珍しくフランス週間「読書の秋2015」・その1 セリ・ノワール対談
数ヶ月前にEU各国の文化部や広報部の担当者が集まる会合に招かれ、日本の海外ミステリー翻訳史について簡単な講演をしてきた。ミステリーを通じての国際交流が少しでも深まれば、という考えである。
それからしばらくして、フランス大使館文化部のご担当者から、「秋にピエール・ルメートルが来日するので、日本作家をゲストでお呼びするのにアドバイスをしてほしい」という旨の連絡メールを頂戴した。ほとんど何もしていないのだが、面識のある法月綸太郎さんとの交渉の仲介だけはやらせてもらい、10月31日に東京で藤田宜永さん、11月2日に名古屋で中村文則さん、4日に京都で法月さん、という対談の組み合わせが決まった。
並行して連絡があり、「セリ・ノワール叢書の編集人と友人の作家が来日するので、その対談の司会をしてくれないか」という話があった。もちろんこれも喜んで引き受けた。喜んで引き受けすぎて、後から「あのー。言語が不如意なのですが、同時通訳は入れていただけるのでしょうか」と間抜けなメールを送ってしまったほどだった。
セリ・ノワール叢書は1945年に刊行された、現時点では世界最古のミステリー叢書である。初代マルセル・デュアメル、二代ロベルト・スウラを経て、三代目には作家のパトリック・レナルが着任した。そのアシスタントを務めていたオウレアン・マッソンが、レナルの離脱を機に四代目編集長の座に就いたのが2005年のことである。以来10年間、マッソンは、セリ・ノワールを率いるボスとして辣腕を振るい続けている。日本には紹介されていないが、重厚長大な作風で知られるDOAなどに執筆の舞台を与え、カリル・フェレというベストセラー作家も育てた。映画「ケープタウン」の原作「Zulu]の著者である。
トークイベントのもう一人のゲストであるセバスチャン・レゼーはマッソンの友人だ。才能を見込んだマッソンは、レゼーが自作を書き上げるまでの生活手段としてガリマール社の翻訳部に籍を置かせ、英語からフランス語への翻訳紹介を担当させた。レゼーはアジアを放浪した後で京都に行きつき、そこに今も住んでいる。彼の愛読書は『葉隠』で、2008年にはフランス語への翻訳も担当した。左腕には「葉隠」の文字のタトゥーも入っている。レゼーが2015年5月にセリ・ノワール叢書の一冊として発表したデビュー作L'alignement des équinoxesは、『五輪書』を読んで宮本武蔵に私淑した女性が、パリで純日本風の生活をしながら精神修養を収めるという話らしい。主人公のカレンは、日本刀で闘うのだ。
イベントは最初、11月4日開催とされていた。しかし、無理を言って11月6日に変えてもらった。4日は京都に、法月×ルメートル対談を聴きにいくつもりだったからだ。無理は聞き入れられ、日程は6日に決まった。
そこからマッソン、レゼーとのメールによる打ち合わせが始まったのだが、困った事態が出来した。パンクスを標榜するマッソンが「セッションのように、ぶっつけ本番で起きるものを大事にしたい」と言い出して、細かい段取りを事前に決めることを拒んできたのだ。そう言われれば従うしかない。とりあえず私からは「こういう作家について話をしたい」とのみ伝え、当日を待った。
11月6日、後述するが前日まで京都にいた私は疲労の極致といってもいい状態で(無用の運動をしてしまったからで、自業自得なのだが)、そのため逆に肩の力が抜けた状態になっていた。とりあえずセリ・ノワール叢書の全リストと、J・P・シュヴェイアウゼール『ロマン・ノワール』(平岡敦訳/白水社文庫クセジュ)などを参照にした年表だけを手元資料として持参した。イベント時には出さなかったが、実は言及できたらしたかったフランス・ミステリーの訳書なども用意していたのである。しかしマッソンが「セリ・ノワールの歴史についてはあなたのほうが詳しい。私が知っているのは今自分が携わっている本や作家のことだけだ」と冒頭に言ったので、これらの資料はほとんど使わずに終わった。
そんなわけで結構不安材料を抱えていたトークイベントだったのだが、実際には大過なく終わることができた。意外だったのは客層で、日本人よりもフランス人のほうが多かったのではないだろうか。彼らにとってはガリマール社のセリ・ノワール叢書は身近なものだろうから、関心を持って聴きに来てくれたのである。それに比べ、日本人観客にはそれほど馴染みのない題材の話だったかもしれない。来場いただいたのは本当に好奇心旺盛な方ばかりなのだろう。その知的関心の広さと高さには驚嘆するばかりで、また感謝申し上げる。
トークの内容を議事録にまとめるという話は聞いていないので、もしかすると来場者の記憶に留まるのみの催しになるかもしれない。その意味でも貴重な90分のセッションだった。
以下、印象に残ったトピックを羅列しておく。
・マッソンの編集姿勢は、職業的書き手、ルーティンワークで小説を生み出せる作家よりも、文学的冒険者を尊重するもので、とにかく「文学を書くようにミステリーも書いてもらえれば」という趣旨の発言が目立った。日本にもジャンルの束縛を逆にジャンピングボードとしてとらえ、文学的冒険に乗り出す書き手がいる、という趣旨の説明を試みたが(『ディスコ探偵水曜日』の話をした)、あまりピンとこなかったかもしれない。
・1970年代末の「ネオ・ポラール」の爆発的流行については、「最悪にして最良の出来事だった」と短く回答。最悪というのは、極端な政治活動を行う作家がそれによって出現したためであり、最良というのはネオ・ポラールが注目されることによって新しい書き手が多数出現したからだ。マッソンの姿勢は「右も左も両方存在しうる自由さがあるのが望ましい」というもので、ネオ・ポラールの時代にも極左と見られたマンシェットと極右とされたA・D・Gが並存した、という例をやはり引き合いに出していた。ただし、マンシェットについては、周囲が思うほど彼は左翼的ではなく、むしろ謎の部分を内奥にもった、複雑な作家だったということを強調していた。
・ショックだったのはセリ・ノワール社の初期を支えたジェイムズ・ハドリー・チェイスやピーター・チェイニーといったスリラー作家について「もはや回顧されることもない作家で、ルーティンワークでしか作品を生み出すことができない書き手だった」という切り捨て方をしたことだった。会場にいらっしゃった藤田宜永さんから後で「彼は若いから、そのへんの影響力は知らないんだよ」と慰められたが、なるほどマッソンは1975年生まれで私よりも若いのである。
いろいろ興味深いことも他にあったが、まずはこれくらいで。思い出したらまたメモします。
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