ブレット・イーストン・エリスという存在について
私が大学を卒業した1992年の12月、ブレット・イーストン・エリスの第3長篇『アメリカン・サイコ』が単行本で刊行されました。『アメリカン・サイコ』は1980年代のニューヨーク・ヤッピー的ライフスタイルの権化であるパトリックの物語です。実務はそっちのけで友人たちとのパワー・ランチ、パワー・ディナーにうつつを抜かし、いくつの有名レストランの常連で予約がとれるかということがステータスだと思っているような人物です。スーツはジョルジオ・アルマーニ、尊敬する人物は不動産王ドナルド・トランプ。その彼が実は異常なサディストであり、売春婦や浮浪者といった社会的弱者を惨殺しては性的満足を得ているのだということがだんだんわかってきます。話の後半ではその残虐描写に磨きがかかり、人体破壊のバリーエションもここに極まれり、といった飽きれ返ったことになってしまうのでした。
当然同作は批判を受け、単なる文学上のポルノグラフィに過ぎないと言われたこともあります。当時はトマス・ハリス『羊たちの沈黙』(新潮文庫)によって火がつけられた観のあるサイコ・スリラー・ブームの真っ只中でしたが、『アメリカン・サイコ』はさすがに「やりすぎ」なのではないか、という意見があったことも記憶しています。「サイコ・スリラー」とは人間の「心の中の闇」をとらえるもの。だとしてもここまで人体損壊を描く必要はあったのだろうか。批判者はそのように考えたのではないかと私は推測します。
しかし、そうした見方は、ある危険な紋切型への近道なのではないか。ブームから20年が過ぎた今、そんなことを思います。人間の中にはたしかに見えない領域がある。それを掘り下げることで何かに到達できると、「心の中の闇」を唱えた人は考えたのでしょう。しかし、だとしたらどこまで穴は掘り下げればいいのでしょうか。発掘作業はいつか終わりを迎えることがあるのでしょうか。
「サイコ・スリラー」を評するときにもう一つ用いられる言葉に「ごく普通の人々の中に」というものがあります。ごく普通の、「われわれ」と同じ顔をした人間の中に危険な獣が潜んでいる。これは古くは1950年代から繰り返し使われてきた、ミステリーの重要なアプローチでもあります。殺人者は特別な顔をしているのではない。ごく平凡な人間の顔をしているだろう。この予測はおそらく正解でしょう。「特別な顔」をした人間など存在しないからです。しかし正解であるだけに、「人々の間に紛れている」という事実だけを大きく採り上げすぎても、見えなくなるものはあるのではないかと私は感じています。
『アメリカン・サイコ』で重要な意味を持つのは1980年代のポップスでした。ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、ホイットニー・ヒューストン、ジェネシス。そうしたポップ・スターたちについて、パトリックは殺人の衝動と同等の重みをもって語ろうとします。あるいはソニー、アイワ、サンスイといった、当時のエレクロニクスの最先端機器についても(まだ携帯電話やインターネットの時代ではありません)。そうした氾濫する消費財に耽溺するのと、殺人の罪を犯して回るのは、彼にとってほぼ同価値なのです。そうした具合に他人の死を消費すること、しかしそのために逆に、自身の生についても何かと代替可能なものという受け止められ方しかできなくなっているということ、この二つがパトリックという主人公の大きな特徴です。そうした形で自身の中にある衝動を開放する人物を『アメリカン・サイコ』という小説は描いているのです。ここに「サイコ・スリラー」の作品群が到達できなかった境地を描くヒントが隠されているように思います。
本日、恒例の「君にも見えるガイブンの星」では、このブレット・イーストン・エリスの新刊『帝国のベッドルーム』を大きくとりあげ、作家についての考察を行う予定です。純文学ではなくミステリー、ノワールなどに関心をお持ちの方も、ぜひお運びになってみてください。
その他にはトム・マッカーシー『もう一度』、オルガ・トカルチュク『逃亡派』なども俎上にして語り尽くす予定です。
詳細はこちら。
[日時] 2014年2月28日(金) 開場・19:00 開始・19:30
[会場] Live Wire Biri-Biri酒場 新宿
東京都新宿区新宿5丁目11-23 八千代ビル2F (Googleマップ)
・都営新宿線「新宿3丁目」駅 C6~8出口から徒歩5分
・丸ノ内線・副都心線「新宿3丁目」駅 B2出口から徒歩8分
・JR線「新宿」駅 東口から徒歩12分
[料金] 1000円 (当日券200円up)
※領収書をご希望の方は、オプションの「領収書」の項目を「発行する」に変更してお申し込みください。当日会場で発行いたします。