『知食』年友企画

「知食の会」について初めて知ったのは、東海林さだおさんの週刊朝日連載エッセイ「あれも食いたいこれも食いたい」だったと思う。帝国ホテルで一食360kcalのフランス料理コースを食べさせるというのを聞きつけた東海林さんが、出かけていって参席するという筋立てになっており、最後に糖尿病医のレクチャーを聞いて、実はそうした集まりであるということを知るという落ちがついていた(東海林さんは糖尿病患者ではないはずだ)。私もそのころは糖尿病に罹患していなかったので「ふうん、そういう集まりがあるんだ」ぐらいにしか思わなかった記憶がある。今ではまったく当事者になってしまったわけだが。

『知食』は、その「知食の会」の活動について紹介した本で、定価は高いが豪華版のパンフレットといった趣きである(巻末に健康食品メーカーによる企画広告もある)。繰り返しになるが「知食の会」というのは、一食の総カロリー摂取量が360kcal以下になるよう計算された食事を摂る会で、360kcalという数値は医師から指示されている食事制限基準がかなり厳しい人でもクリアできるラインである(糖尿病患者は80kcal=1単位という考え方をするので、これは4.5単位にあたる。4.5×3=13.5単位だとすれば1,080kcalなので、これを下回る食事制限をしている患者はまずいない)。この他の基準としては「使用する塩の総量が2.2g以下であること(糖尿病の合併症で腎臓に障害が出ている人もいることに配慮しているのだろう)」「食材はすべて無農薬で原則として旬のものであること」「美しく、かつゴージャスな感じのする料理であること」「美味しく満腹感があること」などが挙げられている。三番目の項目はともかく(無農薬野菜へのこだわりには、あまり意味がないと私は考えている)、後は納得できるものだろう。

 この本を読んでみたのは僅かな食材で「美味しく満腹感がある」料理を作るためのヒントが得られないかと考えたためだが、やや当てが外れた印象だった。美しい料理の写真を見て楽しむための本であり、ここから「知食」実践までの道は遠い。各メニューについて栄養素の量的な紹介は行われているのだが、そこから実際に「知食」メニューを手がけることは難しいだろう。なにしろ、一流シェフが知恵の限りを尽くして考案した逸品ばかりが紹介されているのだから。この本を読んでわかるのは「知食」を実践するための一番の近道は「知食の会」に参加することである、ということだった。先に書いた「豪華版のパンフレット」という表現は、かなり的を射たものであるはずだ。

 以前に聞いたところでは、一回当たりの「知食の会」参加費は安くも高くもないという印象である。関心を持たれた方は、とりあえず会へ問い合わせされてもいいだろう。フランス料理というものにまったく愛着がないので、私は当面そうするつもりはないのだが。「知食の会」にないものねだりをさせていただければ、こうした健康食へのノウハウが蓄積されているのならば、ぜひ実践的なレシピとして公開を考えてもらいたいのである。定価2800円という価格も、レシピ本ならば決して高くはない。少なくとも、私は買うだろう。
 
 今いちばん欲しいレシピ本は『鬼平が「うまい」と言った江戸の味』(池波正太郎『鬼平犯科帳』に登場する料理が大塚「なべ家」の福田浩氏によって再現されている)のような江戸前の和食を、糖尿病患者向けにアレンジした本である。この本で見る江戸前の料理はどれもたいへん美味しそうなのだけど、蛋白質と塩分の量が多そうで、糖尿病患者にはあまりお勧めできなそうなのだよな。明治以前の日本食は絶対的な健康食だった、なんて信仰が一面的な思い込みにすぎないということがよくわかってしまう一冊であった(でも逢坂剛さんと北原亞衣子さんのエッセイが料理ごとに付されて552円という定価は非常にお得である。はっきり言って安すぎると思う)。


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大櫛陽一『メタボの罠』角川SSC新書

 大櫛陽一『メタボの罠』は2007年4月に厚生労働省が発表した「標準的な健診・保健指導プログラム確定版」を批判する本である。これは2008年以降実施される特定健診・特定保健指導の判定基準となるもので、この判定値に基づいて各自治体などで健診が実施されれば、男性の59%、女性の49%が通院を促される受診勧奨者となり、その数は3060万人に達するという。特定健診は生活習慣病を水際で予防し、医療費削減につなげるという理念の下に実施されるものだが、実際にはその逆で、通院者が増え医療費は飛躍的に増加する、と大櫛氏は断じる。その結果医療行政は破綻し、長期的に見れば国民の医療費負担は増大するのではないかと懸念しているのである(たとえば人工透析などの高度医療が自己負担化される可能性があるという)。

「確定版」の決定の背景には厚生労働省と医薬品メーカーの癒着があるのではないか、という疑惑も表明されているが、それはさておき(それ以外に、特定健診では「痩せすぎ」や喫煙者が見逃される、高血圧症に対する降圧剤投与が増えるといったトピックも)気に懸かるのは、大櫛氏がメタボリックシンドロームが生活習慣病の要因であるという「定説」自体に疑念を表している点だ。

 2006年5月に厚生労働省は、メタボリックシンドロームの診断基準を発表した。念のためメモしておくと、以下のとおりである。

1)ウェスト周囲径 男性85cm以上、女性90cm以上
2)さらに次の1つ以上に該当すれば予備群、2つ以上に該当すればメタボリックシンドローム
・最高血圧130mmHg以上または最低血圧85mmHg以上
・中性脂肪150mg/dl以上またはHDL40mg/dl未満
・空腹時血糖110mg/dl以上またはHbAlc5.5%以上

 つまりウェスト周囲径が全基準の原点になっている。当初から、なぜ男性の方が女性よりもウェスト周囲径が小さいのかという疑問の声が上がっていた基準値である。その根拠になっているのは2002年に現・日本肥満学会理事長の松澤祐次氏が筆頭著者となって発表した論文だ。大櫛氏によればこの研究は、基準値を決めるためには被験者の数が少なすぎ(ウェスト周囲径の測定は男性554人、女性194人)結論ありきでデータが捏造されている(そのために男性のウェスト周囲径が女性よりも小さくなるというねじれが起きた)。内臓脂肪面積100平方cmという基準値は「占いレベル」であるため本当は健康なのに病気であると誤診される危険が高いものであるという。

 本書では一章が糖尿病の予防について割かれている。体型にかかわらず糖尿病は発病することがあるので、特定健診のみでは早期発見は難しいというのが要旨である(それはそのとおりだろう)。なお大櫛氏は、運動療法については「無酸素運動による筋肉量増強、空腹時運動が望ましい」「朝食を抜くと暁効果によって血糖値が上昇し、日中の血糖値が高くなるため朝食は抜かずに摂ることが望ましい」という立場。GI値も肯定している。

 メタボリックシンドロームの存在については多くの本が自明のものとして扱っているので、本書には新鮮な驚きを感じた。大櫛氏の説を鵜呑みにするのではなく、読者が各自で情報収集し、慎重に判断をする必要がある(文中のデータの扱いについては、反論した資料も探してみたい)。しかし糖尿病患者ならば啓発される点は多く、一読する価値は十分にある。


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『血糖値がみるみる下がる100のコツ』主婦の友社

 医療関連書というか、健康関連書には荒っぽいものが多い。売らんかな、で手を抜いているとは言わないが、本来であれば疫学的研究などの結果を踏まえて慎重に根拠を説明すべきところを、かなりはしょってしまっているものが多いのだ。「これは効く」「病気が治った!」などと華々しく成果をぶち上げるばかりで根拠が薄弱な本については十分な警戒が必要だと思う。そうした「はしょり本」の傾向としては、健康効果の根拠が、

1)権威ある人のお薦め(ただしデータは何もなし)
2)動物実験(ラットなど)の結果
3)二重盲検などの対照実験がない、信頼のおけない「実験」

 のみであることが挙げられる。特に1)は「現在の科学では解明不可能な」という、おなじみの似非オカルティスト的妄言がセットになっていることもある。3)については、被験者数が1(つまり著者が自分で試しただけ)というものがゴロゴロあり、驚かされる。もちろん本当は無作為割付研究、コホート研究などのきちんとデザインされた研究によって証明されなければ、なんの根拠にもなりえないのである。疫学研究の研究デザインについては、坪野吉孝氏のサイトの用語解説ページが参考になる。

 で『血糖値がみるみる下がる100のコツ』だが、これは典型的な「はしょり本」である。健康雑誌の特集記事レベルで、第一章以外は「あれは体にいい」「これは体にいい」のオンパレード。残念ながら各項目で示されている根拠は薄弱なものばかりである。たとえば「1日1本の【バナナ】で、血糖値が下がることがわかった」の項目なんて、被験者はたったの10人である(しかもこれはまだマシなほうなのだ)。執筆者の中には鎌田實氏など、他に好著のある方も混じっているので、なおさら玉石混交ぶりが目につく。というか石の方が圧倒的に多いのだけど。みなさん、お仕事は選んでもらいたいなあ。

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舘一男『私はこうして糖尿病患者を救っている』主婦と生活社

 糖尿病患者が糖尿病の関連書籍を読む理由は、

1)自分の病気がどの程度のものか知りたい。
2)自分の担当医の治療法が適切であるか知りたい。
3)自分の担当医が勧める以外にどんな治療法があるか知りたい。
4)自宅で自主的にできる治療法を知りたい。

 といったところに分類できるだろう。1)は「境界例」(空腹時血糖値が110~126mg/dl)の人に多いはずである。糖尿病の場合、発症してしまえば教育入院の効果もあって病気についての知識が増えるため、入門書に書いてあるようなことはほとんど読まなくてもわかるようになってしまう。だから、本の売り方として「境界例」のお客さんをいかに「怖がらせるか」が大事なのである。怖がらせるというと言葉は悪いが、境界例のうちに病気についての正しい知識を身につけることは大事なので、この段階で厳しすぎるほどに厳しいことを言うべきなのである。ただし、糖尿病を恐れる気持ちにつけこんで悪さをする者がいないかどうかだけは、気にしておく必要がある。

 4)に関する本が多いのは当然のことで、糖尿病治療の基本が運動と食事療法だからだ。、糖尿病と宣告されてから、私の本棚には糖尿病食のレシピ本が一気に増えた。すぐに使えて、便利なのである。気をつけるべきなのは、怪しげな代替医療や民間療法を勧める本だ。実行しても体に影響がない、罪のないものならともかくとして、カルトめいた勧誘をするものには用心しなくてはいけない。

 2)と3)についての本は、現実に通院しながら治療をしている人が読むものだろう。普通に生活している限りにおいては糖尿病治療について学ぶ機会もそれほどない。したがって、発症してから泥縄的に病気の知識を増やしていくわけだが、そのときにはすでにどこかの外来にかかっていることになる。そこで改めて不安になり、糖尿病専門医の著書を探して読み始めるのである。

 『わたしはこうして糖尿病患者を救っている』の著者、舘一男氏はアントニオ猪木の糖尿病主治医である(猪木との共著もある)。この本は分類でいうと、2)にあたる本。一般の糖尿病医の不備、不勉強を糾弾する内容が中心になっている。書いてあることは真っ当で、要するに主張は「小まめに患者の病態の変化を調べて、最適な治療法を選ぶ(特にだらだらと薬物治療だけに頼らない)」「患者が自主的に治療に取り組む気持ちを削がない」にまとめられる。さらに追加するならば「血糖値を上げる主要因である炭水化物を制限し、グリセミック・インデックス(GI)値を取り入れた栄養指導をする」。GIというのは日本糖尿病学会では導入に慎重になっている考え方で、食物には血糖値を上げやすいものと上げにくいものがあるというものである(主食でいえば、白パン、うどん、白米などが上げやすい)。カロリーではなく、こうした食品の摂取量を制限対象にすれば、血糖値コントロールはしやすいというのである。これに対しては反論もある(たとえばGI値でデータがあるのは、食後二時間の値だけで、それ以降に血糖値がどんな変化をするのかはわかっていない、というような)。私自身は、自分がまだ納得がいくほどのデータを集めていないと感じているので、GI値を中心とした食事を始めるのは時期尚早だと思っている。GI値による食事制限を実施し、効果があったという方を頭から疑ったり否定するつもりはない。

 さて、2)の立場として本書を読み始めたわけであるが、舘氏が主張する「糖尿病医が当然実施すべき検査項目」で、私が知らされていないものは「GA(グリコアルブミン)」と「1.5AG(1.5アンヒドルグルシトール)」だった。前者は血液中の糖化蛋白質を測定するもので、過去2週間~1ヶ月の血糖値状況がわかる(ヘモグロビンA1Cは1~2ヶ月)。後者は血液中に存在する単糖類で、糖尿病が進行すると尿中への排泄量が増えて血液中に存在する量が減るのだという。……ちょっと心配。しかしヘモグロビンA1Cでコントロールできているから、今はいいや。

 私のことはともかく、現状の治療に疑問や不満がある人は一度読んでみても損はない本だと思う。舘氏の他の著書も、追いかけてみるつもりだ。

 と、まとめを書いてから著者のプロフィールを見て、驚いた。この本の中で、舘氏は自分が元務めていた総合病院で糖尿病治療がいかに不備で、合併症から失明した人が非常に多かったということを糾弾している(舘氏はもともと眼科医なのだ)。

 その病院って、私が通っているところなんですけど。しかも来月、私はその眼科で合併症の検査を受けるんですけど。

 なんだかさらに不安になってきた。でも、舘氏が某病院に勤務しておられたのが何年前までなのか、この本には書いていない。そのころの状況と今とは違うのだと、割り切ることにしよう。大丈夫、たぶん。

(付記)
 現在の舘氏は京都で舘眼科内科クリニックを開業し、レーシック手術などの眼科治療に当たっているようである。本書を執筆時に在籍していた東京八重洲クリニックは、どうやら現在休診中のようである。新しい病院で糖尿病治療を実施されているかどうかは不明。またT病院に舘氏がいたのは、平成元年までだそうだ。

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糖尿病記者の外食グルメ術 in tokyo

 よいグルメガイド本というのは、どんな本のことを言うのだろうか。「実用性」「網羅されている店の数」「オリジナリティー」などなど、いろいろな指標が考えつくが、それを以下の五項目にまとめてみた。

「取材力」
 いちばん重要なのは、本の作り手が店に足を運んで自分の舌で料理を確認しているか否かという点である。タウンガイドなどには明らかに取材の形跡がなく、既存のグルメガイドの孫引きだろうと思わせるものが多い。また年鑑のグルメ本では、前年度の記述が更新されていないものもある。そうした本は減点である。店との癒着については、百パーセントないほうがもちろん望ましいが、商業出版ではなかなか難しいだろう。

「評価のわかりやすさ」
 要するに「おいしい」「おいしくない」の判断がはっきりできていること。最近ではコスト・パフォーマンスで評価する本もあるか。星の数で評価をつける、いわゆるミシュラン方式が導入されているか否かは、実はあまり問題ではない。写真が大きく載っているような本ではどうせ店の協力が必要なのだし、協力を受ければ星の数に手心を加えないはずがないからだ。そうした数値化がなされていなくても、文章を読んでだいたいの雰囲気が伝わればいいのだ。ラーメンガイドのように特化した本だと、トッピングの種類や油の量、麺の状態などが細分化されて載っていることが多く、下手な主観評価よりもよほど参考になる。食いしん坊の人向けに、飯の大盛り度合いなどもあったらいいかも。

「エンターテインメント性」
 掲載されている写真の楽しさ、文章のおもしろさなど。上から撮影した丼の写真を実寸大で掲載したガイド本が以前あったが、あれなどは眺めているだけで楽しかった。ひところからブログを書籍化した本が多く出るようになったが、その中には文章のおもしろさだけで勝負しているB級グルメ本などもある。文人や芸能人などの料理エッセイ本などもこの仲間に入るか。こうした本は、読者にバーチャルなグルメ体験をさせてくれるのである。糖尿病患者のように、あまりこってりしたものが食べられない人間は、グルメ本読書を食事の代替行為として楽しむことがある。グルメ本を読んで実際に来店せずにすますというのでは、紹介された店の方としては困るかもしれないが、これも立派な読書の効用なのだ。

「量的充実」
 質も重要だが、量も大事。店の数を多く紹介するというのは基本で、これに地域的な規模も付け加えたい。東京に住んでいるので他の地域のことは知らないが、首都圏のガイド本だとだいたい二十三区内の繁華街が中心であり、都心から離れるにしたがって記載はまばらになっていく。読者の大半が住んでいるはずである、ベッドタウンに存在する店のことをもっと多く採り上げた本があってもいいはずだ。一店あたりのメニュー数も、できれば十以上は紹介してもらいたい。

「健康面への配慮」
 これは自分が糖尿病患者だから言うのだが、カロリー表示のあるグルメガイドはこれから需要が高まっていくだろうと思う。カロリー以外ではアレルギー表示も必要か。栄養バランスへの配慮として、野菜メニューがどのくらい充実しているかも知りたい。精神衛生上の問題として、客を客とも思わないような頑固店主・無愛想な店員がいるような店の場合、できれば「クソ親父」「飯がまずくなりました」などの表記を入れていただけると私はうれしい。

 というわけで、今回『糖尿病記者の外食グルメ術 in tokyo』郡司和夫・内田正幸・相馬昭彦(三五館)という本を読んでみた。二人の糖尿病記者と一人の予備軍ライターによる、糖尿病患者にお薦めの外食スポットを紹介する本なのだが、以上のような評価基準からすると本書はいかなることになるのだろうか。

 まず「取材力」だが、本書に記載されている店のうち六店は、糖尿病専門医師が主催する「食べていいんです会」という、650kcal以下でフルコースディナーを楽しむ会の会場になった店である。つまり「ありもの」なわけである(改めてヒアリングはしたのだろうけど)。それ以外の店は一応取材したようであるが、総数65店というのは、グルメ本としては少なすぎる。二つ飛ばして「量的充実」の問題にいくが、取材対象となった店は、執筆者たちの行きつけの場所なのではないかと思われるのである。官公庁食堂などが入っているのはたぶんそのためだろう。四店しか紹介のないラーメン店の一つが「札幌本舗新宿アイランド店」なのも不思議である。チェーン店だし、繁華街の中心とも言いがたい。しかしこの店が、東京都庁から直近の場所にあることを考えるとうなずけるのである。また、六店紹介がある和食店のうち二つは虎ノ門駅周辺だし、一つはなんと「大戸屋」である。いや大戸屋がいけないとは言わないが、こういうグルメガイドであえて採り上げる必要はないだろう。
「健康面への配慮」という点でいえば、本書の「選定基準」は糖尿病患者向けということもあり、大いに配慮がなされている(と称している)。第一に、カロリー表示があること。第二に、栄養バランスがよく美味しいこと。第三に、自治体が「健康づくり協力店」などに指定していること。第四に、糖尿病患者や専門医が推薦していること。この四点のうち二つを満たす店を紹介しているのである。なるほど、これは大事なことだ。しかし、このうち第三の条件に該当するのはわずか二店だけで、少し物足りない気はする。

 飛ばした「評価のわかりやすさ」「エンターテインメント性」については、まあこんなものか、という感じ。「食べてもいいんです会」の協力店については写真もカラー掲載されていて楽しめるのだが、他の店舗は料理の写真がないものも多く、眺めて楽しむ喜びは薄いのである。文章も総花的な評価を書いたものがほとんどで、なかなか味は想像しづらかった。

 というわけで、本書の総合評価は五段階評価の二というところである。大きな減点対象はやはり「量的充実」と「取材力」の問題。採り上げる店の数はこの倍はあることが望ましいし、地域も首都圏全域に広げる必要がある。できれば全店舗にカロリー表記を必須とし、代替行為として本を楽しむ人のために写真図版をもっと多く掲載すべきだろう。この本の志そのものは決して悪くないと思う。しかし、定価1200円でこれを読者に売るのは、無茶である。この方向性で、もっと充実したガイド本を出してくれる版元は他にないものか。店舗数が200あったら、私なら2000円だって買うけどな。


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ぼくのともだち

ぼくのともだち

「人と並んで歩くと、知らず知らずのうちに相手を壁に押しやる癖」の人がいる。自分の足元しか見ていないせいだ。『ぼくのともだち』の主人公、ヴィクトール・バトンがそれ。

『ぼくのともだち』の発表年は一九二四年。エマニュエル・ボーヴのデビュー作である。彼の作品が邦訳されるのは、これが初めてだ。一九四五年に没した後、ボーヴの名は本国フランスでも一九七〇年代の半ばに再評価されるまで忘れ去られていたという。一九五、六〇年代といえば、フランスの政治参加の季節だったから無理もない。『ぼくのともだち』は、デモの最中に読まれるような、声高の主張を述べた小説ではないのである。

 ここに綴られているのは、ヴィクトール・バトンのかそけき呟きだ。彼はパリの郊外にある、風が吹くと鎧戸が外れてしまうような旧いアパートに住んでいる。収入は、第一次世界大戦に従軍したことで貰うようになった傷痍軍人年金だ。つまり無職なので勤労者である他の住民たちとそりが合わず、いつも「ともだちが欲しい。本当のともだちが」と願っている。本書の中で、彼は幾度かその機会をつかみかける。相手はリュシー・デュノワ、アンリ・ビヤール、船乗りのヌヴー、ムッシュー・ラカーズ、ブランシュといった人々だ。しかし、誰もともだちにはなってくれないのである。ヴィクトールがとんでもなく身勝手な男だからだ。たとえばビヤールに恋人がいると聞けば、醜女であることを願うほどに(恋人が不細工なら、彼の関心を奪えるかもしれないからね)。実際、ビヤールの恋人・ニナを見てヴィクトールは有頂天になる。彼女が下肢障害を持っていたからだ。ひどいよ!
 
 しかしヴィクトールに友人ができない真の理由は、別のところにあるような気もする。実は彼氏、かなりの好色漢なのだ。彼はなかなか鋭い観察眼の持ち主なのだが(緻密な風景描写は、本書の魅力の一つである)、推察するにその能力は異性の鑑賞によって培われたものである。たとえば彼は、牛乳屋の売り子をしている隣人の女性の「フェルトのスリッパには牛乳の染みがある」ことに気づく。彼が「スリッパを履いた女性が好き」「脚が無防備な感じがするから」注意が向くのである。おまけに彼には、目の前の女性が自分を愛しているという妄想を抱く癖がある。先述の下肢障害を持ったニナのことも、彼女がビヤールを棄てて自分の元に走るつもりなのだと一方的に思いこむ始末なのである。つまりともだちは欲しいが愛人はもっと欲しいというわけだ。妄想だけではなく「一度くらい、悲しみを忘れ、羽目をはずして楽しんでも、罰は当たらないだろう」と実践に乗り出すことさえある。純真無垢な人物を想定してページを開いた読者は幻滅するかもしれない。

 ヴィクトールを見ていると、江戸川乱歩(ボーヴよりも四歳年上だった)の猟奇小説に登場する主人公たちを思い出す。乱歩の分身でもある彼らは、一様に社交性を欠く、内向的な人間として描かれた。人と巧く交われない分欲望が内に籠もり、押絵に恋したり人間椅子になったり女優を剥製にしてみたりという爆発に向かってしまったのだ。ヴィクトールにはそこまでの無法さはないが、自滅しようが孤立しようがともだちができなかろうが、おのれのエゴを押し通さずにはいられない生き方は、乱歩の産んだ猟奇の愛好者たちと同族の匂いを感じさせる。彼らは「人を壁に押しやらずには歩けない」人種なのである。「人でなし」なのである。たぶんヴィクトールは、自分がそうした「人でなし」であることを自覚し、諦めている(そうさせたのはたぶん、人類史上初の近代戦争だ)。だからこそアパートに籠もって暮らすのである。蔵に籠った乱歩のように。それでも淋しくて、彼はときどき涙を流す。嫌われ者の鰐だって、小鳥を食べなきゃ生きられない我が身が哀しくて泣くことはあるという。本書でぼそぼそと語られるのは、そうした類の哀しみなのである。(小説すばる)※1

※豊崎由美さんの「書評の愉悦」講座のために書いた原稿。おしまいに「小説すばる」と括弧書きがあるのは、「どの媒体に向けて書いた書評原稿であるか」設定が必要であったため。


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誰も行けない温泉シリーズ

「誰も行けない温泉 命からがら」

inochikaragara


「誰も行けない温泉 前人未湯」


zenjinmitou

「誰も行けない温泉 最後の聖泉」

saigonoseisen

 温泉、という言葉に日本人が抱くイメージというのは、ドリフのババンババンバンバンはあビバビバのあれだと思う。間違っても「決死」とか「遭難」といったイメージを抱くことはないだろう。あと「恥辱」も。そうしたぬるい温泉観をくつがえすのがこのシリーズ。「決死」の覚悟で行って「遭難」寸前になりながら湯に浸かり時には「恥辱」に塗れることさえあるという、実に辛い温泉行の本なのだ。なぜ辛いかというと、誰も行けないような大変な場所にある温泉にわざわざ入ろうとしているから。しなくていい苦労をわざわざする。なぜする。

 全裸の男がガスマスクを着用して温泉に浸かっている表紙写真を見れば本のコンセプトは一目瞭然だ。温泉というのは火山地帯の産物である。したがって、

1)とんでもない山中にある(富山県阿曽原温泉)。

2)時には火口にある(秋田県鬼ヶ城火口の湯)。

3)有毒ガスが噴出していることもある(熊本県すずめ地獄)。

4)クマなどの野生動物に出くわす危険さえある(岩手県安比温泉)。

と、危険は山盛りである。山だけではない。海の岩礁に面した温泉では、

5)波にさらわれる可能性もある(鹿児島県薩摩硫黄島大谷温泉)。

 本当になぜそこまでして温泉に入る。しかも行った先に必ず湯船があるとは限らないのだ。湯船が土砂に埋まって消失していたり、そもそも湯は噴出しているものの湯船にはなっていなかったり、ということはしょっちゅうである。そのたびに作者は、シャベルで穴を掘って即席湯船を作り、湯温が高すぎて入浴不可の時には川の水と合わせて水温を下げ、涙ぐましい努力をして入浴写真を撮っている。ただしそこまでして作った温泉だが、はっきり言ってしまえばただの「温かい水たまり」にすぎない。したがって入浴すると余計に体が汚れることになるのだ。なんのための入浴といえるのか。

 人跡未踏の地で入浴をするというのなら、まだ冒険行として評価する人もいるだろう。だがこの本の中にはもっと情けない温泉も登場する。地図上の温泉表記を頼りに行ってみたら、単なる温かい湧き水で地元の人が野菜を洗うのに使っているだけ、ということもあるのだ。なんと作者はそんな場所でも入浴に挑戦するのである。勇猛果敢だ。でもそれは蛮勇とも言うぞ。

6)かかなくてもいい恥をかく(和歌山県井関温泉)

 というわけで、この本は温泉ガイドとしてはまったく役に立たないが(だって紹介されている温泉には行けないから!)、くだらないことに真面目に挑戦する人が大好きな読者にはたまらない読物といえる。大原さんのギャグが果てしなくつまらないのだけが本書の弱点なのだが、つまらない冗談でも言ってなければこんなたいへんな取材はできないのだと思って大目に見てあげよう。でもさ、何べんも言うけど、なぜ行くの?

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ミミスマ

MIMISUMA
「ミミスマ」

男子中学生「ZONEのどこが美人なんだよ。ホワイトベリーのほうがいいよ

マルチ勧誘員「うん、10万は確かに大金だでも肉体労働をやれば半月で稼げる額でもある。そのくらいの投資で未来が切り開けるなら安いもんだろ

ネット掲示板女「そうそう、どっから来たのかうち(の掲示板)が気に入ったらしく、頻繁にカキコしてたんだけどさー、なんだかことごとく寒いっていうか、自分のことばっかし書いてるんだよねー」

 などなど。この本から、ちょっと気に入った会話の断片を抜き出してみた。マクドナルドで大声張り上げてホワイトベリー(まだ活動してるのかな?)の可愛さを力説する中学生、おめでとうあと10年は童貞だろう君は。マルチの勧誘員の台詞は、応酬話法の基本をばっちり押さえている。「たしかにそうだ」「でもこういう考え方もある」「それならば」目の前の人間がこんな喋り方をしていたらあなたを洗脳しようとしている証拠。有無を言わせず席を立つか、迷わずぶっ飛ばせ! ネット女の「らしく」。これはフィクションでは書けそうで書けないフレーズだ。「らしく」たしかに言うなあ。発音は「ら・し・く」。厭味なほどに刮舌するのが正しい。

『ミミスマ』はアングラ系サブカルチャー誌「裏モノJAPAN」連載を再構成した本だ。街角や喫茶店などで奈良崎コロスケが聴き取った会話の断片を文章に再現したものである。新宿住まいが長かった私には、この中の会話のいくつかは耳にタコができるほどによく聞いたものだった。キャバクラ嬢とそれを狙う中年サラリーマンの同伴出勤中の会話。ああ、よく聞いたよく聞いた。この餃子屋は歌舞伎町にあった餃子房じゃないのか? 「スーパールーズ」の火災現場前に立つ野次馬の会話。そうだそうだ。いたんだよ、野次馬がしばらくの間。当時の私の部下も興味本位で見に行ったらしいから叱ったんだ。だってあの火事の夜、私も歌舞伎町にいたんだから。地下の店から出てきたら靖国通りが消防車で埋め尽くされていてびっくりした。中年サラリーマンがリストラされようとしている会話。この場所にも心当たりがある。喫茶西武だな。そうだ、いるんだよあの辺の喫茶店には。カタギだかなんだかよくわからない変な会社に勤めている連中が。読み進めていくとこの会話を聴いていたのは自分自身なのではないかと錯覚するほどに『ミミスマ』はリアルな内容だ。そう感じるというのは間違いない。奈良崎コロスケは抜群のいい耳をしているということだ(録音はしているのかもしれないけど)。

 清水義範に『ビビンパ』という小説がある。親子四人が焼肉屋で食事をする模様だけを延々と書いた小説だ。誰もがあの会話はリアルだと言う。いかにもありそうな会話だと言う。だが清水は『パスティーシュと透明人間』(新潮文庫)で書いている。『ビビンパ』の会話は、あれでも作為的で説明調のものなのだと。現実の会話をそのまま紙の上に再現しても絶対に小説の会話としては成立しないのだと。『ミミスマ』は、その小説ができないリアルというものの壁を突破した作品なのである。断言してもいいが、この本を読んでリアルな会話の書き方を学ぼうとする小説家が10人はいるね。自分だって機会があったらやりたいもん。たとえば池袋西口公園でナンパされるのを待ち疲れた少女二人が、

ミニモニ娘「超かわいー」
飯田香織似娘「超犬飼いたいー」
――話し疲れたのか、やや沈黙――

 この「話し疲れたのか、やや沈黙」が難しいんだよなあ。

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日本の“珍々”踏切

「日本の“珍々”踏切」

 お寺の境内を横切っている踏切、新幹線が通る踏切、遮断棹が13本もある踏切など、日本全国の珍妙な踏切を集めた本で、ちゃんと路線名、駅名と簡単な地図がついているのが嬉しい。全国踏切マニア(フミキリストというのですと)必読書。

今、日本の主要な路線は立体化、高架化が進められているので、本書で紹介されている踏切の現状も、刻一刻と変化しているのだという。本書の中でも路線が廃止され、用済みとなった踏切の姿が紹介されていた。東京・汐留には日本発の鉄道路線の史跡として残されている踏切もあるそうだが、本来の用途を失った踏切はやはり淋しいものだ。赤瀬川源平の提唱した「トマソン」だね、つまり。そうまでして生きながらえて、果たして嬉しいのか踏切よ。え、どうなのだ。

 珍踏切のほか、いわゆる「開かずの踏切」も紹介されていて、そのくだりは鉄道の今をとらえたルポルタージュとして読んでもおもしろい。鉄道にまったく関心のない人でも楽しく読める好著だ。

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人生は3つ数えてちょうどいい

「人生は3つ数えてちょうどいい」

 和田京平とは、全日本プロレスの旗揚げ直後からリング屋として巡業に加わり、やがてレフェリーとして試合を裁くことになった人物。フォール姿勢に入った選手の上を跳び越してのカウントインなど、切れのいい動作のレフェリングがファンの人気を呼び、メインレフェリーの座をジョー樋口から引き継いだ後は、試合前のコール時に選手以上の歓声が湧くようになった。彼のレフェリング術は、3章にたっぷり紹介されている。本の後半ではジャイアント馬場没後の元子夫人と三沢光晴一派との確執についても語られており、全日本プロレス分裂当時にファンの頭に浮かんだ疑問符の一つ一つを解きほぐすというわけにはいかないが、一読の価値はある。

 全日本プロレスファンとしては、付き人を務めたジャイアント馬場、親しかった天龍源一郎、若手のころから成長を眺めてきた三沢光晴など、トップレスラーのプロフィールがふんだんに紹介されているのがもう一つの読みどころ。

 しかし、なんといってもジャンボ鶴田のエピソードが最高である。どの話をとってもいかにも鶴田らしく、その場面が目に浮かんできてしまう。天才のなせるわざかどんな試合でも常に余裕たっぷりの試合運びで、「ノリに任せて時には次にこの技をやりますよ、なんてことをわざわざ相手につい教えてしまう」こともあり「はい、俺は次はチョップをやっちゃうよ。そしたらエルボーだよ」と試合中に口に出してしまう。左腕を攻められた後に逆転勝ちを収めたときなど、ついつい相手の攻めのことを忘れて左腕で勝ち名乗りを受けてしまい、慌てた京平レフェリーに「ジャンボ、腕、腕……」と囁かれ慌てて「ハイ? 左手、痛かったねえ? 痛い痛い!」とわざとらしく痛がってみせるというのだから、対戦相手はたまったものではない。

 伝説の長州力との60分フルタイムドロー試合の後も、長州がコメントも出せずにへばりこんでいたのに対し、ジャンボは「さあシャワーでも浴びるか!」と爽快な表情だったというのである。天龍が「京平ちゃん、ジャンボをどうしたら怒らせることができるんだろう?」と思い悩むのも無理はないし、馬場が後継者選びに際して「どんなに大学出の(頭のいい)奴でも、プロレスを心底好きな奴にはかなわないだろう?(天龍のこと)」と呟きたくなった気持ちもよくわかる。そんな鶴田のナイスな秘密が一つ。彼はデビュー当時、ジャーマンスープレックスを得意技としていたのだが、いつしか使わなくなり、代わりにバックドロップをフィニッシュホールドにするようになった。同じようにスープレックスを封印したレスラーに藤波辰爾(ドラゴンスープレックス)がいるが、彼の場合は持病の腰痛が原因である。ところが京平によれば、鶴田がジャーマンを封印した理由は「頭をマットにこすって髪の毛がなくなるのがイヤだったから」だというのだから恐れ入る。ジャンボイズム炸裂である。

 衝撃的だったのは京平のあだ名である「カッパ」について。その名前を聞くたびにレフェリーの頭頂部のあたりを思い浮かべて、なるほどな、と納得していた人間は全員懺悔しなければならない。なぜならば「カッパ」とは「カップ」のことであり京平の淹れるコーヒーを心待ちにしていた外国人レスラーたちがそう呼び始めたのが定着したというのが語源だからである。くれぐれもアデランス関係と混同してはいけない。埼玉県最強の主婦、北斗晶あたりにも周知徹底しなければならないのである。

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工学部・水柿助教授の逡巡

「工学部・水柿助教授の逡巡」

 森博嗣ファンの気持を長州力風に代弁すると、何がやりたいんだコラ! ということだと思う。あ、いや、やりたいことは明確なんですけどね。フィクションの中で言葉を玩ぶこと、それ自体がやりたかったはずである。赤川次郎の対偶をいく、作者の独白が続いて読者の没入を阻む導入部であるとか、ちょっとでも気取りがあったら書けないであろう駄洒落遊びであるとか、内容をまったく反映しない各話の題名であるとか、要するにふざけているのである。徹頭徹尾ふざける。それがこの小説の目的だ。前作の『工学部・水柿助教授の日常』が、「日常の謎」を題材にしたミステリー風小説だったので、それを期待して読む人をはぐらかす意図の小説でもある。また作者の分身に見える人物を主人公とし、これはモデル小説なんだ、変形の私小説なんだ、と思い込んだ読者をおちょくるための小説でもある。

 他人がふざけているのを見て、そのふざけぶりをおかしく感じるか、鬱陶しく感じるか、それは相性の問題だ。したがって一話を読んで鬱陶しく感じた人は無理して先に進まずに本を閉じ、森博嗣のもっと真面目な作品を読んだほうがいいと思う。無理して読んじゃ体に毒だよ。 森博嗣がふざけているのを見て、ああ、森さんはふざけとるわい、あはは、と笑えた人のみ、本書を読み通すことができる。247ページに感心した一節があって、それはこの小説の虚構性を的確に表現しているのだけど、もしかするとネタばらしになってしまうかもしれないのでここには書かない。小説を読んで、なんとなく釈然としない思いを抱いた人だけ、そのページの1行目から読み返してごらんなさい。ああ、そういうことだったのかと、視界の靄が晴れる思いがするから。

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ナンシー関の「小耳にはさもう」ファイナル・カット

「ナンシー関の「小耳にはさもう」ファイナル・カット」

まだこんなにあったんだ!

2002年6月に40歳の誕生日を目前にして亡くなった不世出のコラムニスト、ナンシー関の単行本未収録コラム集である。すべて週刊朝日「小耳にはさもう」の連載原稿で、壱の章が死の直前の連載原稿(2002年分)、弐の章が93年から2001年にかけての分で、なんらかの理由で単行本に収められなかった原稿である。

気になるのは弐の章でしょう。なんで単行本に入れなかったの? 95年4月7日号は麻原彰晃が「わたしはー、やっていないー、けっぱくだー」と訴えている件についてなので、雑誌側がなんらかの配慮をしたものと考えることもできるが、その他にそういう配慮が見えるコラムはない(麻原の直後にナンシー関は上祐史浩も扱っている)。当時朝日新聞社のUNO編集長だった花田紀凱がテレビ出演をしたことをおちょくった回も未収録になっていたのが、これなんかはもしかすると出版社事情の差し止めかも(98年3月27日号)。それ以外に単行本化を止める理由のあるコラムはないようである。ちなみに未収録になった中でいちばん多いのは誰の回かというと、和泉節子(元彌の母)が3回でいちばん多いが、これはいずれも2002年のコラムなので単行本に間に合わなかっただけだろう。それ以前のものでは大橋巨泉と高知東生が2回ずつ。これにもたいして意味はないようだ。

次に、いつのコラムが収められていないのか確認してみた。すると意外なことがわかる。第1集『小耳にはさもう』(93~94)の未収録が連載1回分、第2集『聞いて極楽』(94~95)が2回分、第3集『聞く猿』(95~97)が5回とだんだん増えていき、第4集の『耳部長』(97~99)では29回分も抜け落ちているのだ(第5集の『秘宝耳』以降は激減する)。とくに98年の連載分が多く、25回分も抜けている。

時評のコラムを本にまとめるにしては異常な事態ではないか(今までリアルタイムで本を買っていて気づかなかった私もファンとして問題ありだが)。週刊文春連載の『テレビ消灯時間』の98年分は別にカットされてないのに。ナンシー関と週刊朝日、何かあったのか。謎は深まるばかりでございます。事情通の方教えてください(内部からのリーク歓迎)。

それにしても週刊文春と週刊朝日両方に連載していたんだねえ、ナンシー関。馳星周が今週刊アサヒ芸能と週刊大衆の両方に連載を持っているが、あれよりもすごいライバル関係の2誌だ。そうだ、ナンシー関は週刊アサヒ芸能の浅草キッド連載にもカットをつけていたのだから、三誌制覇か。ちなみに「テレビ消灯時間」で最後に採り上げたのはワールドカップがらみの妙な外国人、「小耳にはさもう」は辻仁成だ。辻仁成にイーッとなったまま逝っちゃったのかなあ。それは可哀想だ。辻仁成が悪いわけではないけど。

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武藤敬司自叙伝

武藤敬司自叙伝

 天才プロレスラー武藤敬司の自叙伝。自叙といっても聞き書きでライターがまとめていることは明らか。人名表記が、武藤の口調になっているもんね。ダニー・クロパット→クロファット、キャビン・サリバン→ケビンが日本における一般的な表記である。

 武藤ファンなら読むべき本だが、スキャンダラスな話題はあまりない。新日本プロレスを離脱する直前にはかなり煩悶があったはずなのに、そのへんはあっさりと流してしまっている。しかし下半身話などの下世話な話題は多いので、楽しめるはずである。レスラー目当てのグルーピーをリング・ラッツというらしいが(ミスター・ヒトはアリーナ・ラッツと呼んでいた)、同行していたケンドー・ナガサキと二人組の女の子をナンパして部屋に連れ込んだら、それが実はオカマでナガサキがシャワー室から全裸で飛び出してきた事件とか、23歳のときに17歳の高校生とできてしまった話とか(今の日本はもちろん当時のアメリカでも犯罪だ)、おおらかに語られていて、細かいことにこだわらない武藤らしい。ちなみに初体験は仙台柔道専門学校時代にソープランドで済ませたそうである。

 細かいことにこだわらないといえば、新日本時代の武藤は後輩レスラーに関心がないことで知られていた。そのためかプロレス界特有の、いわゆる「かわいがり」はしなかったそうなのだが、同僚レスラーの「H」は空気銃で寝ている新弟子の顔を撃つなど、やんちゃの限りを尽くしたとか。「H」って伏字になっているけど、その前の段落で「橋本真也」って書いてあるから、正体は丸わかりです。

 あと、新日本時代の武藤といえば「顔はいいけど頭がちょっと」で、中西あたりにアルゼンチン・バックブリーカーで抱え上げられたりすると、背骨よりもむしろ掴まれている頭髪へのダメージが心配になるほどだった。当時の武藤は完全なベビーフェイスだったので、頭髪問題についてはテレビ朝日の実況中継でも語るのがタブーになっている感じがあった。その辺について本人は自分でも気にしていたらしく養毛剤を試していたことも告白。アメリカでは観客に「ムタ・ニーズ・ロゲイン!」とのプラカードを出されたとのことである。その結果開き直ってスキンヘッドにしてしまったわけですね。

 もう一つ気がつくのは、アントニオ猪木に対するコメントがほとんど無いこと。猪木初対面の印象も「うわあ、ブラウン管で見るアントニオ猪木と同じだよ」と感動したのも束の間、公称192センチの猪木に対して「あれ、俺より低いじゃん!!」と失礼千万にも驚いたりしている。武藤は公称188センチだから、やんわりと暴露しているわけだ。やはりこの人は猪木チルドレンではないし、移籍すべくして全日本に移籍したのである。

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地獄のアングル

地獄のアングル

プロレス・マスコミのボートピープル・ジョー、ターザン山本!は言う。「12月は暴露本の季節ですよ!」と。たしかに2003年のミスター高橋、2004年の高田延彦ときて、2005年には永島勝司のこの本『地獄のアングル』が発売された。永島勝司氏はプロレスファンならご存じのとおり、東京スポーツ記者時代にアントニオ猪木によってスカウトされ、新日本プロレスに入社。一連の東京ドーム興行を成立させた、裏の立役者だ。猪木の無茶な注文を実現させた(そして無茶を抑え込んだ)という点では、昭和の新間寿に比肩すべき業績を残している。その永島氏が新日本を退社し、長州力とともに“夢の”新プロレス団体を旗揚げした。それがWJプロレスである。しかし夢はたちまち悪夢となり、団体は一年ももたずに失速。永島氏は還暦過ぎにして1億近い(と噂される)借金を背負うことになる。本書はその顛末について語った本である。

ターザンの定義はともかく、本書にスキャンダル本の刺激を求めすぎると失望するかもしれない。「暴露本」と呼ぶには悪意の少ない本だからだ。たとえば、長年の関係にもかかわらず永島氏をあっさり見捨てた猪木に対しても怨み節を連ねることは可能なはずなのに、筆致は意外にあっさりしている。それどころか、いよいよWJ崩壊間近というときに猪木が永島氏に対して「今度さ、長州も連れてこいよ。三人で一緒に飲もうぜ」と救いの手を差しのべたという度量の広さが感じられる抜群のエピソードさえ紹介されているのである。同じようにWJ崩壊の原因を作った長州力、離脱者である佐々木健介、中島勝彦への繰言もほとんど無い。内部告発で団体のとどめをさした谷津嘉章、ジャイアント落合死亡事件で根拠のないWJ攻撃をした佐竹雅昭についてはさすがに批判的なことが書かれているが、まあ、それは仕方ないでしょう。あと噂される浪費癖(会社訪問の手土産にマスクメロンをいちいち持参していたという)福田社長批判も穏やかなものなのだけど、きっとこれは法廷闘争があるんだろうね。

それより可笑しいのは、永島氏がWJフロントの駄目さぶりを振り返る自虐話の数々だ。伝説の珍興行「X-1」の失敗話など、何をそこまでというようなほど緻密に分析が行われていて、逆に感動してしまう。「なぜ、レベルの低すぎる選手たちが集まったのか」「なぜ、レフェリーは極端に手際が悪かったのか」「なぜ、金網が途中で壊れてしまったのか」「なぜ、会場はガラガラだったのか」「なぜ、長州は会場で一言もコメントを出さずに姿を消したのか」など、その分析を事前にやっておかなかったことが信じられないというようなことばかりで、本当に珍妙だ。新入社員にひとりひとり読ませて反面教師にさせたいような内容である。ブッカーのブライアン・ジョンストンと事前に一回しか打ち合わせをしておらず、出場選手のプロモ・ビデオすら取り寄せてなかったという杜撰さには呆然とするしかない。失敗したなあ、こんなことなら行けばよかったよ「X-1」。

「紙のプロレス」誌上で矢口壹狼選手は、WJからの去就について聞かれて「今いちばん注目されている団体。このチャンスを逃す手は無い」という趣旨の、実に前向きなコメントを残していたが、これは最後まで踏みとどまった選手たちの総意でもあったろう。にもかかわらず団体は崩壊してしまった。選手にいくらやる気があっても、借金が嵩めばしょうがないです。しかし救いなのは永島氏に借金に対する健全な姿勢が見られること。例に出すのは気がひけるが、FMW社長だった故・荒井昌一氏のように会社倒産と同時に命まで失ってしまうというのは、社会人としては問題のある行動だと思う(『倒産! FMW』参照)。どんなに金が無くても債権者からの携帯電話着信には必ず答える永島氏の態度は、実に潔く、見習うべきだと思うのだ。

そんなわけで、永島氏救済のためにもぜひ買ってあげてください。永島氏って、ブッシュに利用されるだけ利用されて首を切られたパウエル元国務長官にもそっくりだし、ってそれは本を薦める理由になってないか。

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奇跡も語る者がいなければ

奇跡も語る者がいなければ

 静謐なプロローグ。読者の眼前には今まさに眠りに就こうとする街の全景が描き出される。街のあちこちで鳴り響く警報器の音が、まるで人手の足りない孤児院で泣きわめく赤ん坊の声のよう。おっと、やるなあ。騒音にまみれた街の情景が活写されているじゃないか。このくだりだけで、『奇跡も語る者がいなければ』の作者、ジョン・マグレガーが卓抜な比喩の使い手であることがわかる。

 続いて、とある通りで起きた事件を描く断章が挟まれる。ただし、事件のあらましについてはまったく語られることがない。作者は、もどかしいほどの遅さで事件に至るまでの一日の出来事を書き綴っていく。その中で少しずつ情報が明かされるのだ。ここが貧しい地区で、非白人や学生の住人が多いこと、この日が英国の学制ではは年度の最終日であること、などなど。でも事件についてはゼロ。

 実は、作者はもう一筋の別の語りを準備している。事件の目撃者である「わたし」の、事件から三年後の物語だ。これがまたもどかしい。彼女は何かの問題を抱えているようなのだが、それが何か、一向に語ろうとしないからである。結局全体の三分の一まで読み進めたときに問題の正体は明らかになる。だが今度は三年前の事件と現在との関連性がわからない。作者はなぜ二つの時を並列で語ろうとするのか。これがおそらく読者に提示された最大の謎だろう。

 ただし推理は可能である。たとえば、現在の物語の主人公は自分の過失で手に怪我をするが、三年前の物語にも手に火傷を負った男が登場する。二つの物語は音楽で言うところの対位法、すなわち主旋律を副旋律が補う方式で綴られているのだ。ここで効いてくるのが作者の比喩の力。通りの住人は漫然と造形されたわけではなく、それぞれが隠喩的な意味を担っている。その隠喩こそ主副の物語の交差を示す鍵なのである。それを頼りに、ミステリーよろしく頭を働かせつつ読むこと。間違っても解説から読んだりしちゃだめだぜ。

 謎に物語を牽引させるという手練の技を駆使する作者だが、二〇〇二年の本書がデビュー作。にもかかわらず、これでサマセット・モーム賞とベティ・トラスク賞をダブル受賞した。この小説はイギリス人なら誰でも知っているある事件から想を得て書かれたものらしい。しかし、そんなことを日本人読者は知らなくてよろしい。単一の着想にすべて還元できるほど底の浅い物語ではないからである。

 本書の登場人物は、ほとんどが名無しの存在だ。冒頭の情景が無名の人々の眠る街の情景であったこともそこにつながっていて、作者はこの小説から固有名詞の特異性を可能なかぎり消し去っている。どこの誰にでも起こりうる出来事として、これを物語るためだ。個人を超越したものについて語るからこそ、本書には奇跡の二文字が冠されたのである。恋人が死んだりエイズに罹ったり、我が身の不幸「だけ」を泣き叫ぶ小説に飽きた読者にぜひともお薦めしたい。

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マミー、そばにいて

マミー、そばにいて

 著者は、2003年3月15日にがんのために亡くなったプロレスラー・冬木弘道の妻。冬木の死後、冬木軍プロモーションの代表取締役社長として表舞台にも顔を出していたので、一部のプロレスファンにはおなじみ。

 私は冬木弘道というレスラーが好きで、二冊ある彼の著書も読んでいる。冬木薫氏はもともとプロレスファンではないとあって、プロレス側の描写はほとんど無く、ここで語られる冬木弘道像は子煩悩で内弁慶な家庭人である。冬木は理不尽大王を名乗っているけど本当はいい人! というコンセンサスがファンの間には広まっているので、意外性はほとんどない。

 後半で語られている闘病生活は凄絶で、特に最初の直腸がん手術の話は読んでいるほうが眩暈を起こすほど。へそからメスを入れて、文字通り尻を半分に割ってしまい、そこから直腸を摘出するのだ。うわっ、今年は絶対にがん検診受けようと思った。手術のあと、抗がん剤治療がいやで、インチキ民間治療にはまりまくった話も冬木の本質である気の小ささ(興行を見た人にはわかるけど、ものすごい照れ屋だった)が現れている。都内の本業は宝石屋のインチキ治療師、誰だろう。指圧でがんは治りませんから。みなさんも気をつけてね。

 終盤に出てくる破壊王こと橋本真也がやたらとかっこよく、後書きでも橋本とZERO-ONE(橋本のプロレス団体)に謝辞が捧げられているのだが、この本が出た時点で橋本はZERO-ONEを離脱してしまったのだった。その背景には女性問題があるとの噂も。残念。

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食い意地クン

食い意地クン

 椎名誠は友人沢野ひとしが食事をするさまを指して、「食い込む」と表現した。のこぎりが切断しようとする木の面にぐいはまっていく感じ。私は久住昌之の食事のさまを、「食い急ぐ」と表現したい。「生き急ぐ」という言葉があるが、あの食事版。志なかばで斃れた高杉晋作のように、「食い急ぐ」。高杉晋作は明治の夜明けを見ずに亡くなったが、久住昌之は「鰻重」を七割方食べたところで食欲を満足させてしまうのである。「食い急ぐ」からだ。

 当代随一の食エッセイスト、東海林さだおが漫画・文章を通じて使っている表現に「アグアグアグ」がある。ものを咀嚼する音だ。誰も東海林以前に「アグアグアグ」とものを食べた人はいなかったはずだ(ちなみにビールは「ウグウグウグ」)。久住の食表現で好きなのは「吸い食い」というやつだ。食い意地のあまり、口が迎えに行く。おなかが空いているから「ねこまんま」だって吸い食いしちゃう。下品だ。わかっていても停まらない。

 このエッセイ集は「問題小説」に連載中の「食い意地」の単行本化で、イラストが差し替えられるなど、若干の加筆修正がされている。毎号楽しみに読んでいる連載なので、この単行本化は非常に嬉しい。全二十八篇、食い急ぐさまをぜひご覧頂きたい。

 私は久住エッセイの真面目な読者ではないが、泉昌之ユニットで久住さんが出てこられたころから続けて読んでいる。泉昌之漫画の原作をやっておられたころは、「ボク」という一人称の似合う印象だったのに、単独活動になられてからは「俺」の人になられたのでちょっとびっくりした。この本でもかなりの俺主張があり、そこが可笑しい。「納豆のおいしさがわからないなんて、日本語が通じないようなもんだ」とかね。俺語りでありながら、自分がそこまで偉い人ではないということを自覚する節操もあり、したがって読後感はすっきり。一言で言えばこなれがよくて、腹が減ります。読後、午前五時だったのにそのまま走って立ち食いそば屋に行ってしまった。食い意地爆発。

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アジアのいかしたTシャツ

「アジアのいかしたTシャツ」http://sunao.s2.xrea.com/の単行本化。

 アジアのうさんくさいマーケットを歩いていると、怪しいプリントTシャツに出会うことが多々ある。ピカチューやドラえもんのばちものTシャツなどは定番。うちにあるTシャツでも、ピカチューがシンナーを吸ってラリっている「トケモン」というものがある。

 この本は、そうしたプリントTシャツのうち、あまりのセンスの突飛さに「いかしてるぅ」と唸らされてしまう物件を写真つきで紹介するものだ。たいがいが雑誌記事や商標などから無断で転載されたもので、元の日本語の意味を無視したデザイン柄として言葉が扱われているのである。日本人なら絶対に採用しようとしないであろうセンスが抜群。定価1000円は正直高いのだが、一唸り100円として、10唸りでもできれば元はとれるのではないか。私が唸らされたのは、

1:「宝生舞のサンダル」(アイドル系グラビア雑誌のプレゼントコーナーキャプションから抽出された模様)
2:柳葉敏郎のインタビューコメントがそのままプリント(長文につき自分で確かめてください)
3:「しょうじょだいすき」(逮捕します、というコメントが可笑しい)

 といったTシャツ。あと「レディーの参考書女性セブン」というTシャツは自分で着てみてもいいなと思いました。

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古川日出男『gift』集英社

『gift』

掌篇・超短篇・ショートショート。今はどんな呼び方が好まれるのかな。2001年から03年にかけて、小説すばるに不定期掲載された短い小説を集めた作品集。単行本化にあたって、3篇が書き下ろされている。『アラビアの夜の種族』の裏で、こんなのを書き続けていたんだね。

古川日出男の小説は、神の恩寵として描かれるような類の奇蹟を、神の不在を疑いながら語るようなところがある。つまり感じやすくて頑固だ。19のストーリーの中で19の奇蹟が語られる。どれもが極めて私的な奇蹟である。ポップカルチャーの事物を器にして顕現する奇蹟があり、死ぬほどの孤独を体験して初めて体感できる奇蹟がある。極私的。神はうちのラックに並んでいるCDケースの中に宿るとでも言いたげに、身近。あえて言うなら、恋人以外とはともに体験できそうにないほどに閉じている。それだけに、心地よく包まれるような優しい感触があるのだけど。

卓越したユーモアのセンスにも言及せねばなるまい。「台場国、建つ」の、水没したお台場に取り残された人々が、独自の言語を獲得していくエピソードなど死ぬほどおかしい。神によって統一言語を奪われたバベルの塔の裏返しの話なんだけど、その人々が取り残された場所が、よりによってあの大観覧車なのだ。「ベイビーバスト、ベイビーブーム 悪いシミュレーション」の底意地悪い皮肉にも痺れた。言い切りというか言い捨てというか、作者がふっと顔を覗かせて吐き捨てるようなウイットの台詞は思わず真似をしたくなるほどに効果的だ。でもなかなか「アルパカ計画」のようには書けないはず。

とにかく、ひとつひとつ引用したくなるほどに印象深い文章なのだ。「入り海の浅瀬では鱶が眠っている。人間を襲う種類ではない。十数匹が身を寄せあって、仲間の尾鰭に顎をのせたり、頭と頭をぶつけたり、角度をつけて添っているので、「へ」の字を描いたり、あるいはそれが「サ」の字だったりする/さっきから数えているが、どうしても正確に何匹かが把めない/頭が一つで、尾が二つの鱶がいるような気がする」……あああ、駄目だ。「ぼくは音楽を聴きながら死ぬ」の一節を引用したら、停まらなくなってしまった。こうして書き写していて、本当に楽しい文章なのだ。淫している、作者も読者も。
新大阪から新横浜に向かうのぞみ号の中で、これを読んだ。少し読んでは眠り、少しページを繰ってまた眠った。

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