杉江松恋書評百人組手:その1山内マリコ『アズミ・ハルコは行方不明』(幻冬舎)
※書評百人組手とは:
一作家につき一作品を採り上げるものとし、百作家百作品の書評を目指します。
準備ができるまではこのブログに掲載しますが、現在進めている書評サイトbookjapanのリニューアルが終了次第、そちらに移行します。
2012年に私の胸をときめかせてくれた短篇集、『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎)の作者・山内マリコが第2作を発表した。『アズミ・ハルコは行方不明』(同)だ。
ヤッター今度は長篇であるバンザイ。
タイトルは映画「バニー・レークは行方不明」から採られている。あの映画みたいに少女が行方不明になるところから始まるのかって。いえ、そうではありません。
安曇春子は失踪時二十八歳、買物に行くと言って出かけたまま帰らなかった。彼女に関する情報提供を呼びかけるポスターが、二人の青年にヒントを与えたのである。大学中退の富樫ユキオと元引きこもりの三橋学、彼らはドキュメンタリー「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」に触発され、にわかグラフィティーアーティストになる。ダサい落書きを自分たちの作品で上書きしようという魂胆だ。しかし残念なことに、彼らにオリジナルを生み出すほどの才能はなかった。
そこでユキオが思いついたのが、街で見かけたポスターを使うアイデアだ。安曇春子の顔は写し取られてアズミ・ハルコになり、スプレー噴射の型紙になった。
街の至るところに、さびしげな顔のアズミ・ハルコが刻印されていく。ユキオと学のユニット、《キルロイ》の最初(にして唯一)のヒット作である。
以上、第一部『街はぼくらのもの』のあらすじを書いてみた。ただし、大事なパーツが抜け落ちている。大事な登場人物が一人いないのだ。ユキオと学の幼馴染、木梨愛菜だ。《キルロイ》のメンバーでこそないが、一緒に車に乗ってアズミ・ハルコの面影を焼きつけてまわった仲間なのに。
ポイントはここにある。そう、《キルロイ》は男の子のユニット、「ぼくら」のものであって、「あたしたち」のものではなかったのだ。
一緒にいるように見えるが一緒じゃない。男たちはいつも閉じていたがる。女を締め出したがる。そういうことをしたガール性なのである。それならあたしたちも考えがある、とガールズたちも結束する(だから本書はガールズ小説と呼ばれる。うそ)。
実は冒頭では、この三人組が登場する前にプロローグとしてある事実が紹介されていた。彼らの暮らす街には「少女ギャング団」が存在するのだ。男を大勢で包囲して叩きのめす、理由は男だからという理由だけ。男どもがコソコソ内緒話をしている間に、おそるべき集団が結成されていたのである。
三部構成の第二部、「世間知らずな女の子」は、本人の預かり知らぬところで《キルロイ》に肖像権を侵害されていた安曇春子が主役を務めるパートだ。
その彼女が少女ギャング団に遭遇する場面がある。獰猛な娘たちに共感を覚えた春子は、とっさに「あたしも連れてって」と呼びかける。しかし「女子高生じゃなきゃダメ」と断られてしまうのだ。なぜ「ダメ」なのだろうか。そこに小説の謎を解くヒントがある。
山内のデビュー作『ここは退屈迎えに来て』は、眠りについたように刺激のない地方都市に暮らす、若い女性たちの群像を書いた作品だった。
本書の舞台も、同じような眠たい街である。前作との違いは、人生においては一方の性がもう一方よりも、より割を食わされているという、少し進んだ現状分析があることだ。
『ここは退屈迎えに来て』には、ヒロインたちの思いも知らずに極楽トンボのような生き方をする椎名という登場人物が存在した。本書ではユキオと学という二者にそのキャラクターが分割され、さらに全体の構図がわかりやすくなっている。
《キルロイ》が「二人のもの」であって愛菜のものではないのは、それが男の子たちのごっこ遊びだからだ。女の子が割り込もうとしても椅子は準備されていない。ではどこに、と見回すところから小説は始まるのである。
やがて我に返った女の子に、「ごっこ遊びなんかつまらない、だって本物じゃないもん」と言い切られて、男の子たち涙目。
1/29(水)に作家・法月倫太郎さんとの評論対談を公開で行います。
詳しくはこちら。
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