さきほどネットのニュースで、芸人の春一番こと春花直樹さんの訃報を知りました。
享年47はあまりにも早く、若すぎるでしょう。無念であったろうと思います。
哀悼の意をこめ、過去に書いた春一番『元気です!!!』(幻冬舎)の書評をここに再掲いたします。
ゲッツ板谷さんの公式サイトに連載させてもらっていた、「杉江松恋のチミの犠牲はムダにしない!」という書評コーナーに新刊当時に書いたものです。これを読めば、春一番という芸人がいかにトンパチであったかがわかるはずです。
私にとってあなたこそが最高の「アントニオ猪木芸人」でした。
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杉江松恋のチミの犠牲はムダにしない!
第17回「元気です!!!」春一番(幻冬舎)
私の中で春一番が「ひょろひょろの肉体のくせにアントニオ猪木の真似をしている変な芸人」から「唯一無二のアントニオ猪木芸人」に格上げされた瞬間を覚えている。故・ナンシー関さん(注:言わずと知れた、棟方志巧と並ぶ青森県が生んだ名版画家。二〇〇二年没)が、春一番について書いたコラムを読んだ時である。
忘れもしない、と言いつつしっかり忘れていたが、一九九三年二月のことであるらしい。当時まだ小さい版型だったプロレス・格闘技専門誌「紙のプロレス」(現・kamipro)に、ナンシーさんが連載を持っていたのだ(注:第二号から第七号。このころの同誌には高田文夫や浅草キッド、糸井重里も連載を持っており、サブカル誌の匂いがした)。第六号でナンシーさんは、ジャイアント馬場と猪木のものまねが記号化しているということを書いている。そして、関根勤の馬場と春一番の猪木だけが別格だと指摘したのだ。ちょっと引用しよう。
――関根は極力「ぽぅ(注:あ、ぽぉとも表記された馬場特有のリアクション。新日本プロレス出身の橋本真也は、全日本の至宝である三冠ベルトを奪取した際、額からダラダラ流血したままこのものまねをやり、記者たちを大爆笑させた)」を使わず、顔や体の表情や、例の額に手をやる以外の仕草でまねる。春一番は、「えー、皆さん――」から始まる猪木の素の喋りを最も得意とする。両者ともリング以外の馬場・猪木(たとえばクイズの回答者席での馬場とか、国会で代表質問に立つ猪木とか)をまねることができる。それもきわめてリアルなアプローチによってという点はすごいと思う。
そう、すごいと思った。春さん、すごい。それに気づいたナンシーさんもすごい。ナンシーさんは続けてこう書いている。「関根は馬場以外にも青木功や輪島功一、曙といった一貫したポリシーに基づくものまね芸があるが、春一番は猪木以外のネタを見たことがない。いや、猪木じゃない時の春一番さえ見た覚えがない。春一番、何だろうこいつは」(『何をいまさら』角川文庫)。
漫談家、だったのだそうである。しかし芸能人としてのデビュー作は、意外なことにドラマへの出演だった。それもNHKで、これが初となる主演は江口洋介(注:代表作は「あんちゃん」で人気を博した『ひとつ屋根の下』、もしくは『救命病棟24時』? しかし映画初主演作の『湘南爆走族』のリーゼント姿が好き。ちなみに共演の織田裕二のデビュー作だ)。似合わないけど、それなりにわけがある。当時の師匠だった片岡鶴太郎が教師役で出演していたので、生徒役がまわってきたのである。ペリカン(注:一九七六年に対戦したモハメッド・アリが猪木につけたあだ名。アリはショーマン・スタイルの元祖であるレスラー、ゴージャス・ジョージと、その後継者のフレッド・ブラッシーに心酔しており、彼のビッグマウスの原点はプロレスにあった。詳しくは柳澤健『1976年のアントニオ猪木』参照)の真似をする芸人の師匠が鶴というのもおもしろいね。
もちろんそれは単発の仕事で、春一番は番組の前説を務める漫談家としてしばらくは過ごしていた。それが突然猪木化したきっかけは、一九八八年八月八日、アントニオ猪木が弟子の藤波辰爾(注:木村健吾、橋本真也と並ぶ、唄って闘えるプロレスラー三羽烏の一人。温厚な性格で決断力に欠けるため、新日本プロレスリング社長時代はコンニャク呼ばわりされたこともある)と引退を賭けて闘ったIWGPヘビー級タイトルマッチである。春一番にとって、その日が初の猪木生観戦だったそうである。小学校のころからアントニオ猪木に憧れ、卒業アルバムの「将来の夢」に「俺はアントニオ猪木さんそっくりのプロレスラーになるのだ」と書いた男にしては、ずいぶん遅れをとったものだ。
しかし、その試合で運命が決まった。試合からしばらく経って、春一番は猪木のまねを始動させたのである。初披露は所属していた太田プロのライブ。春一番が猪木、神奈月(注:武藤敬司や馳浩という持ちネタもあるものまね芸人。最近は武藤敬司とのタッグで本物のリングにも上がっている。対戦相手もプロレスラーと芸人のタッグで、三沢光晴に扮したイジリー岡田、蝶野正洋になった原口あきまさらが務めている)が長州力(注:革命戦士と呼ばれ一世を風靡したレスラー。最近は長州小力の出現により十代の小娘にも名前が知れ渡るという逆転現象が起きているようだ。名門専修大学でアマレスをやっていたが、韓国籍のためにミュンヘン・オリンピック代表に選ばれず、韓国代表で出場した。そのオリンピックでは、テロリストに襲撃された部屋のすぐ前に泊まっていたらしい)になり、猪木VS長州戦を再現したのだ。
奇しくもこのライブには、『キン肉マン』の作者ゆでたまご(注:代表作は他に数々あるが、『必殺仕事人V』第九話「主水、キン肉オトコに会う」の回にゲスト出演し、仕事人ワナビーな若者を演じていたのにはびっくりした)の一人である嶋田隆司や、ロックミュージシャンの甲本ヒロト(注:浅草キッドの水道橋博士の同級生だったことでも有名)が観覧に訪れていた。芸人・春一番が、自らの身に訪れる春の足音を聞いた、それが最初の夜だった。
『元気です!!!』は、世界で唯一人のアントニオ猪木公認芸人、春一番による自伝である。アントニオ猪木コピーの芸人は増えた。アントニオ小猪木がいるし、アントキの猪木がいる。しかし公認芸人は春一番だけである。とある理由から春一番は猪木とプライベートで親しくなり、現在では一緒にカラオケにも行くような仲になのだそうだ。これはファンには有名なことだが、猪木は駄洒落好きで記者会見などでもしれっとした顔でくだらないギャグを飛ばすことがよくある(くだらなすぎて、それがギャグだとわからないときさえある)。そういう猪木だから、春一番を気に入ったのだろう。冗談で、「俺も春一番の弟子になろうかな。春二番としてどうかな」と言ったところ、春一番の奥さん(マネージャーでもある)に「じゃあ鞄持ちからやってください」と返されて、本人を青ざめさせたこともあるそうだ。もちろん猪木は怒るどころか大受けだったのだが。
こうして書いていくと「なんだよ、よくある芸人の成功話かよ。ツマンネ」と切り捨てようとする者もあるだろう。だが、春の芸人人生は平坦なものではなかったのである。第一に上の者との縁が異常に薄い。所属していた太田プロをある日突然クビ(仕事を干されたわけではないので、自由契約になったというところか)になったと思ったら、師匠の鶴太郎には「お前がちゃんと売れっ子になるまで二度と俺の前に顔を出すな」と破門されたという。泣きっ面に蜂とはこのことだ(もっとも鶴太郎による、食えない芸人を真人間に更生させるための愛の鞭だったのかもしれない)。
どうやら春一番は、生まれつき根無し草の宿命を背負っているようである。本書で紹介されているエピソードを見ると、十代のころはかなり無軌道な生活をしていたということがわかる。中学校の卒業式直後に万引きをやって逮捕、高校入学前にバイクを乗り回し、窃盗と無免許でまた逮捕。当然のことながら高校でも札付きのワル呼ばわりだ。扱いがそうなれば当然行いもふさわしくなっていくわけで、高校は最初の一学期だけで中退。十六歳にして一人暮らしを始め、JRのキヨスクに甘栗を納める仕事に就いた。楽しみは仕事の後の酒。すでに高校入学時からビールを一晩に三リットルぐらいは飲んでいたが、肉体労働をはじめ、さらに酒好きに拍車がかかったのだ。キヨスクの販売員にもモテたという。いわく、「出入り業者で私みたいに若いのはめずらしかったから、十六歳の美少年は「甘栗坊や」と呼ばれて人気者だったのである」「キヨスクガールたちの、甘栗よりも甘いクリをたくさん味わわせていただいた」。
酒と女と肉体労働の日々。ノー・フューチャーだ。失礼ながら、春一番の風貌には見過ごせない影がある。芸人として雌伏の期間が長かった理由はそれだと思うのだが、どことなく「ならず者」の臭いがするのである。そういえば本書で春はセックスのことを「交尾」と書いている。その適当さが、いかにもならず者。街道で娘をかどわかす、雲助みたいだ。
春は一度ならず体を壊しているのだが、あのビートたけしが「春一番に炊飯器を買ってやれ」と金を出したという逸話が残っている。酒ばかり飲んで痩せ細っていくのを見かねたのだ。春はその金で炊飯器を買ったはいいもの、米を炊かずに保温状態の釜で酒の燗をつけていた、という伝説が残っている。春によればそれは作りで、途中で誰かが金を懐に入れてしまった、というのが真相らしい。
そのビートたけしとの出会いが、春一番の運命に明暗の大きな濃淡をつけた。「明」はあの『お笑いウルトラクイズ』(注:2007年元旦に復活を遂げた、テリー伊藤プロデュースの奇跡の番組。ダチョウ倶楽部、出川哲朗など、この番組をきっかけに人気を獲得した芸人は多い)に出演したことである。同番組の名物企画に、芸人がプロレスラーに試合形式で挑むクイズがあるが、それに出演して、受けたのだ。レスラーによってボロボロにされた春一番が「えー、今回も負けてしまいましたが」とマイクを持つ姿をご記憶の読者も多いだろう。猪木ものまね芸人としての春の知名度は上がった(注:猪木の「1、2、3、ダーッ!」を一般に普及させたのもこの番組の春一番のものまねだ)。
しかし、禍福はあざなえる縄のごとしとはよく言ったもので、春が人生最大の危機に落ちたきっかけも、『お笑いウルトラクイズ』だったのである。あるときの『お笑いウルトラクイズ』で春はウィリー・ウイリアムズ(注:猪木と異種格闘技戦を行った元極真所属の空手家)と対戦し、カレールウの粉まみれにされた。その粉がまだ落ちきらないうち、さらに「金粉ダジャレマラソン」という企画で金粉まみれになった。それが引き金になり、乾癬という病気にかかってしまったのだ。乾癬には免疫抑制剤が処方される。ところがその薬を飲み始めてからしばらく経って、春は洒落にならないほどの体の異常を訴えるようになるのである。
――いちばん異常に思ったのは、キンタマがデカく腫れていることだった。(中略)夜店で売ってる水風船のヨーヨーみたいにキンタマがふくらんで、チンポがめり込んじゃってヨーヨーの結び目みたいだ。
というのだから穏やかではない。かつての春一番はチンポを出すことを笑いの基本としていた。曰く「私が好きなのは、さりげなく出すチンポだ。キンタマだけ出すのはさらにオシャレである。たとえばカラオケに行った時、『娘よ』かなんか唄って、「嫁にいく日が~♪」と涙ポロポロ流して熱唱しながら、下を見るとズボンからキンタマだけポロッと出てる。これは結構ウケる」。そんな珍芸に一家言あった芸人の珍が実に「さりげなく」ない状態になってしまったのである。結局春は肺膿腫という肺に膿が溜まる病気になる。免疫抑制剤のせいで、体の免疫力が異常に下っていたのである。HIVの疑いもかけられたというが、当然だ。薬のせいで「後天的免疫不全症候群」に陥っていたのだから。
二〇〇五年十月、春一番は病院の集中治療室で譫妄状態に落ちた。マネージャーでもある妻は、医者から「最後に会わせたい人がいれば今のうちに呼んでください」とまで言われる。完全に、さじを投げられていたのだ。そのとき彼女は大きな賭けに出た。春一番をアントニオ猪木に会わせようと考えたのである。猪木は現在ロサンゼルスに住んでいるが、偶然にもそのとき来日していたのだ。連絡がつき、猪木が春一番のいる病院にやって来た。
そして、奇跡が起きる。なんと、集中治療室で猪木に出会った春一番は、息を吹き返してしまうのである。漫画のようにありえない展開は、ぜひ本書を実際に手にとって読んでいただきたい。意識が混濁すらしていた春一番がみるみるうちに回復し、病院の人たちに泣いて喜ばれるというエピソードは本当に美しい。何度でも言うが、奇跡である。きっと春一番という歴史に残る「アントニオ猪木芸人」に、神様がくれたごほうびなのだ。不運続きのこれまでだったが、彼の人生にこんな日があったっていいじゃないか……って、それは猪木じゃなくて長州力の台詞か。
(本書のお買い得度)
本書には、書評ライターにして名インタビューアである吉田豪氏のマニアックな注がついているので、それもお楽しみの一つである。ちなみにこの書評の注は、なるべくその注とは重ならないように書いてあります。なに、注が多くて読みにくかったって。それは正直、スマン。だがまあ、これでいいのだ。春一番という特異なキャラクターを味わうためには、どうしても注による補強が必要なのだ。吉田豪氏の注も、だから必読なのだ。この注だけでも三百円分くらいの値打ちはあるよ。定価千三百円は安い!
ちなみに本書でいちばん気に入ったエピソードは、あの藤原嘉明選手(注:通称組長。盆栽や似顔絵描きの才能でも有名)が、バラエティー番組で共演する春一番に、本番前にアントニオ猪木の真似をやってくれるよう頼むという話である。春一番が猪木になって「おぅ、藤原……」と囁く。すると組長は、「いいなあ、その声聞くとシャキッとするんだよ」と言って本番に出て行ったという。