妄状態に入ってしまったのも、心の傷のなせる業なのだ。アルコールの毒霧は一応晴れたが、それでも心の中には暗い炎がくすぶっている。それを発散させるためには暴力が必要だと、この叙述の中ではフランクは考えるのである。

 他方の叙述は、フランクの一人称の語りだ。この一人称のフランクは、三人称(作者)の認識を否定しようとする(「あなたは愛について、あまりよく知ってないと思う/あるいはぼくについても」)。自身を「傷を負った帰還兵」というステロタイプに落とし込もうとする語りを、フランクは拒絶するのである。外から心の中を覗きこむ行為は、それがどんなに慎重なものであっても、常に不完全である。ゆえに心の中にある傷を癒そうとするならば、内部から何かが発露するのを待たなければならない。フランクの否定の言には、そうした考えが反映されていると私は見た。

 やがて兄と妹は出会うことになる。兄に庇護されるだけの存在だったシーが口にした一言、その妹に出会ったことでフランクが至ったある境地、それらをすべて包括する言葉が題名にある『ホーム』なのだ。誰もがホームを見出しうる。かくあれ、との作者の祈りを感じた。

(おしらせ)
 以下のイベント・読書会がございます。

1/24(金)、外国文学の楽しさをお伝えするトークイベントがあります。今回の特集は新ノーベル賞作家、アリス・マンローです。『ホーム』の紹介も行います。
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1/26(日)、フラン・オブライエン『第三の警官』を課題作とした読書会があります。
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一度も膝小僧を擦りむかせずに自転車の乗りかたを教える方法・その1

 アメリカの父親が子供に教えることは、火の熾し方と釣りと、えーともう一つなんだっけ。たしかキャッチボールだったような気がするのだけど、銃の扱いだったかもしれない。まあ、いいです、どっちでも。どちらにせよ、釣りとキャッチボールと銃の扱いは、私は子供に教えられなかった。火の熾し方は、私が教えたわけじゃないけど、一緒にキャンプに行ったときにまあまあできるようになった。アメリカの父親的にはこれ、何点ぐらいですか? 30点?

 そういう技術はだめだったのだけど、違うことはいくつか教えることができた。
 自転車の乗り方も、その一つだ。

 これは自分の恥になるが、私は小学校4年生ぐらいまで自転車に乗れなかった。坂の多い団地に住んでいたので自転車に乗るのが怖かったというのもあるが、一番大きな要素は自分に運動関連の才能がまったくなかった、いや、そういう風に思い込んでいたということである。子供時代の私、けっこううすのろだったと思います。走るのは今でも苦手だし。

 だから自転車に乗ってもすぐに転んでしまうと思っていた。当時の担任の先生と級友に特訓されて、ようやく乗れるようになったのである。怖い怖いと思っていたが、小学校の校庭で訓練したら、ものの1時間で乗れるようになった。もっと早く訓練しておけばよかった、と思ったものである。

 私はそういうわけで小学校の高学年になる前に乗れるようになり、あとはぶいぶい走り回る自転車少年になった。三多摩では自転車に乗れないと、けっこう生きていくのが大変なのである。逆に妻は、交通量が多くて自転車乗りにはけっこう剣呑な環境で育ったためか、幼少期にはほとんど縁がなかったという。

 で、子供の話だ。
 そんなわけで、子供には自転車に乗れるようにはなっておいてほしいと思っていた。ただ、妻の育った環境と拙宅の周囲はどっこいどっこいで、子供が自転車を乗り回すのに理想的、とは言いがたいのである。それで自転車を買ってやるのが遅くなり、かなりの年齢になるまで子供は自転車に乗れなかった。

 これは責任重大である。子供に自転車を教えるのは自分の役目だとなんとなく思った。過去の思い出が何度も頭をよぎったものである。

 慣れない自転車で盛大に転び、膝をすりむいてべそをかいた日のこと。

 転ぶだけならともかく、どうしたはずみなのかチェーンまで外れてしまい、どうにもならなくなって泣きながら家まで押して帰ったこと。

 補助輪のついた自転車に乗っていてからかわれ、悔しくてその級友に石を投げたこと(当たらなかった)。

 自転車には哀しい思い出が数々ござる。親の務めは、同じ思いを子供にはさせないことであると私は考えた。
 そこで編み出したのが、乗れるようになるまでは絶対に転ばず、一度も膝小僧をすりむかせない教習法である。
 自転車は怖くないし、厭なものでもない。
 そう子供には思ってもらいたかった。
 
(この項つづく。なんでこんなことを書き始めたかというと、フラン・オブライエン『最後の警官』を読んでいたからです)

(おしらせ)
 以下のイベント・読書会がございます。

1/24(金)、外国文学の楽しさをお伝えするトークイベントがあります。今回の特集は新ノーベル賞作家、アリス・マンローです。
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1/26(日)、フラン・オブライエン『第三の警官』を課題作とした読書会があります。
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1/29(水)に作家・法月倫太郎さんとの評論対談を公開で行います。
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2.23(日) オールナイトで談四楼 終電から始発まで噺っぱなし

 2月23日の夜、というか早朝、睡眠をとられる以外にご用事のある方はいらっしゃるでしょうか。
 まあ、あまりいないと思いますが。

 縁あって、落語会のお手伝いをすることになりました。
 落語立川流の真打、立川談四楼師匠が「真の深夜寄席」に挑戦されます。

 立川談四楼オフィシャルサイト「だんしろう商店」


 普通の深夜寄席はどんなに遅くても終電前にはおしまいになり、お客を送り出すものですが、これはまったく逆で、終電が行ってしまうころあいを見計らって始まります。

 つまり、終電から始発まで、落語を聴きながらお籠もりをしようという素敵な試みなのです。
 内訳を申し上げますと、午前1時から3時までは談四楼師匠の独演会。そのあとは始発が動く時分まで打ち上げということになります。もちろん宴会に参加せずに帰っていただいても結構ですが。

 あまり例のないこの試み。
 どういうわけか私もお手伝いしております。
 真の大人だけが参加を許される(もちろん18禁です)落語会、どうぞお誘いあわせの上、いらっしゃってください。

 詳細・ご予約はこちら
(http://boutreview.shop-pro.jp/?pid=69186829)
 限定40席ですのでお早めに。

 なお、改めて申し上げる必要もないでしょうが、事前のご酒は控えめに。できればしらふでお越しください。
 せっかくの落語会を夢の国で聴いてしまったら、つまらないですから。
 その分、どうぞ打ち上げで楽しまれてください。

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1/29(水)に作家・法月倫太郎さんとの評論対談を公開で行います。
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中の人などいない

 散歩もかねて少し離れたJRの駅まで行き、ちょうど時分どきだったので適当な店で食事をした。

 それはいいのだが、料理の到着を待っている間に読んでいたのが今柊二氏の『定食バンザイ!』だったのがまずかったか、「お客さん、そういう本に関心があるんですか」「本で調べてからお店に行ったりしますか」と店長から食事の間ずっと探られていたのはちょっと参った(カウンターのみのお店だったのである)。
 もしかすると、そういう食関係のライターか何かだと思われたのかもしれない。ちがいます。そもそも私は食事中にお店の人から話しかけられると気が散って困るたちなので、おいしい料理だったのだが十分に楽しめなかった。なかなか足を向けにくくなってしまいそうだ。好きな味だったのに。
 店を出るときにコートを着たら、「おしゃれですねー」と褒められてしまった。おしゃれ! いまだかってそんなことを言われたことはないです。ちなみにそのときコートの下に着ていたのはパーカーと、コアチョコのTシャツである。

 こういうの

 そのあと近所の古本屋に行ったら、店長の知り合いらしい客がいて、『古本屋ツアー・イン・ジャパン』の中の人が最近あなたの店に来たらしいよ、という話をしていた。ちょうどそのブログを読んだばかりだったので、あ、と思ったのである。
 面が割れてしまうと、古本屋巡りもしにくくなるだろうと思う。ちょっとお気の毒だ。
 私は一時期地元の書店で本の取り置きを頼んでいたのだが、その店であまり人から後ろ指をさされそうにない、つまりは書評家でござい、と言いたげな本ばかり買うようになっていることに気づき、嫌になって止めてしまった。書店は何も悪くない。知名度もない癖に変に自意識過剰になった自分がよくないのである。

 今日もその本屋に行ったら、出版社の営業らしき人が来ていて、書店員と某作家の本が積んである平台でなにやらねんごろに話していた。思わず棚の陰に隠れてしまい、面が割れているわけでもあるまいし、と恥ずかしくなったことである。

 書いていてたまらなくなった。今度行ったらあのお店ではとんでもないエロ本とか買うことにする。


1/29(水)に作家・法月倫太郎さんとの評論対談を公開で行います。
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杉江松恋書評百人組手:その3深木章子『殺意の構図 探偵の依頼人』(光文社)

※書評百人組手とは:

 一作家につき一作品を採り上げるものとし、百作家百作品の書評を目指します。
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 深木章子は2010年に『鬼畜の家』(単行本は2011年に刊行)で第3回ばらのまち福山ミステリー新人賞を授けられた。同賞は、島田荘司が一人で選考委員を務めるものだ。深木は1947年生まれであり、還暦を過ぎてから本格的に執筆を始めた人がデビューを果たしたということで話題になった。
 以降、『衣更月家の一族』(2012年)、『螺旋の底』(2013年。以上すべて原書房)と1年に1作のペースで作品を発表している。2000年代以降にデビューした新人の中では、注目すべき1人である。その新作が、『殺意の構図 探偵の依頼人』(光文社)だ。

 深木は弁護士出身の作家である。本書はプロローグとエピローグに挟まれた3部構成になっており、第1章「事件の顛末」では弁護士・衣田征夫の視点からとある連続変死事件の全貌が綴られていく。

 衣田は義父を殺害し、その家に放火をしたとの容疑をかけられた峰岸諒一の弁護を担当することになる。峰岸と衣田は旧知の仲で、二人を結びつけたのは今村啓治という人物だった。今村は衣田の幼馴染であったが、強引な形で前妻と別れ、再婚をしたことが災いし、家庭崩壊の憂き目を見ていた。そしてある日、事故とも自殺ともつかない状況で轢死してしまっていたのである。今村と峰岸との間に血のつながりはないが、義理の叔父と甥の関係になる。今村の姪である朱実の夫だからである。

 峰岸諒一の容疑は検察側からすれば堅いものであった。ところが彼には第一審で無罪判決が出る。証拠不充分による無罪ではなく、完全に潔白で真犯人は他にいるという判決だ。
 なぜそのような冤罪が発生しえたのか、という疑問については衣田側からの叙述によって詳述される。ただし、わからないこともある。峰岸諒一が拘置所に収監されている間に、係累の1人が彼の別荘で不可解な状況下の死を遂げるからである。
 それ以外にも読者には理解できないことがいくつかある。たとえば小説の随所に顔を出す、今村啓治の遺児・啓太はどのような役割を果たしているのか。殺害された峰岸巌雄には、諒一の妻である朱実のほかに暮葉という娘があったが、彼女は収監された義兄にどのような感情を抱いているのか。

 衣田側からは見えない事柄については次の第2章「女たちの情景」で、反対尋問のような形で語られていく。第1章を問題編とすると、この第2章は仮説編ということができる。各登場人物の視点から、事件に関しての推測が行われるからだ。それらの答え合わせが行われるのが第3章「対決」なのである。

 深木の文章には昭和の臭いがする個所があり、私はそこに違和を感じた。たとえば衣田が自分の依頼人に不信感を抱く場面で「ピピッ!」と「警報音が鳴った気が」したりするのは、どうにも古めかしい(感嘆符を多用するのも安っぽく感じられる元だ)。第2章の女性のモノローグ部分ではさらにそういう面が目立ち、昭和のスキャンダル誌のようだ。
 しかし、そんな欠点など些細なもので本質ではない。第3章で開陳される推理は、すべての瑕を補って余りある見事なものだ。

 第3章を読むと、本書には無駄な登場人物が1人たりともいないことが解る。その人物配置の妙がある。題名の意味が判明するのもこの第3章だ。事件はそれを見る人の位置によって様相が変化する。つまりそれぞれに「殺意の構図」があるのだ。多重解決ものの一種といってもいい作品であり、1つの物証から探偵が真相を推理していく場面ではたまらないスリルを味わえた。
 やはり注目しなければならない作家なのである。


1/29(水)に作家・法月倫太郎さんとの評論対談を公開で行います。
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血圧の上がる話

 昨日は結局百人組手をアップできなかった。
 一応原稿はあるのだが、推敲をしようとして机に向かった瞬間、携帯電話のメッセージで近所のラーメン屋を紹介するニュースが届いていることに気付き、その中に知らない店名が混じっていたために検索を始めてしまったのである。ラーメンブログは本当に見ないほうがいい。きりがない。年始に二郎ラーメンファンの間ではよく知られた「康太ブログ」が更新停止を宣言して話題になっていたが、それに代わるブログとか本当に探さないほうがいい。たとえば、オリジナルTシャツブランド「悪意1000%」こむら代表の「ラーメンまみれ」とか見ないほうがいい。没頭して午後いっぱいそれを見て過ごしてしまうから。絶対見ないほうがいい。なに、亀有の中華そば・敦だと?

 ええと、百人組手の次の原稿は今日アップします。

 最近私は糖尿病内科の主治医に頼まれて、ある治療法のモニターを務めている。1ヶ月の間歩行計を持ち歩き、毎日血圧と血糖値、体重を測らなければならないのである。
 自分の健康のためでもあるのでそれはかまわないのだが、一つだけ困っていることがある。血圧計が使いにくいのだ。

 医師に渡された血圧計はよくあるタイプのもので、腕に帯を巻きつけて加圧し、計測する。しかしこの帯が、一人ではなかなか巻きにくいのである。

 右手を帯の上に置き、まず左手で一方の端を腕の上に載せる。そうしておいてもう一方の端を上に持ってきて、マジックテープで貼り付ける。これが簡単にできないのだ。上の側の帯を引っぱると、もう一方の端は別に固定されているわけではないのでずるずるとずれてしまう。二の腕で台の上に押し付けておいても無駄だ。おかげで毎回計測に時間がとられてしまい、いーっとなる。なんだか病院で計るよりも血圧が高いのは、いーっとなっているからではないかという気がする。血圧計のせいで血圧が高い。

 こうなるのを見越していたらしく、主治医は秘密兵器を一緒に貸してくれていた。ベランダにタオルケットを干すときなどに使う、大きな洗濯ばさみである。これで帯を腕に固定しておいて、その上からマジックテープを止めろ、ということらしい。

 しかし、帯を洗濯ばさみで止めているときには、当然マジックテープの雌側(か雄側かは知らないが)の上をそれが押えることになる。そうすると上からマジックテープの雄側(もしくは雌側)を貼ろうとしても、洗濯ばさみが邪魔でうまくくっつかないのである。マジックテープを半分だけ貼り、その間に洗濯ばさみを抜こうとすると、必ず帯がゆるんでしまう。

 もしかすると医師の説明を理解していなかったのかと思い、一度帯をゆるく貼り付けて、その上から腕を洗濯ばさみではさんでみた。すると、加圧の際に空気が帯の全体まで回らず、半分だけが膨らみ始めてものすごい勢いで腕がしめつけられた。子供のいじめに「雑巾」というのがあるが、あれぐらい痛かった。医師が洗濯ばさみを使ってどのようなプレイを考えていたのか今だによくわからない。あ、プレイって言っちゃった。

 そんなわけで結局、帯を適当な大きさで止め、それを外さないようにして毎回腕を突っ込んでいる。このやり方で問題はないのだろうか。心なしかいーっとなっていたときよりも上下の血圧が低くなったような気がするのだが、それが間違った測り方をしているためなのか、いーっとならなくなったためなのか、今のところよくわかっていないのである。

 しかしこれを外せばいーっとなることは必定。どなたか正しい血圧計の使い方を私に教えてください。

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親の志望動機とは

 昨日はセンター試験であったそうで、受験された方はおつかれさまでした。

 拙宅にも一人受験生がいる。高校受験なので、まさに今が追い込みの時期である。願書も書いている。

 いろいろな学校のものを取り寄せたのだが、その中に一つ、不思議な項目があるのを見つけた。
「志望動機」は本人が書くものである。うん、それは普通。しかしその下に「親の志望動機」があるのはなぜか。

 親御さんも一緒に受験をしてみてくださいよ、もちろん受験料はちょうだいしますが。

 という意味ではないだろう。
 つまり我が子に当校を受けさせた理由は何ですか、という問いだと思うのだが「子供が受けたいと言ったので」以外はどう書いたらいいのか。

 人生で大事なものは学歴ですし、貴校に行って、ついでにいい大学にも進んで立身出世して、将来は親の面倒をみてほしいからです。

 というようなことを書くバカ親はいないであろう。だいたいそれは21世紀に入る前に絶滅した人生設計である。

 よくわからないので妻と相談した結果、これはバカ発見器なのではないかという結論に落ち着いた。つまらないことで学校にクレームをつけてくる可能性がある保護者を排除して、学校運営を円滑にしようという意図である。
 もしそうだとしたら、親のせいで子供が気の毒なことになるという事態もありうるのではないか。

 A君とB君は入試点数が同着。しかし願書を見るとA君の親のほうがバカそうなことを書いているから、B君にしとこうか。

 あわわわわ。
 なんか責任重大だ。まじめに考えなければ。
 なんて書けばいいのだろうか。

 おたくの学校の全教室にエアコンをつけたいからです。

 とでも書いておけばいいのか。それはみのもんたか。


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杉江松恋書評百人組手:その2吉村昭『羆嵐』(新潮文庫)

※書評百人組手とは:

 一作家につき一作品を採り上げるものとし、百作家百作品の書評を目指します。
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 一九一五年、六人の男女が羆(ヒグマ)に殺害される大惨事が発生した。痛ましいことに、犠牲者には妊婦も含まれていたという。吉村昭はこれに題材を採り、一九七七年に長篇『羆嵐』を著した。取材によって判明した事実はあまりに衝撃的であった。
 小説にその事実の欠片が多く混入しすぎていることを気にした吉村は、初稿を一年間放置し、一から改稿する形で本作を完成させた。記録小説からの脱却を模索している時期だったのである。

 現場となったのは北海道北西部、手塩国苫前郡苫前村(現・苫前郡古丹別)の集落・六線沢だ。全住民が東北地方からの移民で、相次ぐ水害に追われるようにしてこの地にやってきた。故郷に比べても寒気は厳しく、生きていくのは楽ではなかったが、移民たちは必死になって根を下ろし、その土地を我が物にしようとしていた。入植から四年余が経過し、ようやくその暮らしになじんだころになってヒグマが襲来したのである。
 猛々しい獣が、生活を木っ端微塵に粉砕した。

 事件は十二月初旬に起きた。六線沢は渓流によって他の集落と隔てられている。冬季には木材を雪で固めた氷橋(すがばし)というものを作って行き来をする。男たちがその作業を行っている最中の十二月九日に惨劇は始まった。
 一頭のエゾヒグマが穴持たずとなって人里に降りて来た。穴持たずとは、体が大きすぎて冬眠の穴を見つけられなくなった熊のことである。獣は手始め に、一軒の人家を襲って九歳になる子供とその母親を殺害した。そして山に女の体を引きずり上げて貪り食った。
 事件の現場を発見した男たちは初め、陵辱を目的とする暴漢が家を襲い、女をさらったのだと考えた。戸外の痕跡が彼らに、それが熊のしわざであることを教えた。

 東北出身の彼らは、ヒグマの恐怖を十分には理解していなかった。銃を持って対峙して初めて容易には狩ることのできない猛獣であることに気付いたのである。ヒグマは人間に対して一切の容赦をしなかった。犠牲者の通夜の晩、獣は遺体の置かれた家を襲撃する。ヒグマにとってそれは悼むべき霊の入れ物ではなく、食いあさった餌の断片にすぎなかったのである。
 ヒトもまた他の生物と同じで捕食の対象となりうるという当然の事実をつきつけられ、六線沢のひとびとは恐慌を来たす。そして逃走が始まるのだ。

 この小説には2つの強い要素がある。
 1つは後半に登場する、ヒグマ撃ちの銀四郎だ。
 普段の彼は集落のひとびとから爪弾きにされる厄介者である。その男のみが巨獣に対抗しうる力を備えていた。言い換えるならば彼のみが、北海道の自然の恐ろしさと、その中で生き抜く厳しさを知っていたのである。
 銀四郎を通じて、読者は六線別住人たちの無知と驕りに気付かされる。人間の文明は自然に対抗できるほどに優れたものか、とは『三陸海岸大津波』(文春文庫)他の著作でも作者が絶えず読者に投げかけてきた問いである。

 もう一つの要素は、読者が絶えず意識させられるように計算されている苫前村の地図である。
 ヒグマに怯える住民たちは、潰走して他の集落に逃げ込む。しかし餌を追って獣が移動すれば被害は広がる一方なのである。一刻も早く対策を打つことが望まれ、そこに緊張が生じる。
 つまり熊が地図上を動くということがスリルを醸成する仕掛けなのだ。フィクションとしての本作の肝はここにある。

 吉村にとっての地図は欠くべからざる要素であった。
 たとえば『長英逃亡』(新潮文庫)では脱獄囚である高野長英がどのような道を辿って逃げたかが重要な問題として取り上げられている。どんな高邁な思想を持っていたとしても、人間は自分が踏みしめる地べたとは無縁で生きられない。吉村はそのみじめさを深く理解した作家であった。
 この件は自然の脅威を知ることと密接に関係している。ヒグマの暴虐を通じて、吉村は人間の卑小さを描こうとした。



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杉江松恋書評百人組手:その1山内マリコ『アズミ・ハルコは行方不明』(幻冬舎)

※書評百人組手とは:

 一作家につき一作品を採り上げるものとし、百作家百作品の書評を目指します。
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 2012年に私の胸をときめかせてくれた短篇集、『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎)の作者・山内マリコが第2作を発表した。『アズミ・ハルコは行方不明』(同)だ。
 ヤッター今度は長篇であるバンザイ。

 タイトルは映画「バニー・レークは行方不明」から採られている。あの映画みたいに少女が行方不明になるところから始まるのかって。いえ、そうではありません。
 安曇春子は失踪時二十八歳、買物に行くと言って出かけたまま帰らなかった。彼女に関する情報提供を呼びかけるポスターが、二人の青年にヒントを与えたのである。大学中退の富樫ユキオと元引きこもりの三橋学、彼らはドキュメンタリー「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」に触発され、にわかグラフィティーアーティストになる。ダサい落書きを自分たちの作品で上書きしようという魂胆だ。しかし残念なことに、彼らにオリジナルを生み出すほどの才能はなかった。
 そこでユキオが思いついたのが、街で見かけたポスターを使うアイデアだ。安曇春子の顔は写し取られてアズミ・ハルコになり、スプレー噴射の型紙になった。
 街の至るところに、さびしげな顔のアズミ・ハルコが刻印されていく。ユキオと学のユニット、《キルロイ》の最初(にして唯一)のヒット作である。

 以上、第一部『街はぼくらのもの』のあらすじを書いてみた。ただし、大事なパーツが抜け落ちている。大事な登場人物が一人いないのだ。ユキオと学の幼馴染、木梨愛菜だ。《キルロイ》のメンバーでこそないが、一緒に車に乗ってアズミ・ハルコの面影を焼きつけてまわった仲間なのに。
 ポイントはここにある。そう、《キルロイ》は男の子のユニット、「ぼくら」のものであって、「あたしたち」のものではなかったのだ。
 一緒にいるように見えるが一緒じゃない。男たちはいつも閉じていたがる。女を締め出したがる。そういうことをしたガール性なのである。それならあたしたちも考えがある、とガールズたちも結束する(だから本書はガールズ小説と呼ばれる。うそ)。

 実は冒頭では、この三人組が登場する前にプロローグとしてある事実が紹介されていた。彼らの暮らす街には「少女ギャング団」が存在するのだ。男を大勢で包囲して叩きのめす、理由は男だからという理由だけ。男どもがコソコソ内緒話をしている間に、おそるべき集団が結成されていたのである。
 三部構成の第二部、「世間知らずな女の子」は、本人の預かり知らぬところで《キルロイ》に肖像権を侵害されていた安曇春子が主役を務めるパートだ。
その彼女が少女ギャング団に遭遇する場面がある。獰猛な娘たちに共感を覚えた春子は、とっさに「あたしも連れてって」と呼びかける。しかし「女子高生じゃなきゃダメ」と断られてしまうのだ。なぜ「ダメ」なのだろうか。そこに小説の謎を解くヒントがある。

 山内のデビュー作『ここは退屈迎えに来て』は、眠りについたように刺激のない地方都市に暮らす、若い女性たちの群像を書いた作品だった。
 本書の舞台も、同じような眠たい街である。前作との違いは、人生においては一方の性がもう一方よりも、より割を食わされているという、少し進んだ現状分析があることだ。
『ここは退屈迎えに来て』には、ヒロインたちの思いも知らずに極楽トンボのような生き方をする椎名という登場人物が存在した。本書ではユキオと学という二者にそのキャラクターが分割され、さらに全体の構図がわかりやすくなっている。
《キルロイ》が「二人のもの」であって愛菜のものではないのは、それが男の子たちのごっこ遊びだからだ。女の子が割り込もうとしても椅子は準備されていない。ではどこに、と見回すところから小説は始まるのである。

 やがて我に返った女の子に、「ごっこ遊びなんかつまらない、だって本物じゃないもん」と言い切られて、男の子たち涙目。

1/29(水)に作家・法月倫太郎さんとの評論対談を公開で行います。
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1/29(水)法月綸太郎さんと公開で評論対談します。

 昨年刊行された『ノックス・マシン』(角川書店)が各種のランキングで上位に入り、話題になっています。

 同書の作者である法月綸太郎さんは、昨年末に評論集『盤面の敵はどこへ行ったか 法月綸太郎ミステリー塾疾風編』(講談社)上梓されました。優れたミステリー読みでもある法月さんの、評論家としての一面が発揮された一冊です。

 その法月さんと、今月29日にミステリーについての評論対談を行います。『盤面の敵はどこへ行ったか』について、また拙著『海外ミステリーマストリード100』について、忌憚なく意見を闘わせていく予定です。主に話題は海外ミステリーのことになるかとは思いますが、それほど詳しくない方がお聞きになっても楽しいものにしていきますので、どうぞご観覧になってください。

 私からは法月さんに、「法月さんならどういうマストリード100」を選ぶか」をお聞きしてみたいと思っています。拙著をお持ちの方、もしかすると読みたい本が絶望的に増えてしまうかもしれませんよ。

 なお会場では、拙著及び法月さんのご著書についてサインを受け付ける予定です。また、講談社にお願いし、法月さんの評論ご著書の当日販売もいたします。もちろん質問なども歓迎いたしますので、当日お申し出ください。

日時] 2014年1月29日(水) 開場・19:00 開始・19:30

[出演] 法月綸太郎(推理作家、評論家)、杉江松恋(ライター・書評家)

[会場] Live Wire Biri-Biri酒場 新宿
     東京都新宿区新宿5丁目11-23 八千代ビル2F (Googleマップ)
    ・都営新宿線「新宿3丁目」駅 C6~8出口から徒歩5分
    ・丸ノ内線・副都心線「新宿3丁目」駅 B2出口から徒歩8分
    ・JR線「新宿」駅 東口から徒歩12分

[料金] 1500円 (当日券500円up)

 詳細、ご予約はこちらまで。

(http://boutreview.shop-pro.jp/?pid=69187613)

 なお法月さんは翌30日に芳林堂書店高田馬場店において『ノックス・マシン』トークショー&サイン会に出演されます。そちらも併せてご参加ください。詳細はこちらの案内からどうぞ。(http://horindo.co.jp/pdf/20140130.pdf)

 法月さんを囲んでのミステリー三昧の二夜、とても楽しいことになりそうです。

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「闘うベストテン場外乱闘篇 ROUND2」国内篇の栄えある1位は『皆勤の徒』でした

「闘うベストテン場外乱闘篇 ROUND2」の結果発表続きです。イベントの内容や海外篇の結果はこちら

【国内】
1『皆勤の徒』酉島伝法(東京創元社)

2『図書館の魔女』高田大介(講談社)


3『工場』小山田浩子(新潮社)

4『ブラックライダー』東山彰良(新潮社)

5『know』野崎まど(ハヤカワ文庫JA)

6『金色機械』恒川光太郎(文藝春秋)

7『社員たち』北野勇作(河出書房新社)

8『おはなしして子ちゃん』藤野可織(講談社)

9『オーブランの少女』深緑野分(東京創元社)

10『幻夏』太田愛(角川書店)

 それ以外の候補作は以下のとおり。
『アリス殺し』小林泰三(東京創元社)
『七帝柔道記』増田俊也(角川書店)
『死神の浮力』伊坂幸太郎(文藝春秋)
『眠りの庭』千早茜(角川書店)
『ノックス・マシン』法月綸太郎(角川書店)
『丕緒の鳥』小野不由美(新潮文庫)
『星の民のクリスマス』古谷田奈月(新潮社)
『光秀の定理』垣根涼介(角川書店)
『黙示録』池上永一(角川書店)
『夜の底は柔らかな幻』恩田陸(文藝春秋)

 ぜひみなさんもベストテン作品をお読みになってみてください。

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「闘うベストテン場外乱闘篇 ROUND2」海外篇の栄えある1位は『フリーダム』でした

 昨13日、新宿ロフトプラスワンにて「闘うベストテン場外乱闘篇 ROUIND2」が開催されました。

 これは、国内外の小説を対象とし、エンターテインメントから純文学まですべての作品の中からベストテンを選ぶものです。本来はAXNミステリーの番組「BOOK倶楽部」内企画として行われているものですが、番外篇として2013年からロフトプラスワンにてイベント開催されています。
 司会は豊崎由美氏、パネラーとして石井千湖、大森望、香山二三郎の各氏と杉江が登壇し、討論の結果各10作を選出しました。投票ではなく討論で決めるベストテンは珍しいと思いますので、ぜひ次の機会にはみなさまもご観覧ください。

 結果は以下のとおりです。

【海外】
1『フリーダム』ジョナサン・フランゼン(早川書房)

2『バン、バン! はい死んだ』ミュリエル・スパーク(河出書房新社)

3『三秒間の死角』アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム(角川文庫)


4『HHhH』ローラン・ビネ(東京創元社)

5『言語都市』チャイナ・ミエヴィル(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

6『チャイルド・オブ・ゴッド』コーマック・マッカーシー(早川書房)

7『シスターズ・ブラザーズ』パトリック・デウィット(東京創元社)

8『暗殺者の鎮魂』マーク・グリーニー(ハヤカワ文庫NV)

9『火葬人』ラジスラフ・フクス(松籟社)

10『ブラインドサイト』ピーター・ワッツ(創元SF文庫)

その他の候補作は以下の諸作でした。
『11/22/63』スティーヴン・キング(文藝春秋)
『神は死んだ』ロン・カリー・ジュニア(白水社)
『遮断地区』ミネット・ウォルターズ(創元推理文庫)
『スケアクロウ』マイクル・コナリー(講談社文庫)
『ファイナル・ターゲット』トム・ウッド(ハヤカワ文庫NV)
『ポーカー・レッスン』ジェフリー・ディーヴァー(文春文庫)
『マリッジ・プロット』ジェニファー・ユージェニデス(早川書房)
『ミステリーガール』デヴィッド・ゴードン(ハヤカワ・ミステリ)
『夢幻諸島から』クリストファー・プリースト(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
『もうひとつの街』ミハル・アイヴァス(河出書房新社)

(国内篇に続く)

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カツカレーなんて好きじゃなかった

 今柊二『とことん! とんかつ道』を読み終えてとんかつ脳になっていたのか、今朝は起きた瞬間からおなかが好き、歩いて20分ほどのところにあるA店でカツカレーを食べてしまった。富士そばのカツ丼セットと迷った結果である。朝から何食ってんだ、というご批判もあろうが、これから脳を働かせる朝に重いものを食べる習慣なのです。

 結論としては失敗だった。なんだろう、カツカレーを食べるといつも直後に、いや、食べている最中から「やめておけばよかった」と後悔する。カツ+カレーだよ、幸せな食事なんだよ、と自分を鼓舞しても気持ちは落ちていくばかりなのだ。

 今回も非常に後悔してしまった。カツは揚げたてであり、おいしかったのに。
 よくよく考えてみた結果、やっと理由がわかった。

 キャベツが無かったからだ。

 とんかつを食べるとき、いつも山盛りの千切りキャベツが横にある。キャベツ大好き。キャベツが足りないと不幸な気持ちになるため、ご飯よりもむしろキャベツの配分を考えるほどだ。ご飯のお代わりができる店よりもキャベツのお代わりができる店のほうが好き。

 なのに、カツカレーにはキャベツが無いのである。
 カレーのルーは少なくなってもいい。ご飯の横にキャベツを置いてほしい。カツ一切れにつき一口分とはいわないので、せめて二切れで一口。衣にソースの染みたカツをわさっとキャベツの上に載せ、一緒に口に放り込むのときのあの至福を、二切れに一回でもいいから与えてください。
 それができるなら、カレールー半分でもいい。というか、むしろ無くてもいい。

 それって、カツカレーじゃなくて、単なるカツライスだけどな。

 そんなわけで私と同じとんかつ好きのご同輩、間もなく昼食時間になるが、あなたはとんでもない間違いを犯している。あなたが食べたいのはカツカレーではないのである。カツカレーにはあなたの望む至福のキャベツタイムはない。そこには脂っこいカツと白いご飯(あとカレー)を延々と口に運ぶだけの味気ない時間があるだけなのだ。
カツ、飯、カレー、カツ、飯、カレーの繰り返しに、どのような希望があろうか。

 カツカレーなんて好きじゃなかった。


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